映画『未来のミライ』:「~として」生き、「~らしさ」を得ることの意味
『未来のミライ』を観ました。おもしろかったです。「おもしろかった」ということは「考えるところがあった」ということでもあるので、「それはどんなことなのやら…」と、ぼんやり書き出してみました。誰もが必ず誰かの子どもであり、絶対に誰かを親に持つ。そんな宿命を背負った人間が「人間であること」の意味ってなんだろうか。そんなことを考えていた気がします。(執筆期間;2018/08/25-30)
- 『未来のミライ』が観たかった!
- 『未来のミライ』ってのは
- 『未来のミライ』のテーマ
- 『未来のミライ』を通して:不条理な役柄
- 『未来のミライ』を通して:意味と〈背中〉
- 『未来のミライ』を通して:〈背中〉を担う
- 総評
『未来のミライ』が観たかった!
遅ればせながら、2018年7月20日より公開の細田守監督の映画『未来のミライ』を観てきた。
細田作品は『おおかみこどもの雨と雪』以来、公開のたびに映画館に足を運んでいる。
『未来のミライ』は販促ポスターからして、『時をかける少女』と似た匂いがしていた。
公開から一ヶ月ほど経つというのに、わたしは安直にも、世界の危機という遠景と家族関係という近景的なものとを接続させるSFモノなのかと思っていた。
このように書くと、『クレヨンしんちゃん』の劇場版と似たイメージを抱いていたようで、汝ながら単純である。
つまり、なんら情報収集などしていかなかったわけだ。
しかし当然のように、以上の予想は半ば裏切られた。
そして半ば、中らずといえども遠からず、かもしれない気もしている。
ネタバレは極力しないでいきたいので、なるべく公式ホームページに掲載されている情報に準拠して話を進めていこう。
『未来のミライ』ってのは
『未来のミライ』のあらすじは、公式ホームページに次のように書かれている。
とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家。
ある日、甘えん坊の“くんちゃん”に、生まれたばかりの妹がやってきます。
両親の愛情を奪われ、初めての経験の連続に戸惑うばかり。
そんな時、“くんちゃん”はその庭で自分のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ、
不思議な少女“ミライちゃん”と出会います。“ミライちゃん”に導かれ、時をこえた家族の物語へと旅立つ“くんちゃん”。
それは、小さなお兄ちゃんの大きな冒険の始まりでした。待ち受ける見たこともない世界。
むかし王子だったと名乗る謎の男。
幼い頃の母との不思議な体験。
父の面影を宿す青年との出会い。そして、初めて知る「家族の愛」の形。
さまざまな冒険を経て、ささやかな成長を遂げていく“くんちゃん”。
果たして、“くんちゃん”が最後にたどり着いた場所とは?
“ミライちゃん”がやってきた本当の理由とは―それは過去から未来へつながる、家族と命の物語。
大づかみに捉えて、問題はやはり〈世界〉なのだ。
いわゆるセカイ系と見なされているような作品――たとえば『エヴァンゲリオン』や『涼宮ハルヒの憂鬱』などのように、地球滅亡の危機、人類存亡の危機に直面するような調子は、『未来のミライ』にはない。
が、しかし主人公である〝くんちゃん〟に焦点を当ててみると、世界は「とある都会の片隅の、小さな庭に小さな木の生えた小さな家」に等しい。
なにせ4歳の男の子である〝くんちゃん〟にとっては、細田監督がインタビューで述べているように「家の中がすべての世界」なのだから。*1
小難しい専門書をめくらずとも、人間が成長する過程において愛情はきわめて重要である。*2
他方で、愛情は、同時に、憎しみの感情と隣り合わせる。
愛情を享受することは、愛されているという状況のなかに自分がいることだ。しかしその状況にもはや自分がおらず、代わりに何者かが、かつて自分がそこにいた、愛される場を占拠していたときに、その何者かへと向けられる情動。
幼い子どもにとって、家庭は世界そのものだった。その世界のなかで、自分が享受しえていた愛情とそれに浴していられる安心感が、とつじょ現れた別の子どもによって混乱をきたす。そのときの不安を「それは嫉妬だよ」と諫められたとて、到底なだめられえないような、不安。
『未来のミライ』のテーマ
監督はパンフレットに載っているインタビューにて『未来のミライ』に関して以下のように語っている。
- ⑴愛を失った人間はその後どうするのか?また、愛を見つけられる自分にならないといけない。
