can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

3年間で1500冊の本を読んでいたことへの所感

わたしは2015年から読書記録をつけている。

2018年現在でもなお、その記録は続けられている。

――ってことについて。

 

 

内容的に硬い本、新書、マンガ、エロ本…etc.

いろいろ読んだ。

おおまかに言って1年で500冊といったところかしら。

今年で4年目に突入しているけど、本年は数としては低調を迎えている。

f:id:dragmagique123:20180901012330j:plain

 

本はつねに読んでいるのだが、インプットよりアウトプットのほうにチカラを入れ始めている…とでも言おうか。

 

それと、1冊に付き合う時間も長くなってきている。

 

生きているとそれなりに課題とぶつかるので、その課題との格闘のための相棒を求めて本を読んでいるような感じかな。

 

いずれにせよ、読むことより書くことのほうが肝心だ、という考えに憑かれている。

このブログも含めて。

 

インプット抜きにアウトプットはないという考えに憑かれていたときは、「まだ準部不足だから…」と次の本、次の本というように表現することから迂回してしまっていた。

 

だが、実のところ、アウトプットはインプットに先行するのだ。

そのことに気づいたとき、わたしは書かずに読んでいる時間に焦りを覚えるようになった。

 

なにぶん時間は有限だ。

いま熱中している課題への熱意もいずれは冷める。

必要なのはそのときそのとき向き合っている課題と、それに対して抱いている熱意とをある程度の結構をつけながら書きつけておくこと。

わたしはそう考えた。

 

ところで読んだ1500冊はバカにできない。

わたしは折に触れ、その読書アーカイブから言葉や言論を想起する。

しかも不随意に、と言ってもいいような仕方で。

これがまたなんとも言えずに快感なのだ。

 

18世紀のイギリスの政治家であり小説家であるホーレス・ウォルポールが名付けた現象がある。

セレンディピティ

現代の日本だと脳科学者が用いて喧伝していたのも記憶に新しい。

要するに、一見して関係のなさそうなもの同士を思いがけず接続可能なものだという気づきを得ること、その関係性が不意に降ってわいたようにしてわかる現象。

 

セレンディピティが起きるための経験のアーカイブが、1500冊を読んだおかげで構築されたのかもしれない。

それに、これは読書のおかげかは微妙なところなのだけれど、2015年より前の経験にも、ただの思い出という身分ではなく、自分固有の経験として語るに値する象徴化ができるようになっている。

ついつい「象徴化」と書いてしまったが、要は「あの出来事は自分にとって特別な意味があったのだ」〝とも〟言える事実に気づけるようになったのである。

 

〝とも〟というのは次の視点を得たことも示したかったからだ。

つまり、言葉ではなんとでも言える――という視点を。

その言い方はしばしばネガティブなニュアンスを帯びる。

しかしなんとでも言えるからこそ、ひとはより強く、深く、おもしろくなれる。

そのことにも、わたしは感覚的に啓かれたのだ。

 

ニヒリズムを謳う哲学者として名を馳せたニーチェ

「すべて意味は幻想だ」という嘆息を、ニヒリストは吐く。

しかしニーチェは同時に「力への意志」を説いた。

 

わたしはそれらを次のように言い換えてみせる。

言葉ではなんとでも言える。そのうえで、自分がおもしろいと感じる言い方を、こうとしか言えないという仕方で表現できる。

あるいは、幼児にとっての遊び場( Play ground )のようなイメージが相応しいかもしれない。幼児はそこにあるものをひとつひとつ遊び道具に変換していき、そして思いがけず自身が感じるおもしろさを発見する。そのとき遊び場は出会いの場( Meeting place )でもある。

 

読んだ1500冊はもはや、わたしがわたし自身であることと切り離せない。

そしてこれからも、わたしはわたし自身になっていく。

この「なっていく運動(生成運動)」は続いていく。

何を信じられなくなったとしても、それだけは信じていたい。

 

 

_了