can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

自己紹介と執筆方針

どうも。ザムザ・B・プルースト(ざむざ・ばーとるびー・ぷるーすと)哲楽どおる(てつがく どおる) と言います。
 
ブログで書くということに興味が湧いたのではじめました。
この記事ではまず、手短な自己紹介と、記事を書くうえでの執筆方針などを書かせてもらいます。
 

 

 
 
自己紹介
 
ぼくは本を千単位の冊数を所有しているくらいの本好きです。学生時代から何を措いても出かける先は古本屋といった生活をしていました。今では古書展などに行くことを自粛したり図書館で済ませたりなどしていますが、本は買うのも読むのも積んでおくのも好きです。財政状況と保管場所の悩みは本に憑かれた宿命と思ってます。。
何を読むのかというと、自分がおもしろがるものを手繰るようにして本を読みます(まぁ当然ですよね)。おおむね哲学科だった学生時代に触れた人文系の本で読書歴および書架は彩られていると言っていいでしょう。
 
 
〝自分がおもしろがるものを手繰る〟と書きましたが、それは読書の話だけではなく、映画や絵画、音楽やフェチのようなものまでさまざまです。言ってしまえば「自分はいったい何をおもしろがれるのだろうか」ということに関心があるとも言えます。
昨今、動画共有サイトSNSなどもあり、「実際におもしろがっている人たち」を発見する機会に事欠かないですし。何かに取り組む動機の調達などもかんたんに出来るというわけです。
一例として、Twitterでの、Testosteronさんのつぶやきを真に受け、筋トレをはじめたりもしました。今では筋トレはぼくにとって〝おもしろいもの〟になっています。
つまりぼくはドラゴンクエストならぬ「おもしろクエス」をしているわけです。
 
 
「おもしろクエスト」はしかし、ぼくにとって切実なものです。
なぜなら、ぼくはときたま生きる意味を失調してしまうのです。うつ状態になってしまうのです。自分のことを特にメンタルが弱いとは思いませんが、集団行動などはとても苦手でして、自分の体の特性として、精神状態が不安定になってしまいやすいのだろうと認識しています。
ぼくを診断した医者の見立てでは対人不安症および社会適応障害とのこと。のちに自閉症スペクトラムとも言われますが、診断書などは受けておらず、発達障害を名乗るにもあやふやな立場にあります。
そんなこんなで体としてはなかなかに生きづらいものがあるという事情があります。そのことに抗して認知能力の向上や見聞を広めるための勉強、精神衛生状態への配慮、ライフハックなどには強く関心があるわけです。上述の「おもしろクエスト」はそこに掛かってくるひとつの人生哲学なのです。
 
 
創作活動などもします。
これもやはり精神衛生状態への配慮としてのライフハックに関わってきます。芸術家が「作らずにはいられない!」などと言うほどには大仰なものではないのですが、ぼくもまた考えていないと、作っていないと(主にメンタル的な意味で)沈んでしまうという感覚があるので、詩文や論考、小説などの文章作品を書いたりしますし、絵を描いたり、作曲をしたりなどをします。
この創作活動のために、半ば(人生を楽しむための)趣味的に、半ば(自分が自分であることで架される)義務的に、講演会やイベント、学会やシンポジウム、そして美術館や展覧会などに足を運ぶことがあります。
 
 
自己紹介の最後として仕事について触れます。
体のこともありいちおうおっかなびっくりではありますが、仕事はしています。村田沙耶香さんのコンビニ人間を思い浮かべてもらっても、あながち間違いではないと思います。
案の定、人間関係には大いに悩まされることがありますが、仕事場での人間関係から学ぶことも多く、おそらくはこのブログでも言及することがあることでしょう。
 
 
 
執筆方針
 
ブログにはぼくが考えたことを書いていくことになります。
学生時代に染み付いてしまった晦渋な言い回しを、そして厄介な文体を如何に嚙み砕いて書けるのかという修行も兼ねて。
 
 
筆者は、この記事においては一人称を〈ぼく〉として書き進めてきました。
しかし以降の記事では一人称に該当する言葉を(引用文中や筆者による殊更の言及がない場合を除いて)〈あなた〉および〈きみ〉と表記させてもらいます。
〈ぼく〉と〈おれ〉、〈わたし〉で印象が変わります。
筆者は、記憶のうえでは確かに自分が書いた文章だとわかるものでも、書き終わったものと時間的・心理的な距離が空くことで、自分が書いたものとわかっているのにも関わらずよそよそしく感じてしまう性格があります。
そのようなよそよそしさを帯びた文章が、ときに筆者に対して「おれだよおれ、覚えてないのか?」と迫って来ます。なので、そうした文章が二人称で書かれていれば、よそよそしいものである筆者‐文章の間隔を不自然な形でなく受け止められる…と筆者は考えます。
〈あなた〉と〈きみ〉のあいだにも微妙なグラデーションを感じているのですが、そこまでは「言わずもがな」ということで、あえての明文化を手控えることにします。
 
 
記事の内容に関しては筆者が現に興味のあること、かつて興味があったこと、今後興味が向きそうなことなどになります。
おもしろかった本や映画、イベントの紹介なども考えています。
「あれは良かった」「これはダメ」などの評論はしない方針で行きます。
評論は避けたいですが、批判や批評はむしろしたい方針です。
ここで言う批判や批評というのは、対象(他人や作品)に対して否定的であることではありません。対象に出会った自分が、その出会い以降の自分へと変容させられてしまったときの、出会う以前と以後の自分とを突き合わせてみることです。
以前と以後とで、どんな感覚の配線が繋がりあい、どんな思考の回路が開かれることになったのか。それを書き出してみる作業によって洗い出すこと。その作業によってまた体験の彫が深まり、感覚の襞が増えるような営み。理想像としてではありますが、そのようなものとして、ぼくは批判や批評を考えています。
 
 
なにぶん体の都合上、なにかと浮き沈むことがありますので、記事の執筆ペースは不定期になるかもしれません。執筆ペースが落ちているときには、哲楽どおる という浮きが大きな魚に喰いつかれて水中へと大きく沈んでいるのだろうと思ってください。(このイメージはデヴィッド・リンチのそれですね)
その魚を釣り上げることができたかどうかの判断は、(筆者自身をも含めた)未来の読者に委ねます。
 

 

_了
 

 

 

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