can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

常識的に考えて、非合理であれ

「常識的に考えて、非合理であれ」と主張する啓蒙書があればどんな書かれ方をするだろう…?。わたしはしばしば「変な奴」呼ばわりを受けるので、常識的だとか合理的な判断だとかに不信感があるのです。つまり、自分の自然体がなかなか自然なこととして評価されないのです。そんなこと、当たり前ではありませんか?――という構えの表明です。

 

 

 

合理的であるがゆえの没主体


ひとは可能性と共にあります。そこでは好き嫌いは関係ありません。何か行動を起こすときに、果たして可能だろうかという疑いが自覚するしないにかかわらず、そのことが自分にできるのか否かが問われることになります。
そして選択肢があります。


するか、しないか。やるか、やらないか。

 

話を少々ずらしますが、ひとは「きみよ、主体的であれ」としばしばそそのかされます。(誰に…とは言いませんが。)己れの主体性が発揮されるとき、そこには得も言われぬ充実が生じたりします。たとえコトの際中にそれが伴わずとも、事後的に。

それは行為を誰のせいにすることもなしに、自ら取り組んだ(コミットメント)という事実による感興と言えるでしょう。

 

社会学や哲学などが伝え示すところでは、ひとは合理性に従属しているときには没主体的であって、むしろ非合理なことにコミットする場合にその者の主体性が現れていると評価されるといいます。


言い換えれば、流行りものに飛びつくひとだとそのひとの主体性は鳴りをひそめてしまい、誰も関心が湧かないものに興味を持つひとにこそ、主体性はうかがえるというわけですね。

 

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常識的に考えて…


さて、ひとは多くの場合になんらかの常識の枠内にいます。それに従うことは社会生活をなめらかなものにしてくれますが、ときに自分の可能性を殺してしまう向きもあるわけです。


実行するか、しないか。
参加するか、しないか。

つまり、やるか、やらないか。

“To do,or not to do”というわけです。


そこでは自分が自分自身を選択することに、「そうせざるをえないこと」(必然性)が「それが現実的かどうか」(可能性)によって限定されているという状況があるわけです。


他人は言います。

 

「常識的に考えて○○を選んだほうがいいんじゃないか?」

 

JK、JK、JKというわけです。*1

  

 

非合理に考えて…


他方で、ひとは「やるか、やらないか」の選択肢のどちらにも自分にとっては必然性がない場合があります。いわゆる「どっちでもいい」という感じですね。


たいていの場合に、ひとは自分の食指の動くほう、つまりモチベーション(動機)に駆られる選択肢を選ぶことになります。


やるか、やらないかで言えば、やることのほうが面倒なので、何もしなくてもいいほうを選ぶのが、「どちらの選択肢にも選ぶ必然性がない」場合の帰結となるのが、ざらなわけです。


しかし考えてみてください。


「どちらの選択肢にも選ぶ必然性がない」のならば、「あえてやってみる」という選択肢もあるわけです。


その選択肢に必然性がないことで、それをすることを選んだ場合には、それをやらないことを選んだ場合よりも非合理です。つまり主体的であるわけです。


個々人がインフラサービスのなかで平準化されていきがちな資本社会において、非合理なことにコミットする変な奴になれることは、自分が自分であることにむしろ大真面目に向き合っていると言えはしないでしょうか。


なにせ選んできた行為が「その人らしさ」をかたち造っていくのですから。


思い出してください。

 

あなたがあなた自身であることの理由を。
あなたが他のひとと違っているのは、あなたが他のひととは似て非なる環境、人間、生活を送ってきたなかで培われてきたものです。
子どものとき、身近なひとのしゃべり方や身振りをまねしたりしませんでしたか?
あれはそうすることが合理的な振る舞いでしたでしょうか?
ときに、「あんなのマネするんじゃありません!」と叱られたりしませんでしたでしょうか。
叱られるとわかっているのにマネしちゃうようなことは合理的だとは言えないでしょう。

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でも、ひとはマネしちゃったりするわけです。*2


なのでわたしはこう言いたいのです。


「非合理に考えて○○をやってみたほうがいいなじゃないか?」
(こんな言葉はありませんが)HK、HK、HKというわけですね。*3

  

 

あえてやってみるという技法

 

才能のあるひとは、しばしば、自分のしたいことがはっきりしていて、そのワザを磨くことに専心し、自分の個性によって他人からの承認が得られる場合に、「才能がある」と見なされます。


しかし、ほとんどのひとが学生時代に自分が将来何になりたいのかを答えられず、社会に出てからも惰性で就職先を選んでいたりするわけです。「自分がなりたいもの」を見つけられず、たとえそれがあったとしてもそれと向き合うことを保留にしていたりなど。

彼らの多くは「面倒くさい」という想いによって行いを放棄します。「面倒くさい」という言葉は主体的であることへの抵抗感情の表明です。ある種の現状の自分を守ろうとするホメオスタシス(恒常性)の発現です。彼らは現実的に考えて、自分はそうせざるをえないのだという合理性のもとに生きています。そのような、内から沸き上がる目的意識を持てないひとには、才能人がそうであるような非合理な動機は期待できません。


しかし、だからといって、彼の人生がしょぼいものにしかならないとは言えません。


彼らには「あえてやってみる」という態度を持つことができるのですから。

 

しばしばひとは自分が何をするのか決めるさいに「自分がそれをする必然性があるのか?」などと自問する向きがあります。実に合理的ですね。

 

しかし彼らがそのまま合理的に目の前の選択肢から消極的なほうを選択してしまうばかりであれば、彼には彼らの「自分らしさ」を手に入れるきっかけは与えられないのです。なにせ「面倒くさい」から「やらない」のは合理的な判断だったりするわけですから。

 

「自分らしさ」とは、つまりは個性なわけです。

 

それは「他人に認められること」(承認)と切っても切れません。

 

自分ひとりでこれこそが自分の〝らしさ〟だと認めていることの大抵は痛々しく、それが評価もされないとなれば、下手をすると他人を恨む理由になってしまうことでしょう。


けれどもそれが他人から承認されると、自分らしさは他人との具体的な付き合いのなかで息づきます。それはかたちを伴い有機的にも体を成型していくのです。


そして、具体的な付き合いのなかでかたち造られていく〝体〟が、主体的であることを押しとどめる「面倒くささ」を振り払うのです。

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名は体を表すと言います。名は、体が自らを名乗り、そして他人に呼ばれるための音声記号です。ひとは体を以て名を受け、名は他人のあいだに行き渡ることで体を有するひとを、意味として受けます。そのような体を動かす主格であることが、主体という在り方なのです。名に体の行いが還元され、その結果、〝らしさ〟としての個性が実を結ぶのですね。

 

ひととしての名を受ける体のかたちも曖昧であれば、「面倒くささ」に抵抗するための十分な実体を持てません。そうした場合に、自分の可能性は観念的なものとなり、現実のなかではかたちを保てないでしょう。


そこで「あえてやってみる」ことが有効になってきます。

 

  • 痩せても太ってもいないけど友人の付き合いではじめたジム通いを続けて筋肉質な体型になる。
  • 職場のひとが勧めてきたバンドのライブに同伴することになり、そのバンドの楽曲をぜんぶ聴き込み口ずさめるようになる。
  • 飲み会のときに上司がカラオケで歌っていた演歌がいまいちノレなかったので、スタンダードナンバーをあらかた聴いて演歌のなんたるかをつかむ。
  • 大学で教授が配布したプリントに載った参考書を片っ端から読んでみて、そのことだけでもいちもく置かれる。

 

なんでもいい。選択肢が目の前に現れたときに、とりあえず、あえてやってみるほうを選んでみること。

 

それはあなたを「変な奴」にするかもしれません。

 

  

常識的に考えて、非合理であれ

 「変な奴」でもいいのです。それは真っ当です。そのように呼ばれたのなら、それは多くの他人がやらないからこそ浮き立つ個性を、彼らが認知してきたことを示しているのです。


あなたとしては、「やってもやらなくてもいいんだけど、なんとなくやっている」程度の気持ちだとしても、そのことを他人は勝手に評価してきます。*4この評価のプロセスによって、あなたが主体的であり個性的であるという結果がもたらされます。


以上の意味で、常識的であるよりも非合理であることを、「あえてやってみる」ことによって選択してみるのは、内から沸き上がる情熱を持たないひと――凡人には有効かもしれません。*5


ただし、非合理であることと非常識であることは違います。
デーモン小暮の有名な言葉に次のようなものがあります。


「常識は破っても構わないが非常識であってはならない」*6

 

要するに、「変な奴」と「不審者」は違うというわけですね。


むしろ非常識であることは、不自由にもそのように振る舞うことしかできないために、非常識なのだと言えます。


常識を破ることはスティーヴ・ジョブズの言葉として有名な“Think Different”と共振するでしょう。というのも、これは「別様に考えよ」といった意味でして、いわば、ひとはあるシチュエーションのなかで「常識人」にも「変な奴」にもなれるのですが、変な奴が同じシチュエーションのなかで疑惑の目でなく羨望の眼差しを向けられることもある、そういったかたちでの「常識の破り方」があることを示唆しているのです。これは非常識とは違います。

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もしかしたら、「自分の人生を主体的に生きろ!」と宣う啓蒙書は、以下のようなメッセージを担っているのかもしれません。


「あなたは非常識にも合理的に生きてしまっている。なのでこれからは常識的に考えて、非合理に生きなさい。」

 

――であるとすれば、あなたには自分自身に正解することが許されず、それに解答することだけが要求されているのです。

 

_了

*1:「JK」はネットスラングで「常識的に考えて」という意味です。

*2:もちろん合理的な模倣もありえます。しかしこの模倣してしまうという人間の性格は、合理不合理を超え出た非合理性に属するように思われます。なにせそもそも言葉の習得過程が、自分の意志とは無関係な模倣によって気が付いたらしゃべれるようになっていたりするわけですし。

*3:この言葉にわたしが込めたいのは「非合理に考えて」という意味です。もしくは「非合理になってみて」などと当て込み、HNでもいいかもしれません。なにせ非合理は考えてなりきれるものでもないですから。

*4:ただ、自分の取り組みと他人からの承認のあいだには表現行為が必要になりはします。書かない小説家の処女作が世間に認知されることはありません。

*5:人間は誰もが凡人です。それは誰もが天才にもなれるという意味でさえ、凡人なのです。天才という呼び方は、ある人間関係の綾のひとつの帰結でしかないのです。そして人間関係がある綾を構成しうる体系を持つのであれば、それはあたかも言葉のように理解することもできます。つまり「言葉の綾」のように見立てることもできるのです。――この意味で、文学および詩学は人生の真実、ならびにその滋味を告げていると言えるでしょう。

*6:

 

我は求め訴えたり

我は求め訴えたり