can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

タニシを料理して、中動態を想う。

 タニシを料理したことを記事にしました!…だけじゃなくてその料理をした後で考えさせられたことなどを、中動態の観点を鍵にして書いてみました。

 

 

 

タニシを料理したこと

タニシの酒蒸し

 

わたしはしばしばグルメです。

そこいらの店では売られていないものを食べようとします。

ザリガニ、タンポポ、ツクシ…などなど。

今回、それはタニシだったわけです。

 

田畑が身近にあり、タニシを視界に納めながら春から夏を過ごしています。

種類にもよりますがタニシは食害を被ることもあるので、農家のかたにとってタニシはあまり好ましい生物ではないです。

そして今回、わたしの「したいこと」はタニシを食すことでした。

なので農家のかたからタニシを採集することの許可をもらうことも、かんたんな手続きでございました。

 

タニシは潮干狩りで採ってきたアサリのように、どろ抜きをします。

そのくだりの写真はないのですが、おおよそ4日間ほど水道水で清めました。

(あとでわたしのやり方は中途半端だったと思い知ります。というのも、水道水は一時間ごとに流しては注ぎの繰り返しをするくらいがちょうどいいらしいのです。しかしわたしは1日に1回水を交換するだけでした。これは賞味のさいに影響を与えたのだと、食べ終えたあとでは思います)

清めたのちに、いかにして食べようかと悩みました。

わたしは知人のアドバイスもあって、酒蒸しで食べることに決めます。

 

以下、そのフローピクチャ-。

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ごりごり手で洗いました。貝殻に付着しているあれこれが残ってます。でも許容範囲。

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タニシは独特の臭みがあるので、その臭みをどうにかしてくれるものを調達します。今回はニンニクとミョウガです。

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日本酒とニンニクとミョウガとタニシを鍋にぶち込みます。正直、事前にニンニクとミョウガは炒めておけばよかったです。さらになんとなく後になってバターを放り込みました。順番が狂ってます。――で、ひとまず完成です。

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これがタニシの身です。みょーにまだら模様になっているのはびっしり詰まったお子さんたちです。



 

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ご覧ください。なかに不穏なつぶつぶが見えます。多くの生物は子持ちだと美味なのですが、残念ながらタニシはそれに漏れます。内容物をあらためた写真はいささかグロテスクなので、掲載はやめておきます。

 

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風味が独特なので、鍋の蓋を開けると悶絶できます。臭みを抑えるのにさらに味ぽんやめんつゆなどを用いて食しました。



 

――と、以上のように料理しましたところ、残念なお知らせが言い渡されました。

なんと100匹以上も捕まえて料理したのにもかかわらず、家族の誰も食べてはくれなかったのです。

ゲテモノとまで言われてしまい、立つ瀬がありません。

 

とはいえ据え膳をこしらえた責任はわたしにあるので、わたしはひとりで食べました。

ディナーです。

初日は数えたら70匹を平らげました。

1匹の量はさほど多くないので、量的にはきつくはありません。

 

ただ、つまようじでちっちき身を取り出すのは少々面倒ではあります。

さらに、時期的なものなのか、貝殻に収まっている体の部分にみっしりと子どもがいるのがほとんどでして、これがタニシの賞味を憂鬱なものにしました。

 

タニシの身はいいのです。味も貝類の範疇です。

しかし子どもがいると、いまだ出来上がっていない貝殻の部分の歯ごたえがどうも「これって食べていいものなのかな…」といった心配を思わせるもので、どうにも落ち着きません。

わたしは自分の料理の失敗を思いました。

そして同時に、食べきることへの意志を固めました。

作った料理人にも愛されない料理など存在させてはいけません。

 

 

タニシのリゾット

 

2日目の食事は少しく憂鬱だったことを白状します。

なので別な食べ方を考えます。

書き忘れましたが、初日に食べるとき、マジックソルトでさらに臭みに抵抗しています。

火を通すとましになるのですが、鍋を開けたときの臭みはちょっと好きになれなかったので…。

 

考えた末に、リゾットにすることにしました。

なんとなく鮭ほぐしを入れ、そして残ったタニシの身を加えて、ご飯を入れ、軽く煮込むだけですが…。

 