- ⑵未就学児は家の中がすべての世界。
- ⑶従来のホームドラマが拠って立つ「揺るぎのない絆があって、常に身近にいて、外の世界に向かって団結してい」て、「何も言わなくても、すべてわかってくれるのが家族である」というイメージを疑ってみる。
- ⑷「家族であること」でだけでつながるんじゃなくて、<家族を知る=世界を知る>ことで「家族になっていく」、その努力を通して再定義される家族のつながり。
わたしの胸に迫った個所を箇条書きにすると、概ねそのようなメッセージだ。
わたしは『クレヨンしんちゃん』のようなものを事前にイメージしていたと書いたが、細田監督が述べている⑶のメッセージからは、むしろ『クレヨンしんちゃん』的なものの批判として理解できる。
細田監督のメッセージをわたしが繋ぎ合わせるなら、次のようになる。
⑴⑵のメッセージはくんちゃんが妹であるミライちゃんに嫉妬して、⑶家族のなかで疎外感を覚えてしまう状況に陥り、⑷そのうえで自分が愛される場としての家族を再発見していくこと。
つまるところ「ある人間関係における関係性の再定義」をしようというのが肝になっている。
「家族であることの当たり前さ」を「家族であることの葛藤」によって揺さぶり、「家族になろうとすること」のダイナミズムでもって、より深く「家族であることの意味」を了解できるような、そんな作品をつくろうとしたのではないだろうか。
『未来のミライ』を通して:不条理な役柄
わたしは『未来のミライ』を鑑賞していて、この作品を了解するお立ち台として、〈背中〉という言葉を用立てられるのではないかと考えている。
わたしたちはこの社会のなかで別な役柄を負っている。
ある役柄が宿らされていたことを事後的に(社会的な関係のなかで)気づかされ、そうした自分の属性とされる役柄を担う身振りを自主的に行うことにより、宿っていたものを引き受けていく。
家族もまた社会だ。そのなかでさえさまざまな役柄が場面に応じて織り込まれうる。
たとえば父と母は、子どもを介さなければ男と女の関係として役柄が立ち現われる。
母と祖母との関係は親と子の関係である。
くんちゃんにとって、それまでは自分に向く役柄は、自分だけが独占するものだった。
父母に、祖父母にもかわいがられるのは自分だけで、かわいいのは自分ひとり。
ところがミライちゃんがやってきて、くんちゃんひとりが独占していた場を脅かす。
このミライちゃんの意味を、父母や祖父母が理解するようには、幼いくんちゃんは納得できない。
厄介なのは〝意味〟だ。
家族のなかで、自分がいつの間にやら担っていたものを再構築しなければならない。
家族というネットワークのなかでくんちゃんがどのように意味づけられていたのか。
くんちゃんは、くんちゃんであることの意味を一度手放し、再びその意味を取り戻す必要がある。
それが問われている。
人生のほうから。
『未来のミライ』の劇中の家族模様を参照せずとも、現実での家族成員が絶えず直面する問いがある。
母としてのわたし。
父としてのわたし。
子としてのわたし。
兄としてのわたし。
妹としてのわたし。
として、として、として。
わたしたちは「~として」生きている。
なんらかの役柄をつどつど負うことで、自分をその状況のなかに表現することができる。
配役はしかし、役者の自由にはならない。
くんちゃんも、ある日突然〝ミライちゃんのお兄ちゃん〟にならないといけなくなっていた。
降って湧いたかのようなミライちゃん。
押し付けられたかのような「お兄ちゃん」という配役。
くんちゃんにとっては不条理だろう。
『未来のミライ』を通して:意味と〈背中〉
ところで、おとうさんとおかあさんもまた、そのような不条理を負っている。
未来のミライちゃんの手引きもあり、くんちゃんは、家族の誰それもが「~として」を課され、その「~として」を引き受けることを通して生きてきたことを知る。
そうした「~として」は人生ゲームに参入するうえに課される義務だろうか。
生きることの権利のうえに、人生への義務が降る。
ここで〈背中〉なのだ。
〈背中〉は自分には見えない。
他人の目を通してはじめて知ることができる。
それが〈背中〉。
ひとが何か役柄を与えられるとき、当人にはその配役を引き受けることによって開かれる世界がわからない。
憧れていた職業でも、実際なってみたら想像と違っていた…なんてこともあるわけだし。
そのわからなさが常にある。
ひとは常に既に何かに〝なってしまって〟いる。
何かになってしまっていることにかけて、ひとに及ぶ動物はいない。
