can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

映画『クワイエット・プレイス』:あそびと絶叫

映画『クワイエット・プレイス』を観ました。

とにかく音を立てるのはマズいと、予てより観ていた予告映像で訴えられていたわけです。音を立てるとどうなるというのか――ってのが、わたしが観客となった動機。

 

 起りーーOf the quiet place(その静寂について)

 

内容のネタバレにはならないと思います。というか、本筋に触れなさ過ぎて『クワイエット・プレイス』というタイトルをこの記事に付けることさえためらわれるくらいです。

とはいえ作品のイメージを読者に持ってもらうために、まずは公式サイトに掲載されている文言から引用させてください。

音を立てると“何か”がやってくる。
音に反応し人間を襲う“何か”によって荒廃した世界で、生き残った1組の家族がいた。
その“何か”は、呼吸の音さえ逃さない。誰かが一瞬でも音を立てると、即死する。
手話を使い、裸足で歩き、道には砂を敷き詰め、静寂と共に暮らすエヴリン&リーの夫婦と子供たちだが、なんとエヴリンは出産を目前に控えているのであった。
果たして彼らは、無事最後まで沈黙を貫けるのか――?

quietplace.jp

要するに音を立てると死んでしまう世界観なわけです。

プレデターは体温でしたが、この作品では音が生存のネックになってくるようです。

何によって、どのように死んでしまうのかなどは、本編をご自身でお確かめくださいませ。

 

ではでは、わたしが印象的だなぁと感じたことなどをつらつら書いてみようかと思います。

 

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...Just Don't.(……とにかくやるな)

 

主人公父子が川に狩りを目的に訪れるシーンがありました。川で、魚を獲るシーンがあって、魚を取り逃がしてしまうシーン。そこで音を立てることに過剰に怯えた息子を父が諭します。より大きな音があれば大丈夫だ、というわけです。そして、音を立てることに怯えないように息子を滝に連れていきます。滝では大声を出しても平気だからです。父は怯える息子の前で大きく声を発してみせます。

わたしは思いました。父が子に教えていたのは、ルール(法)の外でした。ここでのルールというのは、常に既に守らなければならないものとして架せられている不条理――「音を立ててはいけない」ですね。この外側に位置づけられるのが「大声を出してもいい場合がある」という滝でのシーンでした。

ルールの逸脱は通常、罰せられます。しかし必ずしもそうではないということを知る。これは息子にとって大きな経験でしょう。ルールへのコンプライアンス精神にのみ貫かれていては、それこそ〈あそび〉(Play)がありません。あそびがないと、〈ひと〉は人間にはなれません。人間はロボットではないのですから。ひとはあそびを介して人間になるのです。

論理の歩幅が足早な嫌いがあるといけないので、もう少し書き足します。

ロボットはシステマティックに動作します。システマティックってのは合理的だということです。準拠する法則に従うだけしかできません。こうした自動人形を、わたしたちは人間的であるとはみなしません。人間的であるという判断をわたしたちがするとき、それは非合理的な行いをしたひと、もしくはそのような振る舞いが可能であることを前にした場合です。なにしろ、ロボットは順法こそが本義なのですから。

ゆえに、ひとにとってあそびは、ロボットであることから距離を置くこと、人間になること、そして自由になることに関わってくるのです。

滝のシーンでルールの外部を知った息子は、それを知る前とは微妙に違った世界を生きることになります。この世界を強靭に支配しているように思われた「音を立ててはいけない」というルールには、抜け穴がある。その事実に気づいた後では、ルールを有するゲーム(世界)から厳格さが少しだけ(しかしそれはとても大きなこと!)抜けるのです。つまりあそび、もしくはゆとりが出来ます。

  

Keep!(近づくな!)

母親が子どもを産みます。そのシーンで、母は絶叫するわけです。

「クワーーーーーーッ!」

(このように書くと少々シリアスさに欠いてしまうかもしれませんが)

陣痛と、産みの苦しみ。

赤ん坊が股から漏れるのです。

〈いのち〉が、生命が。

わたしはとっさに日本神話を思い出しました。

イザナキとイザナミのエピソードが。

かの夫婦のあいだに起こった悲劇とは、次のセリフで言い表しておくことにします。

 

――きみが子等を殺すなら、ぼくはそれ以上に産み続けてやるさ!

 

これは男と女の約束のようなものですね。

女神が苦しみを呪い渡し、男神はその呪いを振り払う速度で創造する。

母の出産のおりに、と に か く 危機的状況に陥ります。

このとき女神の呪いに苦しみながら母である女人は願うわけです。……どうか、近づかないでください。

創造(Creation)は感動的だなぁと、改めて感じ入りました。

 それは、痛みを伴うほどに。

「音を立ててはいけない」という厳格なルールのなかにいながらでさえ、絶叫せずにはいられなかった産みの苦しみ。わたしはそこに何かしら重要な象徴性を感じたのです。

「産み」と「痛み」。

"Give birth"という言い方があります。出産の主体は母親であるわけですが、広く「創造」という言葉を考え、絶叫を禁じ得なかった母親を駆り立てたもの、それを思いますと"Give birth"を用いるとすれば、的確な表現としては主語は"It"で、"It gives birth"、すなわち"it gives birth through her body"とでも表現してみたいところです。

いずれにせよ、感動的です。

 

締めーーLearn to me(わかるだろう?)

ただ、作中、世界的に危機的状況になっているというのは、ちょいと人間サマを低く見積もり過ぎてる嫌いがあるのでは?――なんて思ったりしちゃいました。

ほぼほぼ「クワイエット・プレイスズ」と言ってもいい状況……。

どこもかしこも、的な?

ただ、そんななか、音を立ててはいけない環境で適応していこうという人々は、彼らの共通言語として、手話や狼煙などの原始的な意思伝達方法を取っていました。

彼らは、彼ら自身が変わるように促されていたというわけです。

それは彼らが彼らであらんとすることのなかで。

人間が人間であらんとすることのうちで自身を変えていくように。

 

わたしが父子のシーンと母子のシーンで考えてしまったことは、言い換えると、「自己の統治」と「創造の主体」と言ってもいいかもしれません。

自分が自分であることのうちには、「わたしは私である」というアイデンティティがひとつのルールとして走っているわけです。「自己は自分のイメージである」と言ってもいいでしょう。ここには、統治するものとしての自己があります。

あそびのない主体が非人間的であるとすれば、彼があそべるようになることはひとつの統治問題と言えます。どうか、どうか、非合理的で人間的な主体であれますように。――とまで言わなくても、そう〝でも〟ありえる主体であることのほうが堅苦しさはありません。ルールをあそべるようになれれば、より人間らしく、自分らしく、自由になれるでしょうし。

「創造の主体」と述べてみたい母親の出産のシーンからは、たとえばこの映画を観て感動したときに、「感動しているのは誰か、もしくは何なのか?」と疑問を浮かべることができます。素朴な認識だと、感動をしているのは自分なのだけれど、うがった見方をすれば、感動はさせられているものだと言えます。では、させているのは誰で、何か? 「それは映画作品です」と答えることはできます。しかしはたしてそうでしょうか? 感動は降って湧いたように、やってきます。それは尿意をもよおすように、うちからやってくるわけです。おのずと。わたしたちは自分の尿意を誰かのせいだと述べたりはするでしょうか。しないわけです。そうした不特定的で非人称的なものがもたらすものとして、感動体験も理解することができるのではないでしょうか。

感動のように、創造も同じようにうちからやってくる何かと向き合うことです。あるいはうちにあるものとの向かい合いと言ってもいいでしょう。そこでは行為の主体は「わたし」や「あなた」にはならない、非人称的な"It"がもっとも的確な主語であって、主体であるような、そのような消息が創造の現場にはあります。

そうした、"It"を告げ知らせる絶叫こそ、産気づいた母親の喉から発せられた音だったように感じたのです。

 

――Learn to me! 

 

_了