can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

図書『夜と霧』よ今度もありがとう

わたしの人生において2度目の『夜と霧』体験をする運びとなり、いろいろ感じるところがあったので、キーボードに手指を置いてみた次第。執筆は3日ほど。言いたいことはないといいな。書いたことがあるだけ。でも意味はある。フランクルが確かめた人生の意味のように。たぶん。

 

 

 

強制収容所と『夜と霧』

 

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強制収容所。あるいは絶滅収容所。それにまつわる様々な名は、人類に引いては人類史に大きな深手を負わせた。それがもたらしたのは人間存在の定義に対しての強い揺さぶりであり、人間としての尊厳を徹底的になみする出来事を人類史に深く刻み込んだことだった。それは端的に人間の想像を絶した、表象不可能な世界をこの世界の一隅に現出させたのである。

人間への敬意を表した「主体」という表現がある。その言葉には行動を決定し、行為の主語として君臨する/させるに値するというニュアンスがある。現代、すなわち第二次世界大戦における強制収容所以降においての「主体」という表現は、人格的・人称的な「個」や「主体」を解体する経験を前提にせざるをえなくなっている。それは人間は人間であることを絶した存在へと零落すること/させられることが可能なのだという事実が露呈したからだ。表象不可能であるというのは、人間が人間であることの外側がたしかに在ることを予示する言葉なのだ。*1

人間は人間であることの外側で、はたして何を体験したのだろうか。それを経験したことで、人間はどのような人間になるのだろう。その場を体験したある心理学者は、後に『夜と霧』をものした。ヴィクトール・E・フランクル(1905-1907)。人生の意味を心理学した学者として知られている。

『夜と霧』は、読むものに多様な刺激を与え、非人間的な向こう側を予感させ、ときに垣間見させもし、そしてわたしの人生の意味に揺さぶりをかける。自己の深部に地響く震度でもって、人類の負った深手を読者に震撼させる。

わたしは『夜と霧』と共に、考えることにしよう。ときに、斯の書をピストルに見立て、銃口をこめかみにあてがうなどして。

 

 

元被収容者の感慨

 

 「高い代償であがなった感慨」と、フランクルは述べている。その感慨は目的ではなかった。それは予期されることもなく結果としてもたらされたものだ。〝結果としてもたらされてしまったもの〟と表現してもいいだろう。「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる」(p130)という『夜と霧』のメッセージは、その線から是となる。あるひとつの代償もプロセスであり、あるひとつの感慨もまたプロセスとなる。本書からわたしたちの多くがくだんのメッセージを受け取るとき、わたしたちは問いに答えを与えることではなく、問いの答えを問う姿勢こそが大切だと知る。

 

 

人間らしさと他者性のアルゴリズム


そして、わたしはポスト・ホロコーストにおける最良の人間の定義を知ることになる。フランクルは次のように、なかば祈りを唱えるような調子で述べるのだ。「人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。」(p145)
わたしたちは自らが人間であることをあまりに自明なこととして享受している。ときに自らの無自覚な人間の定義を、他人の言動を批判することにすら用いる。しかし人間らしさは自明ではない。形態が同様であるからと言って、そのひとが同質の「人間らしさ」を恃んで生きているとは限らない。そのひとの性格、生育環境、人間関係、言語感覚――それら諸条件が大いに彼の「人間らしさ」をこちらのものと異ならせてしまう。そうした目に見えない無数の〝あやなし〟が、目に見える部分によって隠蔽されてしまうことさえある。
他人の、自分とは異なる「人間らしさ」を他者と呼ぶことはたやすい。他者が他者であるという認識において重要なのは、相手の他者性を自分とは異なったものなのだと認識させているアルゴリズムが、自分が準拠している枠組みによって生じるものだと気づくことだ。ふちどりがこっちとあっちを分ける。そうしたふちどりを「物語」と呼んでもいい。「わたしたちは物語を生きている」という、あの聞きなれた教説を思い出しながら。

 

 

物語を生きる主体の成り立ちと誤魔化し


物語は主人公に一貫性があることが好まれる形式である。「わたしは歌手になるのが夢(――な自分)」や「あの娘と付き合いたい(――自分)」というのも立派にストーリー仕立ての結構を構えている。「将来の夢は何ですか?」や「弊社に入社して何をしたいですか?」などの問いに対する適切な答えは、往々にして「あなたはどのような物語を生きるつもりですか?」という問いにも対応する。そしてその物語を生きる主人公として、どのような筋立てを持っているのかどうか。それを問われることになる。
主人公としての「あなた=わたし」は、「物語を生きよ」という社会的な要請に対して、一貫して筋の通った主体として振る舞うことが求められる。しかし実際の人称的主体である「わたし=あなた」は、いつもいつでも筋の通った合理的な存在であるわけではない。「主体的」という言い方は、合理的なことにコミットする姿勢にではなく、不合理なことにコミットする姿勢に対して用いるのが相応しいような言葉だ。「物語を生きる」ことには、そのような豊かな可能性を持つ主体の実存を、一本調子なものであるかのように誤魔化してしまう機能もある。*2 

  

  

無期限の暫定的存在

 

 フランクルの記述を読むと、人間が直面する限界状況においては、もはや生きる主体、いや生命体としての活力が枯渇し、なんらかの目的を掲げることも、それを生きることさえも放棄してしまう状態に陥るという向こう側が窺える。『夜と霧』の事態にとってとりわけ重要なのは、「人間が直面する限界状況」が〝究極の〟未曾有の出来事であったということだ。そこでなされたことを端的に表すならば人間存在への非人間・脱人格化であった。個人として生きる権利を自明に有する人間を、あるひとつの群れの一部へと零落させる。ひとが人間であらんとすることの限界において、ひとは人間が生きる意味をどのように維持すればいいのか。

目的ないし目標を設定できないということは、物語を生きられないことでもある。ひいては現実をたしかに生きているという感覚さえ失調してしまう。フランクルが「無期限の暫定的存在」(p118)という状態は、「ふつうのありようの人間のように、未来を見すえて存在することができない」のである。

ここでいう〝ふつうのありよう〟とは何だろうか。意識にとって時間とは何であるかという観点から意識の有り様(構造)を詳細に記述したフッサールの考え方を参照すれば、それは「変化と連続の構造」ということになる。ふつうであれば、今日を生きているということは昨日を生きたことが前提にあり、そして昨日と今日を生きたようにして明日もまた今日として生きることになるという素朴な生活感覚を持つ。そこには昨日が昨日であることと今日が今日であることとは明解に違っている。その意味で変化がある。さらには昨日と今日を生きたようにして明日もあるだろうという時間的な連続があることを予期している。*3

フランクルが「無期限の暫定的存在」というときに想定しているであろう〝ふつうのありよう〟ではない人間は、今日という日が、永遠にも感じられる長さでもって連続している。にもかかわらず無数の昨日は光陰矢の如く感じられる。そこには変化の観念が失調している。中国にある万里の長城は、かつて工人のモチベーションを低下させないために、A.地点とB.地点を両端としてその中間地点を目掛けて施工させる工夫をしたのだという。*4そこでの工人たちへの配慮は、目標の設定をすることで昨日と今日のあいだには明解な違いを生む効果があった。つまりは変化を。絶え間ない連続にはメリハリが必要、というわけだ。「無期限の暫定的存在」にはそういったメリハリがなく、工人にとってのひと段落を感じさせる変化が、今日と明日のあいだになかったのである。

 

 

未来を失う

 

かくして、未来は喪失する。

 

ある被収容者が、かつて、新たに到着した被収容者の長い列にまじって駅から強制収容所へと歩いていたとき、まるで「自分の屍のあとから歩いている」ような気がした、とのちに語ったことがある。この人は、絶対的な未来喪失を骨身に染みて味わったのだ。それは、あたかも死者が人生を過去のものと見るように、その人の人生のすべてが過去のものになったとの見方を強いるのだ。(ヴィクトール・E・フランクル,『夜と霧』,みすず書房,2002,p120:以下『夜と霧』)

 

「「生きる屍」になったという実感」(p120)と、フランクルは記す。未来観念の喪失は、やがて、この世界に生存している感覚をも失調させる。鉄条網のしきりのこちらとあちらは、そのまま死者としての被収容者たちと収容所の外の人間である生者たちという分別を成さしめる。それはまた現実を非現実化させるシステムでもあった。やがて彼らは「目の前に広がるふつうの世界にたいして、時がたつにつれ、まるでこの「世界はもうない」かのような感覚」(p121)を持つに至る。幽霊のような、透明な存在として。