以下がそのトライアル。

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これだけのタニシをひとりで食べることになるとは…好奇心の孤独を覚えます。

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ざっとこんな感じです。見た目も匂いも良かったです。味も独特。




だいたい以上のような感じでタニシを食べました。

臨場感を演出するために写真を載せてみましたが、フォトジェニックには程遠くて申し訳ないです。

 

 

 

タニシの料理を通して

期待の反作用

 

わたしが書きたいのは実はここからのことである。

 

タニシの料理をして、それを食べて、それを他人に話してみると、

 

「なんで食べようとしたの?」

「おいしくなかったんでしょ? やらなければよかったじゃん」

 

などと言われることがあった。

それらはわたしが1日目での酒蒸しの味の是非を訊ねられて「マズいとは言いませんが、おいしいとは言えなかったですね」と答えたことにも拠るのだろうが。

 

 

話を聞いていると、どうにも多くのひとは料理をするにも食事をするにも、味への期待をもって、その予期に安心しつつ行為をしているらしいのだな、といったことが見えてきた。*1

なので期待外れであれば「やらなければよかった」と後悔する。

そうした後悔の念を他人の言葉の端々に見つければ、その行為の是非を問おうとするのもむべなるかな。

 

 

かと言って過去はもはや変えられないのであり、「やらなければよかったじゃん」というのは、つまり「反省して次に生かせ」みたいなことをわたしに伝えようとしているのかもしれない。

 

 

わたしは以上のような他人の感想に晒され、彼らの言葉遣いが「自己責任」を浮き立たせる効果を持った言い方なのではないかという感じに見舞われた。

なにせ彼らの言い方は、彼らがわたしのなかに発見した後悔の感情を媒介に、「後悔している自分」と「行為をした過去の自分」とを、あたかも分割可能なものとして扱っているのだから。

言い換えれば現在と過去とのあいだに切り取り線があることを、後悔の感情に準拠して、認めているのだから。

自己責任論が登場するとき、そこにはしばしば問題とその原因とが俎上に置かれることになる。

わたしはタニシを料理したことを原因とされ、後悔している(かのように見える)現状を問題だと目されていることを感じた。

 

 

他人と過去は変えられない――という言い方がある。

そして、他人に期待してはいけない――という言い方もある。

どちらも精神衛生に不安があるひとが楽に生きるための処方として言い渡される文言の一種だ。

 

 

期待はひとつのネックだ。

なぜならその姿勢によって「報いられた自分/裏切られた自分」が生じ、と同時に「報いてくれた他人/裏切った他人」の状態が出来することにもなるからだ。

わたしは、そうした「お客様意識/被害者意識」の観を呈することになる〈こころ〉の有り様は、決してひとを幸せにはしないのだという確信がある。

期待することは、反作用的に意識のモードをある種の不幸なゲームに引きずり込む向きがあるのだ。

 

 

 

経験の文法

 

わたしは、幸せという情状は、言語的な態度によって可能か不可能かどうかが決定するとさえ考えている。

 

たとえば脳科学では、自分が使う言葉によって自分の行動の限界が決定してしまうという。*2

 

 

わたしの観察例を挙げれば、次のようなものがある。KさんにはAさんという知人がいて、Aさんは職場の人間関係の愚痴をKさんにこぼす。Kさんはそれに対して、「Aさんはやさしいね。そのひとの相手してえらいね。やさしいなぁ」と言った。――言葉遣いに着目すると、ここでは「相手する/させられる」という文法が潜んでいる。

その言葉遣いからは、わたしが心配する被害者としての自己イメージが結ばれやすいのではないだろうか。

 とうぜんながら、被害者意識に幸せへの道筋は開かれてはいない。

 

 

「する」と「される」は人間の行為を記述する際に参照される文法である。

ひとが何か事件が起きた場合に誰かのせいにする、そんなときに行為の責任、もしくは行為の根拠である「意志」の所在を確定する際の言葉遣いが、「する/される」という「能動/受動」の態でもって記述されることになる。

法廷において裁判が開かれるときに、原告側と被告側とで陣営が分かれているように。

もちろん、原告と被告とは、被害者と加害者との類別だ。

 

 

以上のように書いてみて、

「自己責任」

「能動/受動」

「行為」

「意志」

――という言葉が登場していることは重要だ。

 

 

それらは「中動態」という言葉で以て研究が進められている領域に関わることを示している。

2017年に医学書院から『中動態の世界』という本が刊行された。

哲学者である國分功一郎がものした本で、副題には「意志と責任の考古学」とある。

 

 

大づかみにして、その本は、何かと自己責任論が説かれる昨今に、意志を諸関係からの切断をになう器官だとみなし、そのうえで責任の所在が無際限に散らばっているという事実を暴く。中動態は、行為が「主体が主体になっていく」ことのプロセスになっていて、そのプロセスのなかで主体は自身が主体であらんとすることを選び取っていっている。――こうした言語的状態を表す文法用語でありながら、経験の実態を表す哲学用語でもある。

 

 

「中動態」の概念が有効なのは、人間関係がうまく行かない相談者や家族に迷惑を掛けている依存症の患者、もしくは受験勉強の努力が実を結ばない学生が〝自分のせい〟だと思い込んでいる状態に対して、自己責任論の呪縛からの解放を担いもするからだ。

能動か受動かの文法ゲームは、しばしばわたしたちの実存をきつく縛っている。

 

期待という心性は、次のような言い方を誘引しもする。

 

A 「○○には期待していたのにな~」

B 「わたしに期待させてくれちゃってさ!」

 

Aは友人関係や仕事上でのやりとりで出くわすことがある。

Bは友人関係や恋愛関係において、出くわすことがある。

以上の例からわかるのは、「させられてしまったひと」には責任感が見られないということだ。

責任を負うことなしに、自分に期待させたひとに対して半ば糾弾じみた言葉を差し向ける。

 

そうした態度に「無責任だ!」と指弾するひとはあまりいない。

だが、ムッとすることはあるだろう。

そのムッとなる根拠は、おそらくそのように言うひとの責任感のなさに由来する。

 

 

「期待」は何か別の態度に交代する必要がある。

『中動態の世界』を通して「中動態」を知り、その言葉を通して経験を重ねた後では、それは「覚悟」の態度なのだとわかった。

覚悟こそ大切、という立場は「中動態の世界」を世に膾炙させた國分功一郎自身も述べている。いわく、「覚悟とは、自分のいる流れを自分で引き受けることです。」*3とのこと。

 

とはいえわたしは「期待をしてはいけない」とは言わない。

ただ、期待することにも責任が伴うという自覚は必要だとは思う。

この責任はしかし、「人生を主体的に生きる」という点から、わたしを決して被害者やお客様にはしない。

つまり、「誰のせいにもしない」*4主体になるには、自己責任論が要請する責任とは別様な責任が必要となる。

 

 

意味への覚悟と行為への夢

 

――さて、話をタニシ料理のほうに戻す。

 

わたしは行為をした。料理をするという行為を。

タニシはそこいらのレストランでは食べられず、八百屋にも売られていない。

それを捕まえ、料理し、食べるということには、それゆえに責任が生じる。

なにせタニシを捕まえることで発生する面倒、料理する手順、食べることの衛生問題の把握などなどに対処するための一般的なやり方がない。

寄生虫や衛生上の不安などの対応策が伝えられておらず、その意味で闇雲だ。

 

このときにわたしは覚悟をした。

自分がお腹を壊し、痛みにのたうち回ることになろうとも、誰のことも恨まないと。

誰のせいにもしないと。

そうした覚悟を以てわたしはタニシを料理した。

 

タニシを食したわたしに対して発せられた言葉を再び書く。

 

「なんで食べようとしたの?」

「おいしくなかったんでしょ? やらなければよかったじゃん」

 

前述のように、そうした言い方は「自己責任」を問う姿勢が伏在している。

そしてわたしから行為への後悔の徴候を読み取った彼らは、わたしに「タニシを食べたことを後悔している今の自分」と「タニシを食べることを決断した過去の自分」とに、切れ目を与えようとしている。

その切れ目は、「意志」の名の下に与えられるのだろう。

 

だがしかし、中動態を想えば、今の自分と過去の自分とを切断することはナンセンスである。

なぜなら、過去は変えられない。*5

中動態的に言って、ひとは自分のすること(行為)の外側に立っているのではない。

「自分のすること」は「自分のしたこと」とまったくの無関連な場所にあるのではない。

 

事件は現場で起きている。

現場とは〈ひと〉としての自分であり、事件とは体験としての〈行為〉のことだ。

 

行為は夢。――ひとが行為をするのではない。行為がひとをつくり、そしてたちまち、ひとを突き抜けてゆくのである。行為は夢、ひとはその抜け殻。(野村喜和夫「魚群探知機 詩と哲学の〈あいだ〉をもとめて」『現代詩手帖思潮社,2018,3,p32)

 

行為がひとの後を追うのではない。

ひとが行為の後を追うのである。

 

ひとが「自分の意味」を想うとき、その意味は引用した野村喜和夫の言葉を借りれば「夢」のことなのだ。

しばしば「自分の意味」がないことに悩むとき、抜け殻である〈ひと〉に焦点が当てられているのである。

〈ひと〉はただ、〈場〉であるに過ぎない。しかし意味のある〈場〉だ。

〈行為〉が〈ひと〉を「人間であること」へと成型する、そうした〈場〉。

それゆえに、ひとは行為の後を追う。

 

 

タニシを料理する際に、わたしは覚悟をしていた。

その夢を見るために、行為の後を追いかけたのだ。

 

そしてまたこれまでの行為がそうであったように、「タニシを料理した」経験は、わたしに浸透し、「わたしがわたしであること」から分離させられなくなっている。

その事実をあたかも分離させられるのだと思えば、「わたしがわたしであること」の流れは澱んでしまうだろう。

この流れを澱ませないために、わたしは流れを引き受ける。*6

 

 

締め

振り返ると、タニシの料理は面倒だった。

酒蒸しはびみょーだったけど、リゾットはうまかった。

そしてこういう経験をしたひとへの人々の態度の取り方もおもしろかった。

わたしは他人の言葉遣いにやたらと焦点を当ててしまうのだけど、今回はタニシ料理体験のおまけで、(これは目的ではなかった!)結果として、わたしに向けられた他人の言い方を観察することができた。

タニシ料理のおかげだし、わたしに感想をくれた他人さまのおかげだ。

さらに他人さまのご感想を以上のように味付けしてくださるわたしのお言語さまにも深く感謝申し上げたい。

 

とりあえず考えたことはだいたい書けたかしら?

目が疲れたのでもういいかな~って感じなので打ち止め。

 

_了

 

 

 

 

現代詩手帖 2018年 03 月号 [雑誌]

現代詩手帖 2018年 03 月号 [雑誌]

 

 

*1:もちろんわたしだってそうなのだが、ここではわたしは敢えてそうした考え方が当たり前のことではないと考える立場に立って観察している。いわゆる「括弧に入れる」というやつだ

*2:人間の脳には「安定領域」と呼ばれる部分があり、自分の発した言葉が口にすることで耳に伝わり、その言葉が脳に届くと、体を制御する器官である脳のほうで自分の能力の程度が決定されてしまう。――このくだりは非専門書である松浦弥太郎『もし僕がいま25歳なら、こんな50のやりたいことがある。』のp191を参考にしたが、

 

president.jp

や、


「脳とことばの不思議な関係」-ことばで脳はよみがえる-

 

などの脳科学者の見解を窺ってみても、信憑性がある。

また、シェーン・エイカーの『幸福優位7つの法則』では、ポジティブな言葉を使う傾向の高いチームのほうが、ネガティブな言葉を用いがちなチームよりも、業績が良いという研究結果が挙げられている。

*3:芸術論の新たな転回 04 國分功一郎

REALKYOTO


*4:わたしの脳裏にはこの曲が掛かるだろう。


【full】B'z『RED』

*5:とはいえ過去の意味は変えられる。

*6:危機(Risk)は引き受ける(Take)ことなしに回避すること(Hedge)はできない。わたしが「流れ」と書いたイメージを〝River〟と翻訳すれば、RiverもまたTakeすることなしにHedgeはできないのだ。ーーこれは言葉遊びだが、遊び抜きの人生が正気の沙汰ではないように、言葉遊びは確かな存在意義を持つ。