それは本能によって取り決められている何かとは違っている。
社会環境のなかに生を受けたことによる必然。
社会関係のなかで生きていくことによる偶然。
気づいたら(気づいていなくとも)生きてしまっていた役柄。
それは結果として、〝いまを生きる自分〟に織り込まれる。
「~として」生きた結果、「~として生きた結果」という〈背中〉を得ている。
〈背中〉とは、言外に立ちのぼる「~らしさ」である。
「~らしさ」には、「~として」の役柄への「なりたい」とか「なりたくない」などと言った、好悪の感情とは関係なく、その「~として」を生きたことで、その役柄を引き受けたことによって得られる「~として」の信憑だ。
たとえば「口先だけのひと」の対極として思い描くことができる「有言実行のひと」への敬意というものがある。
それはそのひとが「~として」生きることを宣言した段階では、いまだまとっていなかったものだ。
「~として」生きたことの結果としてようやく手に入れる「~らしさ」。
「~として」生きたことのプロフィール。
無言のうちに語られる「生きざま」。
それこそが〈背中〉だ。
くんちゃんにもまた、役柄が課された。
ミライちゃんのお兄ちゃんとして生きること。
未来の自分の〈背中〉を見ることはできない。
いまの自分の〈背中〉も、自分にはわからない。
ある時点の未来はいつか追い越すことになる。
くんちゃんもまた、必ず追い越すことになる。
そのとき、未来の自分の〈背中〉は、もっと未来の自分によって追い越される。
ただ、〝ミライちゃんのお兄ちゃん〟にならない未来はない。
くんちゃんの「~らしさ」に、「ミライちゃんのお兄ちゃんであること」が織り込まれないことはない。
くんちゃんが、くんちゃんである人生から要求されている義務が、そのようになっているのだから。
そうした人生からの要請に応答することで、くんちゃんのであることの意味も実を結ぶことになるのだ。
細田監督が「愛を失った人間はその後どうするのか?また、愛を見つけられる自分にならないといけない」と語るところに寄せれば、くんちゃんの失った愛は、くんちゃんが再びくんちゃんになることによって、愛を再発見できるようになるだろう。
愛とは、「自分の意味」と言い換えてもいい。
くんちゃんがくんちゃんであることの意味は、ミライちゃんの誕生によって1度破壊されてしまう。
その廃墟のなかでくんちゃんはミライちゃんを自分の妹として認め、そして自らの〝ミライちゃんのお兄ちゃん〟としての役柄を引き受けることによって、己れの人生からの要請にこたえるのだ。
あたかも、未来の〈背中〉を追いかけるようにして。
わたしたちは時間のなかで前向きに生きていくことを強いられる。
『未来のミライ』における未来のミライちゃんのように、あらかじめ自分の意味を予告してくれる存在もなく。
未来は「いまだ来たらざる時」だ。
意味はいつでも背後からやってくるというのに、ひとは前向きに生きなければならない。
しかしなお、未来からやってくる使者を持たずとも、〈背中〉は保証されている。
すでに〈背中〉を持つものたちのあいだに生きて、どうして自分がそれを持たずにいられようか。
家族という偉大な先蹤がそこにいるというのに。
『未来のミライ』を通して:〈背中〉を担う
じゃっかんネタバレかもしれないが、タイムトラベルをするくんちゃんに対して、ただひとりそっけない人物がいる。
いわば背中を向けてくる。
ほかの人物はその時間のなかで、それなりの出迎えをしてくれるのに。
みんながこちらを向いているなかで、ひとりだけ。
わたしは、そこに何か意味めいたものを感じる。
向けられた背中に、くんちゃんが取った反発の態度も込みで。
あらかじめ示された自分の〈背中〉に、ひとは躊躇いを覚えずにはいられないのかもしれない。
プロセス抜きのかたちで提示された結果を訝しむような心持ちで。
「〜として」生きた経験もなしに、「〜らしさ」はその〈背中〉に宿らない。
「〜らしさ」抜きの人生はあじけない。
とはいえ、「~らしさ」を目的とした人生もつまらない。
ラテン語の格言に「Carpe diem カルペ・ディエム」という言葉がある。*3
「いまこの瞬間がすべて」という意味だ。
いまを生きること。
目的もしょせん、プロセスに付き従うものだ。
生きるプロセスを牽引する目的はまやかしだ。
英語では〝Seize the Day〟と訳されるその言葉に、わたしは「らしく生きましょう」という意訳を当てたい。*4
「〜として」生きることを抜きにして得られる愛はない。
いまに、役柄を「〜として」引き受けることで「〜らしさ」を帯びる。