「「世界はもうない」かのような感覚」を、強制収容所の限界状況において発動した〈こころ〉の防衛機制に関して、フランクルは次のように述べている。

 

人間として破綻した人の強制収容所における内面生活は、追憶をこととするようになる。未来の目的によりどころをもたないからだ。〔……〕これには、おぞましい現在に高をくくれるという効果がある。(『夜と霧』p121:下線は筆者)

 

おぞましい現在に高をくくるという姿勢には、本質主義が宿っている。

本質の存在を認めると、本来そうあって然るべきものとそうではないもの(非本来的なもの)の区別が生じる。『夜と霧』の状況を引けば、被収容者であることと収容所の外の人間であることとでは、後者のほうに人間であることの本質が措かれる。人間の本来的な有り様は収容所のなかで抑圧されている現状とは異なっているべきだ、というわけである。

 

 

実存は本質に先行する

 

次に「「生きる屍」になったという実感」は、今この場を生きる自分が、非本来的な存在であるという状況判断によって生じる。非本来的なものとしての現状。〈こころ〉は、かつて彼が人間としての本来的な有り様を呈していた過去へと、過酷な現実から逃がしてやる。それが追憶だ。追憶によって上映される人間としての本来的な状況は、人間として非本来的な状況に晒されている目の前の現実から、彼を現実に対して幽霊化させる。それはまた、〝疎外〟とも言う。それが〝高をくくる〟こととなる。

哲学者のJ・P・サルトル(1905-80)の有名な言葉に「実存は本質に先行する」がある。これは人間存在の本質である「人間とは何か」の答えが、「わたしが何をしたか」、つまり行動を通して初めて語られうるということを示している。サルトルの言葉には時間的存在である人間が前提になっている。何か行動を起こすには未来がなくてはならない。永遠の現在に行動は起こせない。そこにあるのは正確には過去の反復である。人間が、己れの本質に向けて実存するためには、時間的な幅がなければならない。過去があり、現在があって、そして未来があるような幅が。この幅から未来が消失すると、過去にしか生きられず、と同時に現在を生きているといった状況が生じる。この状態にあっては未来ありきである目的の観念が成立しない。

 

 

目的を失うということ

 

目的の観念を喪失した場合、現実に意味がなくなり、そこで人間であらんとすることの価値もなくなってしまう。「目的」は個体の恒常性(コナトゥス)という生存の基礎の領野においてさえ期待と想像の契機が含まれているという線から言っても、生存するうえでの重要性を示せるだろう。〝期待〟にも〝想像〟にも未来の時間が必要なのだから。〝未来の時間〟に対して「在来の時間」という言い方を用いれば、前者には目的ありきの行為が可能だが、後者には未来がなく、目的を立てられないことによって行為未満の運動の様相を呈することとなる。人間的かそうでないかという観点からは、明らかに目的を持てない在来の時間のなかでの生存状態は無機的なものとなる。そこでは人間的な情調である「期待外れ」さえ起こらないのだ。それさえ許されない強張った現実において、「無期限の暫定的存在」である被収容者のなかに「生きる屍」とならざるを得ない者も出現したのである。*5

 

 

現実の〈あそび〉

 

ところが、フランクルによれば目的なんてないのだという認識に落ち込み「生きる屍」と化した者たちに対して、ある理由から憾むのである。その理由は、「過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある」(p121)というもの。そのくだりを引用しよう。

 

現実をまるごと無価値なものに貶めることは、被収容者の暫定的なありようにはしっくりくるとはいえ、ついには節操を失い、堕落することにつながった。なにしろ「目的なんてない」からだ。このような人間は、過酷きわまる外的条件が人間の内的成長をうながすことがある、ということを忘れている。収容者生活の外面的困難を内面にとっての試練とする代わりに、目下の自分のありようを真摯に受けとめず、これは非本来的ななにかなのだと高をくくり、こういうことの前では過去の生活にしがみついて心を閉ざしていたほうが得策だと考えるのだ。このような人間に成長は望めない。被収容者として過ごす時間がもたらす苛酷さのもとで高いレベルへと飛躍することはないのだ。その可能性は、原則としてあった。もちろん、そんなことができるのは、ごくかぎられた人びとだった。しかし彼らは、外面的には破綻し、死すらも避けられない状況にあってなお、人間としての崇高さにたっしたのだ。ごくふつうのありようをしていた以前なら、彼らにしても可能ではなかったかもしれない崇高さに。(『夜と霧』p121-122:下線は筆者)

 

狭い空間に押し込められ、まともに身動きの取れない状態に置かれたとき、人間は耐え難い苦痛を覚える。そこにないものは何か。〈あそび〉である。手足を自由に伸ばせる空間。余裕のある可動範囲。――ここでの人体と空間の関係は、実存と現実との関係にも言える。

実存という言い方は人間が時間的な存在であることを意味し、そこには「過去と現在に連なる未来」という図式が重要になる。現実に未来が絶えてはいけない。実存は現実に伸びをする。その伸びを許す余白が〈あそび〉となる。現実の余白とは、ユーモアのことだ。

フロイトはユーモアのポイントは「視点の移動」にあるという。*6視点の移動という言い方には既に空間が前提になっている。さらには移動しえるというポテンシャルも読み取ることができる。「移動可能であること」と「移動先があること」。このふたつが保証されていることによって移動は成る。

フランクルの『夜と霧』での報告によれば、収容所での【第二段階】の章立てから適宜抜き書きすると、政治と宗教、降霊術、瞑想、芸術、遺言の暗記、脱走計画――などがあり、それらはどれも収容所の現実の外部という空間的で現実的な余白を想定せずには取り組めないことだ。どれもフロイトが「視点の移動」に要点を見るユーモアの在処を告げている。「移動可能であること」と「移動先があること」。ユーモアへのフランクルの確信は以下のごとく述べられている。

 

ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。(『夜と霧』p71)

 

 

ユーモアへの意志

 

そういえば千葉雅也は「ユーモアは「見方を変えること」であ」り、「ユーモアにおいてコードは、壊されるのでなく、拡張される」*7と述べていた。ここでの〝コード〟は現実というルビを振って読もう。ユーモアによって実存は視点を移動し、その結果、現実の一様性は批判され、別様性に気づくことができる。批判と認知をセットにして、じつは「現実は多様である」という真実に到達することとなる。

フランクルは「ユーモアへの意志」(p72)と述べる。そしてそれを「生きるためのまやかし」(p73)だと続ける。

 

しかしそのほかの者たち、並みの人間であるわたしたち、凡庸なわたしたちには、ビスマルクのこんな警告があてはまった。

「人生は歯医者の椅子に坐っているようなものだ。さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう」

これは、こう言い替えられるだろう。

強制収容所ではたいていの人が、今に見ていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」

けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。(『夜と霧』p122-123:下線は筆者)

 

 

内面的な勝利

 

ひとは多くの場合に、内面に〈こころ〉はあると信じている。〈こころ〉がどこにあるのかどうかとは別に、「内面的な勝利」が何を示唆するのかに関しては考えておきたい。

 

わたしは「勝負に勝って試合に負ける」という言い方を知っている。

wweblioの辞書を引けば以下のように出ている。

 

単純にその場で決した勝ち負けという点では負けているものの、お互いの心理的な面や体裁、または争いが収まった後の状態まで含んだ大局的な視点から見れば勝利したと言えるという意味の言い回し。例えばスポーツの試合において、勝つことにのみ執着し姑息な戦法を取る相手に正々堂々と挑んで負けたというような、試合記録としては敗北を得たもののむしろ多くの者に称えられるような場合などが「勝負に勝って試合に負けた」という言葉に該当すると言える。

勝負に勝って試合に負けたとは - 日本語表現辞典 Weblio辞書

 

あるゲームにはルールがあり、そのルールに則って勝敗は決まる。

フランクルが「内面的な勝利」に重きを置くとき、対比的に「外形的な勝利」*8という言葉を思い浮かべることができる。

強制収容所に起居し、過酷な労働を課され、理不尽な暴力に晒されることは外形的に敗北している。ここに「勝負に勝って試合に負ける」ことが、人間には残されているのではないか。フランクルの「内面的な勝利」という表現はそのような自由の余地を語っている。

 

 

〈こころ〉と〈ことば〉

 

自由の余地が内面に広がっているのなら、その内面はどのように構成されているのだろうか、とわたしは疑問に思う。人間の内面を言い表す代表的な表現である〈こころ〉に関する文献を読むと、〈こころ〉と〈ことば〉とは切っても切れない関係にあることがわかる。内面は言語的に構成されている、という認識だ。

〈こころ〉と言葉の関係を記述した橋爪大三郎の見解を引用してみよう。

 

言葉を話すことによって、めいめいが、めいめいにだけ開かれている領域(内面)をもつことを承認する。私が「痛い」と言っているとき、あなたは痛くないかもしれないが、私が痛いことを認めてください。私があなたを刺しました、私は痛くありません、しかしあなたが「痛い」と言う権利も認めましょう。そのことで「痛い」という言葉が「意味」をもちます。だから、私が痛いと、あなたが痛いとは、イコールなのです。(橋爪大三郎『「心」はあるのか』,筑摩書房,2003,p61)

 

自分が内面を持っていることは、相手の内面を承認することを前提にしている。そのように橋爪は述べる。これは〈ことば〉を中心にした内面観と言える。

実際、わたしたちは「自分のきもちを正直に言いなさい」と言われたり、感想文を書くことをしたりする。そこには隠然と「〈こころ〉があること」が前提になっている。内面で感じた何か。これはまだ言語に値しないとしても、それが表に現れるときには、言うことや書くことという言語的な媒介がなくてはならない。この点で、内面と外形の二元論的な構成は「〈こころ〉=〈ことば〉」という一元論的な風景へと還元することができる。

 

さまざまな感情が、人びとめいめいにとって開かれてある、私一人にも開かれてある。内面は見えないけれども、言葉で伝え合えば、見えるようになります。そのときお互いに見えるようになった自分だけのもの、それを「心」と言うのではないか。(橋爪大三郎『「心」はあるのか』,筑摩書房,2003,p62)

 

橋爪は、〈こころ〉は〈ことば〉のなかで作られているものである、と自らの立場をまとめている。その立場はフランクル強制収容所以降の立場と、〈ことば〉の身分という点で共通している。

 

 

ロゴセラピーから物語へ

 

フランクル強制収容所の経験などの影響のもと、「ロゴセラピー(言語治療)」という方法を得た。それは〈ことば〉によって意識化されている世界を問題にしたもので、それまでの精神分析学が取っていた患者の無意識を診る分析者(=医者)という構図を採用していない。患者の意識はその症状を伴った意識生活において無意識から疎外されている。ゆえに分析者は患者の意識へとその無意識を翻訳する。そのことで無自覚的な領域の自覚をうながし、その結果、治癒がもたらされる。それが精神分析療法のひとつの大きな典型だった。そうした図がフロイト以来取られていたところへ、フランクルは無意識に重きを置かずに、意識的に使用される〈ことば〉のレベルに留まるのである。

言葉には本来、その文法的構成から、言い換えが可能だ。このことは二元論的な内面と外形の軋轢を、一元論的に〈ことば〉の問題として扱うことを可能にする。

〈こころ〉と〈ことば〉、そしてロゴセラピーと並べると、「物語」にも視線が向けられる。現に『夜と霧』には「強制収容所で亡くなった若い女性のこんな物語」、「これは、わたし自身が経験した物語だ。」と語る箇所がある。以下、その女性についての記述。

 

この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。

「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」

彼女はこのとおりにわたしに言った。

以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」

その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。

「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」

彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷の病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。

「あの木とよくおしゃべりするんです」

わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。譫妄状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでもわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと? それにたいして、彼女はこう答えたのだ。

「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……」

(『夜と霧』p116-117)

 

フランクルは以上のエピソードを「単純でごく短いのに、完成した詩のような趣きがあり、わたしは心をゆさぶられずにはいられない」と評している。

わたしはすでに本稿で「物語」に触れている。そして物語が、わたしたち人間にとって生きる準拠枠として機能することを匂わせた。実存の形式的側面と言ってもいい。しかしその言い方は同時に、物語が実存を一本調子なものとして構成してしまうという疎外的側面も暗示する。

