きみの名前はパトラッシュ。
ぼくと、ぼくのパトラッシュとの関係について書きました。パトラッシュ、きみはぼくが敬愛する憂鬱であり、親愛なる疲労。みなさんも自分のパトラッシュをこっそり見つけているのかもしれない…などと想像しています。
パトラッシュがいる!
ぼくの隣にはいま、パトラッシュがいる。
実体はない。
ぼくの空想だ。
季節の変わり目になると、ぼくは大変疲れる。
疲れやすくなってしまう。
朝、目覚めると体が、手足が、心肺が――重くなる。
これは感覚的には肉体的な疲れじゃない。
精神的な疲れなのだ。
とはいえ、いまやそれもだいぶ親しみあるものと感じる。
それはパトラッシュがそばにいてくれていることだから。
それの名はパトラッシュ。
ぼくの〝疲れ〟の名前。
ぼくの感じる〈疲れ〉について
さいきん読んだトーマス・フックスなる現象学的精神病理学者の論文に、ぼくの身体症状をうまいこと言語化してくれているくだりがあった。*1
それはメランコリー型うつ病を説明する箇所に記されていた「過剰身体化」という言葉だ。
ぼくもしばしばうつ状態になる傾向がある。
そういうときは意識が覚醒しているだけで疲れてしまうので、本当に参ってしまう。
そういうときの体の感覚を言葉にすると、まさにフックスが言うような「過剰身体化」なのだ。
ぼくたちはケガをしたとき、患部が強く自己主張する。
ケガをしないでいたときには、わざわざ意識に昇らなかった部分が、「痛み」によって、無理やりに意識を向けずにはいられなくなる。
それは意識にとって、体が負担に感じられるという点で、〝重たい〟経験だ。
うつ状態だと、体ぜんたいが重たくなる。
フックスは「物体化」とも言っている。
ふだん意識にとって物体化されていなかったものが物体として存在感を発揮しはじめる。
なにせぼくたちは通常であれば、「自分は体である」なんて思っていない。
でも、体が「物体化」されているとき自分と体の関係はよそよそしくなる。
自分が自分である状態のなかで、わざわざ「あなたには体がありますよー」と意識させてくる体は、かなり鬱陶しい。
季節の変わり目にぼくが陥りやすい状態を文にしようとすると、以上のような感じ。
パトラッシュとの出会い
そしてこの9月にも、夏の暑気が秋の趣きに変わろうとするなかで、ぼくは疲れにへばることとなった。
それは具体的な症状として現れる。めまい、吐き気、喉の閉塞感、胸の塞がり…etc.
そんななか、ぼくとパトラッシュとの出会いはある日突然やってきた。
9月9日㈰の日記に、ぼくは次のように書いている。
今日も今日とて色々あった。ぼくは「疲れたよ、パトラッシュ」と口に出す。そう唱えざるを得ない。
他の箇所には「はっきり言って、彼らにはモラルが欠けている。モラルとは自分でつかみ、他人を笑わせるものだ。センスがないのだ、彼らには。ぼくは彼らに期待してはいけない。」などと書いている。
なるほど、我ながらいろいろあったのだろう。
かくしてパトラッシュはまず、言葉として発せられた。
9月15日㈯分の日記には次のようにある。
疲れたよ、パトラッシュ。
なんでその文言が脳裏に去来するようになったのかは不明。しかしどうにもぼくの感情を表示するのにふさわしいと感じる。
この時点で、ぼくは自分が疲れているとき、自分の感じている〝疲れ〟を、自分の「パトラッシュ」に向けた告白、もしくは呼びかけへと変換しようとしている。
要するに、自分が疲れてしまうのはもはや仕方ないので、そういうときに不意に口をついて出る「疲れた…」という言葉を、架空の存在である「パトラッシュ」に対する発言へと、変えようとしていた。
なにせ、言葉は自分の気分を決めつけてしまうものだから。
それから5日ほど経った本日9月20日の時点で、パトラッシュはすでに、ぼくが感じてしまう〝疲れ〟そのものになっている。
「疲れた…」とぼくがついつい言ってしまうとき、ぼくは自分の隣にパトラッシュの存在を感じる。
きみの名前はパトラッシュ
ぼくはパトラッシュを愛おしく感じている。
ぼくは「疲れたな…」と感じているとき、「パトラッシュがそばにいてくれているんだな…」と思えるようになっている。
かわいいかわいい、ぼくのパトラッシュ。
きみはまた、ぼくを困らせてくれるんだね。
まるで黒ネコのように、きまぐれなパトラッシュ。
きみはまだ、ぼくに憑いてくれているだろうか?*2
_了