とうぜんながら「自分らしさ」はひと任せにはできない。
と同時に、ひとを恃まずには「自分らしさ」もない。
くんちゃんは監督の言葉で言えば「愛を失った人間」だ。
そして監督が『未来のミライ』で描こうとしたのは「愛を見つけられる自分になる」ということだった。
自分に〝なる〟のだ。
それは「~として」生きることを引き受ける態度である。
くんちゃんにとっては〝ミライちゃんのお兄ちゃん〟に〝なる〟ことだった。
かくして、くんちゃんは未来の「お兄ちゃんらしさ」を「お兄ちゃんとして」の自分を受け入れることによって生きはじめる。
来るべき己れの〈背中〉を知ってか、知らずか。
くんちゃんは、それを担ったのである。
総評
『未来のミライ』はすばらしい。
近年の細田監督のアニメの造りから言えば、『未来のミライ』では単にリアリティの迫真性を持つのではなく、アニメ独自のリアリズムのほうに寄せている。
たとえばデフォルメなどが、わかりやすいアニメ的リアリズムの特徴として目につく。
愛を奪われたときのひとの心境には嫉妬の言葉をあてがうことができる。監督はそれを人間にとって普遍的なことと捉え、愛の再構築をテーマに制作したようだ。
嫉妬をして、そのネガティブな状態から眺める世界の広さ、もしくは狭さ。
ましてや主人公は4歳児だ。その体験は世界の終わりに等しいかもしれない。
そんな4歳児の世界のすべてとも言い得る家もなかなかに風変わり。
そんな家も広いのか、狭いのか。広さと狭さは同居しているようでさえある。
広さと狭さに、世界と自分、とルビを振ってもいい。そしてこの映画を観れば、そのルビ振りは容易に反転させられることだろう。
世界も広いが、自分も広く。
自分が狭ければ、世界もまた狭いのだ、と。
含蓄はいくらでも拾える。そんな作品。
音楽もまた良い。
山下達郎がうたって見せる楽曲が、本編での「ミライちゃんのお兄ちゃんになるか、ならぬか」という悶着のあとで聴かされるのが、〝My Baby Girl〟ではじまるサビが印象的なOPに対して、いっしょに家族として暮らしていく兄妹の情景を想わせるED。
しかも季節は夏。夏の山下達郎ボイス。最高である。
「この映画に、この音楽があった」という体験を自分の思い出に積んでおくと、あとあと快感を伴った想起体験が起こることがある。
プルーストがマドレーヌを通して自らの人生に酩酊してみせたように。
映画館を出てからがまたすごかった。
『未来のミライ』は「家族であること」の意味を問い直す向きもある。
あるいはそれが、この作品のわたしにとっての最も大切なテーマかもしれない。
そのテーマを込めるためのプロットと演出が示すところが、わたしにとっては痛切で、どうにも胸を震わせるだけの効力を持ち合わせていたらしい。
映画館を出て、目につくひと、ひと、ひと――そのすべてに人間関係のタテ糸とヨコ糸とが透けて見えるようで、わたしは得も言われぬ感動をし続けることとなった。
なにせそれらの糸を手繰ることが叶うなら、わたしは、彼らひとりひとりが彼ら自身になっているという事実に、そのひとつひとつに感動を禁じ得ないだろうから。
なかでも親子連れはとくにヤバかった。
子どもと、その側にいる親。
いま、親と子のあいだには比類のない事件が起きているように幻視してしまって…。わたしは意味の充満した人並みのなかで、途方に暮れた。金曜日は午後だった。
_了
*1:「まだ学校に行っていない子どもは、生活圏が幼稚園以外、ほとんど家の中です。ということはつまり、映画の中のすべての出来事を、家の中だけで描ききることができる、と考えました。ほかの年齢だと、学校や社会との関係性の方が重要になってくるから、絶対そういうわけにはいかないですよね。4歳児だからこそ、家1軒と庭ひとつの物語で完結できるんです。両親との関係、妹との関係を通して、人生を凝縮して見せる方法になるんじゃないか、と。(映画『未来のミライ』パンフレットより)
*2:生育過程において〈愛される〉経験がないと、ひとは社会生活を送るうえで困難が生じる。たとえば愛着障害がそうだ。愛着形成の時期である生後6ヶ月から1歳半に〈愛される〉経験を持たないと、自分は取るに足らない存在なのだといった自己否定を抱えるようになる傾向がある。これは、庇護者からの扱われ方が自分の自分へのまなざしに反映されるからだ。「愛してくれない庇護者」のイメージは、「愛するに値しない自分」のイメージを生む。それが自己自身の性質として内面化されることで、愛着障害の状態をもたらす。(参考:岡田尊司『愛着障害』光文社,2011)
*3: