サスペンスドラマがつまらない
サスペンスドラマがつまらないなぁと感じるので、手指に「なぜそう思うんだい?」と問いかけてみたところ、さっこん何かと重視される「リーダビリティ」だの「わかりやすさ」だのといった鍵語が浮かびあがってきた。その消息を辿るうちに、わたしの苛立ちは「わかる」ことの「わからなさ」にあると気づく。――そういう話。
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サスペンスドラマはたいくつだ。
サスペンスドラマはたいくつだ。。。
わたしは、そう感じるようになった。
ここで言うサスペンスドラマというのは殺人事件モノのこと。
その印象の内訳を書いてみる。
あれは見るものをバカにしている。
ライトモティーフは、これだ。
リーダブルでチープな犯行動機。
時間的な尺が1時間、せいぜいいって1時間30分という都合もあってか、単純な恨みつらみでの凶行を行う犯人。
起承転結、序破急。
わたしは「わかる」こと、いや「わからせる」ことに重きを置いた構成が嫌なのだ。
「まったく人間ってものをバカにしてる!」
――とさえ思う。
たしかに現実社会で報道される事件はわかりやすい。
とはいえあれは実際の事件がわかりやすいというより、マスコミが事件を報道する過程で、わかりやすい物語へと事実を落とし込んでいるのがある、とあたなは踏んでいる。
小説の評価基準で「人間を描けているかどうか」などという謂いがある。
その観点で言えば、現実の事件を報道するマスコミは、人間を描けているのだろうか?
イエスであり、ノーである。
イエスというのは、マスコミが描く物語には十分に大衆が共感可能であるという点で。
ノーというのは、当事者の生活感覚の機微を表現しえていないという点で。
凶悪事件、とくに殺人まで犯さなければならないような感情の昂ぶりが当事者に起ったような場合だと、「感情」というより「情動」、いや「衝動」と言うほうが適切な動機の説明が許される。
そうした衝動的な犯行が起こる場合、部外者に理解されるのが容易な説明が「痴情のもつれ」や「金銭トラブル」、言い換えれば、愛と憎にまつわる事情だ。
人間は複雑であると言っても、統計的事実から導かれる理論的枠組みに当て嵌めると、いたってシンプルな整理ができてしまうのもまた人間だ。
多く、ひとはシンプルであるほうを好む。
難しい課題よりかんたんなタスクを選ぶ。
理解できないひとより気心の知れた仲間と飲む。
とーぜんだ。
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「わかる」における言葉のあわい
共感と理解の一致
わからないことは十二分に心理的負荷になる。
だが、「わかりやすさ」は「わからないでいる」ことの価値を抑圧する。
SNSでの炎上も、共感できない言動への吹きあがりだったりする。
原因となった投稿の道徳的是非は問わないにしても、非難の声をあげる人々は元の投稿の当事者ではないという理由で無際限に「なぜそれをしたのか理解できなかった自分」を投げつけるようにして押しつける。
そこで無視されている当事者の状況というのは、ほとんど〝自分が共感できるかどうか〟に漏れているがゆえに、無理解をこうむっているようでさえある。
こういった事態の傾向は、「共感すること」と「理解すること」とが同じレベルに並んでしまい、場合によってはほぼ同じ事態であるという姿勢を強めることになりはしないだろうか。
そういえば、わたしたちは「ひとの気持ちがわかる」という場合に、〝わかる〟に「共感する」というルビを振っているのか、それとも「理解する」というルビを振っているのか。
それとも、どちらともに言葉をほどくことができるような曖昧な連続体として、「わかる」という言葉を発しているのだろうか。
わたしは連続体として、という考えを支持する。
わからないからこそ、という動機
たとえば、カミュの小説の多くは「わからない」。
カミュの、たとえば『変身』や『異邦人』などの状況は、よくわからない。
『変身』のザムザはある朝目覚めると毒虫になっているし、『異邦人』のムルソーは自分が殺人を犯した動機を「太陽のせい」にする。
不条理文学と呼ばれているそれらの作品の主人公、および主人公が見舞われる出来事は、理解できず、ともすると共感もできない。
わかることを禁じているかのような、わかってはいけないかのような、不気味な現実を、現実の不気味さを描いているように、わたしは見る。
にもかかわらず、おもしろいのだ。
そう、わたしにとってサイコーの動機は、「太陽のせい」なのだ。
多くのサスペンスドラマには、そうした不条理がないのだ。*1
書店でつねに他のジャンルの本と比べて売れ行きがいいのはサスペンスドラマの原作となるミステリー小説であると聞いたことがある。
その理由は、ミステリー小説だとそれが謎だとわかるような謎が提示され、その解決までも保証されているから、「わかりやすい」からだとも聞いた。
しかし、それらの多くは消費の書にはなれても、座右の書にはなれない。
わかりやすいものには、何回も反復させる求心力が弱い。
吉本隆明がどこぞで書いていたところを信じれば、よい文学作品は多様な解釈が許される。*2
よい文学作品は、読むたびに、それを読む時にあわせて違った表情を見せてくれるものだというわけだ。
その構えにはふたつの含みがあるように思う。
⑴良い作品は読んでわかったことの背後に、つねにそのときには読み取れなかった領域があるということ。
⑵たとえ読み取れなかった領域を読者が自覚していなくても、あるときにその不可解に取り組ませようとする心残りをもたらすということ。
仮にではあるが、以上の2点に信憑を見るとして、わからないものには、それがわからないことによってそれに何回でも取り組ませる魅力があるということにうなずくことができるだろう。
不可解の究極
かつて藤村操という青年は次のような遺書を記した。
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て
此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟に何等の
オーソリチィーを價するものぞ。萬有の
眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の
不安あるなし。始めて知る、大なる悲觀は
大なる樂觀に一致するを。*3
世に、『巌 頭 之 感』として知られる文言だ。
彼の自死の経緯は諸説あるのでとくに記述しない。
ただ、その遺書がわたしに与えるインプレッションはおもしろい。
なにせ藤村は「不可解」という煩悶を抱き、その悲観の究極に大なる楽観に一致すると宣っているのだから。
ひとの弱さを見つめて隣人愛を唱えたイエス。
ひとの負う世に生きることの苦しみを目の当たりにして慈愛を説いたブッタ。
話を大きくしてしまったが、「複雑であること(コンプレックス)と「単純であること(シンプル)」は〈ひとつごと〉としての人間にとって一致させられる、ということを、わたしに示唆する。
藤村が「不可解」に煩悶としたというのは、シンプルに言って「複雑である」がゆえの呻吟だろう。
しかしその究極である「死に臨む」情況にあっては、コンプレックスがゆえの悲観は大なる楽観に達している。
愛がなければ視えない
ところで、共感できなければ理解できないという立場を支持することは是だろうか。
わたしが既述しているところでは、「わかる」という言葉は、共感と理解の、言い換えれば感性に属する意味と理性に属する意味との連続体のようなニュアンスを持っている。
それは必ずしも日常の場面で、あざなった紐を解くように、共感と理解という別の言葉にほどく必要はないだろう。
ただ、「わからない」ことが対象の価値の零落を決めてしまうとしたら、「わかる」という言葉にひそむ感性と理性との境界線は意識したほうがいい。
作中で、キーとなるフレーズに「愛がなければ視えない」という言葉がある。*4
それは謎解きである当該ゲームにおける、作中で推理する人物に贈られる挑戦的なフレーズであり、同時に、ゲームを遊ぶプレイヤーに対する『うみねこのなく頃に』との付き合い方の指針を告げた言葉だ。
というのも、『うみねこのなく頃に』は、なぜ殺されるのかも、どのように殺されたのかもよくわからないのだ。
プレイヤーはよくわからないままにテキストを読み進めていくことになる。
「愛がなければ視えない」という言葉は、そうした暗中模索的なゲームプレイに、作者のほうから「愛があれば視える」ことの保証を告げ与えていると言えよう。
愛という言い方から「それならば共感できるものだけを見よう」という向きが生じることもあるだろう。
しかしそれは「見たいものしか見ない」式の生き方だ。
その意味で狭い。
『うみねこのなく頃に』のような「愛がなければ視えない」は、「見えないものも、それが見えていないという仕方で在る」ことを踏まえている。
そうした見えにくいものを見つめようとする姿勢を持つこと。
それが、本来の意味での「愛ありきの視る」こととなる。
〈こころ〉の不可解
冒頭の、わたしのサスペンスドラマへの印象に話を戻そう。
サスペンスドラマ、そしてマスコミ報道から見聞きすることのできる凶悪犯罪に、わたしたちは「愛がなければ視えない」などと身構える必要はない。
だが、何の気なしに惰性で「わかる」ことには、さしたる感動はない。
コンビニエンスストアでサプリメントを購入するがごとき、たんなる栄養補給にさえ見立てられるような番組鑑賞。*5
その程度の「わかる」ばかりを繰り返すことで、わたしにとって不可解は「存在しない」ことと同義になってしまう可能性がある。
「わからないもの」をスキップする習慣がついてしまうかもしれない。
すると自分にとって「存在しないもの」を存在させようとしてくる圧力に対して、反射的に反発してしまうようにさえなるかもしれない。*6
少なくとも、わたしにとってそうした事態はおもしろくない。
わたしを不意におもしろがらせるかもしれない諸々の事物が世の中に満ち満ちているというのに、ただわたしがそれをわからないからという理由で、それをわかる可能性を見限ることはしたくない。
だから、「わからないもの」も、わたしの風景に並べておきたい。
図書館の本棚に空の棚があるより、手に取ることが見込めないような本でもそこに並べておくほうがいいじゃないか。
だからこそ、わかりやすさだけを意識したかのような動機の明解さは、「わからないもの」を求める心性にとっては困りものなのだ。
それは冒頭で述べたように、「まったく人間ってものをバカにしてる!」のである。
なにせ犯行動機というのは、行動理由であり、人間にとって理由というのは〈こころ〉の領域に属する事柄なのだから。
〈こころ〉は安易に語るべきではない。
〈こころ〉を根拠に行動する人間を、短絡的にわかってしまうことになりかねない。
「わかる」には意味上のあわいがある。
人間の行動をわかるのはいいにしても、その心情はわからないでいること。
しかし、言葉上では、「わかるよ」と言ってやる。
極端に言えばそういうことだ。
その点に、「わからないもの」を見続けさせるものを名状することができる。
それこそが愛――悲観と楽観を結ぶもの。
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この執筆の結末
なぜわたしはサスペンスドラマをつまらないと感じるのか。
ゴールデンタイムに放送されるサスペンスドラマは、多くの場合に人が殺される凶悪犯罪が取り沙汰される。
その動機は愛憎にまつわるものがほとんどとなる。
たしかにひとが他人を殺害するに至るほどの激情に駆られるような事態は、愛憎関係に尽きるのかもしれない。
だが、愛憎という情動の極致を扱う人間ドラマだからこそ、安直な「わかりやすさ」で視聴者の「わかる」を供給しないでもらいたいのだ。
とはいえ、「わかる」ことも「わかりやすさ」も、サスペンスドラマの側というより、人間の目に掛かっている(もしくは「〝憑いている〟?)物語を認知させる眼鏡のようなもののほうに根拠を見ることができそうな気もする。
認知バイアス、すなわち、ひとが世界を見るその見方を取り決めてしまっているもの。
こうなってくると、物語論の出番になってくるのかなぁ。
作話の方法について執拗に啓蒙していた大塚英志の仕事も、おそらくは本稿でわたしが気になっていた「わかりやすさ」とそれを「わかること」に係わってくるのかもしれない。*7
だが、サスペンスドラマがつまらないというわたしの所感から、そちらに跳躍することはいささか横暴なので、ここで擱筆。
_了
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*1:わたしの記憶ではひとつ、日本のサスペンスドラマで動機のまったく見えない殺人があった。
2003年前後のあたりに見たテレビドラマだったのだが、だぶだぶのルーズソックスを履いた、当時ヤマンバと囃されていたギャルの数人が、廃墟の屋上から幼い男の子を突き落とすというもの。
あれは不条理すぎた。小学生だったおれも怒りを覚えた。
そしてその「わからなさ」に心底おびえた。
当時はたしかにヤマンバギャルという存在は、そういうことをしてもおかしくないような時代的雰囲気があったにしても。
*2:『詩人・評論家・作家のための言語論』(メタローグ,1999年)だったか、『ひきこもれ ひとりの時間をもつということ』(大和書房,2002年)だったかのどちらかだと記憶しているが、タイトルからしておそらく前者だろう。
*4:
*5:大塚英志の『物語の命題』(アスキー新書,2010)にはこのようなサプリメント的な効果を担うものとしての鑑賞観を採用する受容者に触れている箇所がある。たとえばp226
*6:内田樹の『下流志向』(講談社,2007,文庫版2009)を読むと、「知らないこと」が知らないままであることの不快感のない状態が分析されている。その分析によれば、そうした状態にあるひとにとっては「自分の知らないこと」は「存在しない」ことにしているという事情があるのだと言う。
*7:大塚英志は『更新期の文学』(春秋社,2005年)において近代の「再構築」を説いている。それは物語が持つ魔術化の作用を脱したものが合理的なものとしての近代であったはずが、実際はハリウッド映画に代表される「わかりやすいもの」が支配的になる現実の再魔術化が起っていることへの批判である。大塚の「近代のやりなおし」論の要点は、物語的なものが支配的になっているならば、物語論を各人が実装し、そうすることで、いま自分がどんな物語にノッてしまっているのかが批判的に理解できるようにすることを狙っている。いわば「わかりやすいもの」を「わかること」へのリテラシー能力の教育といえる。