 

物語とそれを引き受ける覚悟

 

そうした二律背反を呈する「物語」に対して、わたしは「覚悟」という言葉を浮かべる。何事もおいしいとこだけ取りはできない。おいしくない部分を取ってしまうことを、いかに引き受けるか。このことは極めて具体的な生の問題である。

たとえば、物語を生きるうえで、挫折をこうむることがある。そうした場合にことの責任を他人に押し付けることもできる。自分は悪くはないのだと開き直ることもできる。しかし、彼が被った否定的な事態はすでに彼の生きた物語のなかに可能な事態として含み込まれていた。ここでは引き受けが不足している。つまりは覚悟が。

どのような環境に生きるにしてもその環境には自由と束縛とのふたつの側面がある。物語もまた同様で、その登場人物として実存する限り、可能な行為と不可能な行為がある。その物語のなかで、その物語によって意味付けることのできる主体であること。「行為」という言い方はそもそも、それが意味付けられる行動であることが含意されている。

ひとが行為をするにあたってなんら制限をこうむらずに何かを行うことはできない。ときに自分にとって自分の身体が自分が自分であらんとすることを阻害するとき、自分の身体は他者であるように。その制限をいかに引き受けるのか。「「どのような覚悟をするか」という、まさにその一点にかかって」(p112)いる。

 

 

被害者もしくはお客様意識における消費的な待ち受け

 

制限とそれへの覚悟。

覚悟がなければ「なんで自分がこんな目に…」という思考に陥る。

これは運命に対する被害者意識だ。いや、お客様意識と言った方がいいかもしれない。なぜなら、そういった嘆きは自分自身の、人生に対する「かくあるべし」という期待に裏切られた心性によって起こるからだ。

生きる意味を失うというのは、自分の人生に期待ができなくなったことによる。この考え方だと人生が意味というサービスを供給してくれていて、自分はそのお客であるかのように、わたしは思う。お客のヤル気は人生からの意味の供給に依存しているとでもいうのだろうか。そこには消費者としての人間が見え隠れしているようでさえある。

人生の享楽は、多くのひとにとっての実存における「かくあるべし」と合致するだろう。フランクルの語る物語を読むと、人生の享楽(=意味の感得)はつねに世界に充満していて、ただそれを発見できるか否かなのだという。しかしそうした可能性に満ちた世界の発見は、人間の側の「消費的な待ち受け」の姿勢には到来しない。苛酷な事態に際してユーモアの意志を持ち、言葉を言い換えるようにして事態を読み換えるような、状況の「主体的な引き受け」をするものに先に引用した若い女性のような人生の享楽も訪れることになる。

 

 

人生の意味のコペルニクス的転回

 

フランクルは言う。必要なのは「生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ」と。「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。」(p129)

 

わたしたちは言葉を使う。それは意味を辞書で調べられる。辞書がなくとも他人に意味を訊ける。それでわからなくても言葉は使用できる。なにかしらの意味を予感させながら。ひとは、自分にも言葉がそうであるように意味があるものだと信じてしまうのかもしれない。

言葉を使うわたしたちと、言葉の意味を保証する辞書の関係は、人間と人生の関係にも読めてしまう。言葉(自分)の意味はすでに保証されているに違いないと信じるひとは、辞書(人生)を繰れどもそれが載っていない場合に、自分の人生をしばしばあきらめる。

 

ところがフランクルがすすめる方向転換をすれば、辞書を手に取る読者は人生の側ということになる。わたしは人生に求められた言葉を辞書に書き込んでいくことになる。この意味で、ひとは誰しも小説家なのだ。あたかも近代文学がわたしたちの用いている日本語を鍛えたように。言葉の意味と生きることとは切り分けられない。

あるいは人生は編集者で、わたしは小説家と言ったほうがいいか。

いずれにしろ、人生に要求するのは人間の側ではない。人間はむしろ、人生からある種の義務を果たすことを要求されるのだ。

 

生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

(『夜と霧』p130:下線は筆者) 

 

 

人間であらんとし、人間であれかし

この要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって、生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。(『夜と霧』p130-131:下線は筆者)

