can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

哲学を取り戻す――古典としてのデカルト『方法序説』の読者になって

現代において古典を読むこと、哲学書の読者になることの意義について考えたもの。
人文系の大学に入学すると、初年次にたいてい読むことを勧められるデカルトの『方法序説』について考えることを通して、私は情報過多の時代に固有意味の深みを探索することを書きました。
 

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《語る》
デカルトの『方法序説』にしろハイデガーの『存在と時間』にしろ、古典として読み継がれてきた哲学書は難しく書かれてはいない。それが現在一般に難しいものであると見なされているというのは、そうした哲学書を難しく読み、そして、難しく語ってきた注釈書を出版する権能を持った専門的な読者のせいであると言える。つまりは哲学者、いや哲学学者のせいだ。
周知のようにデカルトは当時の最高学府とされた学院において修学していた。しかし本から得られる知識では世界を実感的にわかることはできないと判断し、彼は遍歴時代に入る。書を捨てて町へ出たのだ。そういった時間の幅が彼の哲学の背骨となっている。にもかかわらず彼の表現は難解ではない。あたかも小説のように読める。
わたしたちがデカルトから得られるもっとも尊い教えというのは、「最も大切なことは簡単な表現で以て書かれうる」ということなのではないだろうか。そうした〝小説のように読める〟という事実に依って、わたしたちは哲学と文学とを分けてしまっている現代に、言い換えれば、専門家とそれ以外とで分けてしまっている現代に、哲学をもっともっと文学らしいものであると納得していくことが重要なのである。哲学を哲学者から奪還しなくてはならない。
 
 
《読む》
デカルトは数十年にもわたり、いわゆる哲学的な探求をしてきた。ところがそうした長い時間を掛けて醸成された思考の精髄である『方法序説』は厚い本ではないので、読もうと思えば数時間で読めはする。鋭い人、いわゆる頭のいい人にとってはデカルトが書いたことを言葉としてすぐに理解することはできるかもしれない。しかしそうした理解は表面的な「情報の層」をわかった程度でしかない(という疑いを掛けられても文句は言えない。なぜなら彼はその本を書くに要した時間への敬意を、早くわかってしまうことによって欠いているのだから)。重要なのは「はやくわかる」ことなのではなく、「ながく考える」ことなのだ。
さらに言えば、本を読むことで大切なのは、むしろ何かを読めないという経験なのである。デカルトが用いる「良識」という言葉にしても、それが深く感じられるのは、〝良識が不足している〟という不足の経験を通して充足するという時間=プロセスを経てによってとなる。不足している時間は種子としての良識であり、〝自分の良識がわかる〟という時間はその種子が開花したことによって実感できるようになるのだから。
デカルトは『方法序説』のなかで「不完全な私」に気づいてしまう人間のことを述べている。そうした気づきを得るということは、どこかで「完全なもの」を知っていることを示唆する。「不完全な私」にとっては差し当たっては今の自分は完全なのではない。それをわかるようになろうとすることが勉強であり、旅であり、人生なのである。そうしたプロセスはしばしば人生経験とも言い換えられる向きもある。じっくりと時間を掛けた/賭けたプロセスが、言葉の上澄みのような「情報の層」ではなく言葉の深層としての「意味の層(コトバの層=阿頼耶識※)への接触を可能にするのだ。
(※カタカナで表記される「コトバ」は哲学者である井筒俊彦の用語で、「阿頼耶識」というのは仏教の用語。どちらも最も根源的な意識の層を指している。そうした根源的な意識の層が、わたしたちの世界ならびに自分というものの経験を可能にしている。若松英輔は『小林秀雄 美しい花』のなかでコトバを次のように説明する。「言語の形姿を脱したうごめく意味の塊りとしてのコトバ」。そして同じ個所で、詩が可能になることを「詩とは、言葉とコトバの織りなす協奏曲だといってもよい」とも述べる。ここでの〝言葉〟を「情報の層」に属しているものとして理解すると、言葉と「意味の層」であるコトバとは、詩という表現メディアから分離させることができないのがわかる。ここで一見対立しているかのように見えるのが、文字と意味であるということになる。しかしその両面は、表現が表現であることからは常に付かず離れずであり、表現の形式上は決して乖離することがないので、文字と意味の対立は実際の表現の場面では存在しない。)
 