 

人生の要請は、人間への、己れが生きたことを意味付けよという要請だ。それは義務であり、意味のある人間=自分でいたいなら、人生を意味付けることへの責任を果たせ!*9――そのように人生は、つどつど身振りを選ばせる、問いの答えを問い続ける義務を人間に課す。人生からの問い掛けはつねに具体的な状況にあり、ひとはただそれを行動によって見つければいい。その結果、その身振りが、意味の憑いた行為になる。

強制収容所において「高をくくる」ことはひとが「人間であったこと」へと退嬰し、「非人間的に扱われている現状」から距離を取り、結果として未来観念を失調してしまうのだった。フランクルはしかし「人間であったこと」への退嬰に、人生の意味論の観点からうなずかない。

「人間であったこと」は過去のことだ。そしてそれが過去であるということは、それが過去であるという盤石な実在性を以て現状の自分を見守ってくれていることでもある。自暴自棄になり、生きる意欲を失ってしまったものにも、意味は憑依しうる。人間が生きることには、〈こころ〉の味わいとしての意味がある。

「非人間的に扱われている現状」を生きなければならない人間には、それでも「人間であったこと」が過去の光として保存されている。過去の光は彼を見守っている。その光のなかに、家族との、恋人との、友人との思い出がこもっている。生者か死者か、もしくは神かもしれない。過去の光に照らされるに値する生き方を、つどつど生き選ぶことに「人間であらんとすること」の高貴さが醸される。その香りが、人間が人類史上のなかで培い、薫習させてきた「人間であること」の系譜に連なるあらゆる人間へと、生きることに伴う義務を施すのだ。その義務とはつまり、「人間であらんとし、人間であれかし」である。人間であろうと欲してくれ、そして、人間であってくれーーそんな格律。

 「人間になること」と「人間であること」とは違う。人間は価値としては前提なのだとしても、意味としては目的なのだから。「人間であること」の価値、「人間になること」の意味。ここで、タイムアップ、筆を擱く。

 

_了

 

 

 

夜と霧 新版

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自閉症の現象学

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勉強の哲学 来たるべきバカのために

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*1:菅香子の『共同体のかたち』(講談社,2017)を参照

*2:千野帽子『人はなぜ物語を求めるのか』(p23-24)を参照

*3:村上靖彦の『自閉症現象学』(勁草書房,2008)を参照

*4:中学校の頃の歴史の教科書の記述を思い出しながら

*5:2018年1月30日、新宿朝日カルチャーセンターでの「中動態の世界をめぐって」國分功一郎+熊谷晋一郎における、國分と熊谷の発言を参考

*6:伊藤亜紗『どもる体』(医学書院,2018)のp80を参考に

*7:千葉雅也『勉強の哲学』(文藝春秋,2017)のp91とp94から

*8:「外面的」という言い方をしなかったのは、おもて(面)向きにこだわるというよりも、形式へのこだわりを表現したかったからである。形式はかたち(型・形)へのこだわりだ。

*9:補足をすると、これは強制とも命令とも了解しないほうがいい。
わたしは「免責されることで責任を負う」という言葉を知った。免責というのは「あなたには責任はないんだよ」と宥められることだ。これは同時に「誰の責任にもできるんだよ」とも「誰を責めることもできないんだよ」とも受け取れもする。これを聞くと、ひとは自分の責任を自覚させられる。わたしの脳裏に浮かぶ映像例としてはこうだ。

上京して独り暮らしの息子は仕事でくたびれた毎日を送っている。たまの電話で調子を聞くと母に弱音を漏らす。そんな子どもに母は「いつでも帰って来ていいんだよ」と言う。すると子どもは己れの責任を自覚し、なんとかやっていける。

この場合、母に「なにバカなこと言ってんの、しゃきっとしな!」などと言われたならば、息子はダメになってしまう可能性がある。なぜなら、そこには失敗を許容する〈あそび〉がなく、その意味で母の応答は、息子にとって緊張の持続を命じられていることと同義だからだ。ゆえに免責されることが責任を負うことには重要となる。そこでの責任の引き受けは、強制でも命令でもない、己れが己れであることを許されたうえで感得される自覚によってもたらされる。