 
《生きる》
デカルトの表現は〝素朴〟である。
「単純なこと」と「素朴なこと」は違う。単純にするというのは複雑なものの含意するところを粗くしてしまう場合が多い。つまり解像度が下がるのだ。素朴に表現することは、多様な含蓄を色々に帯びたことを、さらっと自然なふうに言うことである。そうした素朴なものに意味を見出せるようになると、問いを見つけることができる。問いは、わからないということへの気づきだ。この気づきはプラトンソクラテスが語る「無知の知」に通じている。
無知の知」はきわめて倫理的な態度だ。なにせ人はわかろうとすることで独裁者(※)の講じるわかりやすさを安易に真に受けてしまうのだから。差別や偏見にしても、そこにあるのは頭でわからないものをわからないままでいさせることへの抵抗であり、自分たちのコミュニティから分断することで、わかりやすい〈わたしたち〉というサークルからわからない〈あなたたち〉を排除することなのだから。「無知の知」はそうしたわからないものとの対話をする覚悟のことでもある。
(※ここでの「独裁者」は象徴的に理解することができる。SNSが社会インフラとして機能している現代においては影響力の大きさが、芸能人だけではなく一般人においても取り沙汰されやすい。そうした社会に、強い影響力は独裁者の主張のように、彼のフォロワーからは支持されうることを思えば、それはフォロワーにとっては自分が信奉する人の意見であることで簡単に感化されてしまうということも起こるだろうから。あたかも独裁的であるようにして)
デカルトが『方法序説』で公表している自らのやり方は、「多く知る」ことよりも「確かに知る」ことが大切である、というものだ。デカルトが示唆するように〝確かに〟知ろうとするなら、わたしたちは素朴な言葉に潜在している意味をわからなくなり、わからないからといってそれに意味がないとは考えられなくなる。そして「無知の知」に立ち返ることになる。しかしそのことが知ることの、そして生きることの〝確かさ〟を保証することにもなるのだ。
デカルトはわたしたちにとり、『方法序説』という本の著者であり、読者が彼を知ろうとすることは、いわば本そのものの人格としてわたしたちに読まれ現れてくることになる。その本=著者はしかし最も善く陶冶された人格なのだ。それが古典というものである。古典には濃密で深淵な時間が流れている。著者の生きた時間、そしてその著者を形成した著者以前の時間があり、そして古典としての著作を読んできた読者の時間もまたそこにはある。現代において古典を読むわたしたちはそうした連綿たる時間の〝情報を読む〟のではなく、〝意味を生きる〟ことを念頭に置いて、古典を読まなければならない、いやいや、むしろ生きなくてはならない。少なくとも古典としての本は、わたしたちにそれをただ読むことを要求しているのではなく、生きることを求めているのだから。それはいつの時代も現代の問題として再演されることになるような意味なのである。
 
 
《良識》
そして、良識はわたしたちに委ねられた問いとして提示される。
本を読むときに、著者は読者であるわたしたちに何かを語る他者である。他者は自分ではない。にもかかわらず、小説のように読める哲学書――この場合『方法序説』――はわたしたちを魅了し、他者であるような著者へとわたしたちを誘惑する。哲学書ならずとも広く古典はその最上の魅力的な他者なのだ。わたしたちは読むことを通じて彼を造形する。その造形にはセンスがいる。あるいはセンスはその造形によって涵養される。
センスは磨くことができる。わたしたちが生育発達の過程で母国語を習得していくように。そうして生きていくなかで磨かれたセンスによって、わたしたちは世界と関係することができ、人間関係を形成することができるようにもなる。それは地図のような世界や人間関係の図のなかに、自分を書き込むことのセンスでもある。ここで要求されているセンスというのは、実は他者を造形するセンスなのだ。
法が機能しているということは、法に準じているような人間を思い描けなくてはいけない。他者の造形である。何をしてはいけないのかをわかっているということは、それをしてしまうキャラクター(違反者像)を造形しているということなのだから。そのアイコンは他者として描かれる。それは自分にも適用させられるような他者なのであり、その意味で、自分もまた他者と互換性のある他者でもあるのだ。他者を造形するセンスが、自分が生きることになる方法を決定するのである。
センスは「感覚」のことだ。デカルトの母国語であるフランス語では「サンス sens」であり、それは「感覚」や「意味」更には「方向」というニュアンスを含んた言葉である。彼の「良識」もフランス語では“Bon Sens”という。“Bon”は英語での“Good”という意味である。英語だと“Good Sense”。つまり「良いセンス」だ。
良いセンスとしての「良識」をわたしたちは、確かな他者を造形できるかどうかということに当て嵌めてみよう。その点から、良識は「無知の知」がそうであるような自己自身への問いとして理解することができる。なぜなら、「はやくわかる」ことは望ましくはないので、長いあいだを辛抱強くわからながれることこそ、他者を他者のままに他者としてもてなすことに繋がるのだから。〝他者を他者のままに〟というのは自分自身の内情に他者の全てを収納できないということである。同化しきれない部分の発見。知れば知るほどにわからなくなるというのは、わたしがわたしであるということでわたしにとってわたしではないものがある――という真実に気づけることだ。
良識はつねに不足への気づきというかたちを取る。その不足は他者の造形に基づく。他者が自分と同化可能な他者として造形されるのならば、そこには自分との比較考証の余地はなく、他者は容易に自分と交換可能な存在になる。それゆえに良識は他者の造形に関わるものとなる。
こうして、良識はわたしたちが生きられる問いのかたちで提示されている。
 
 
_了
 
 

 

方法序説 (岩波文庫)

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方法序説 (ちくま学芸文庫)

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