can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

図書『自閉症の僕が飛びはねる理由』:障害または個性に抗して、表現力を鍛えるために努力して感覚を洗練させていくこと

東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』を読みました。その本から何を読み取れるのか。そして何を読み込めるのか。言い換えれば、本に何を読み、何を読まれるのか。自閉症を巡る発見について。

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 はじめに:自他の違いの手触り

 

かつて統合失調症がその位置にあったように、いまや自閉症は「人間とは何か」を考えるうえで、重要な示唆に富む症例とされています

自閉症はしばしばコミュニケーションの障害だとされもし、あるいはダニとヒトとで接する世界が異なっているように、生きている世界の違いなのだという論者もいたりもします。

ひとは他人と違っているからこそ、その違いを埋め合わせる配慮や、その懸隔に対する認識を深めることができます。それは性格や立場などさまざまな領域で認められますが、素朴には世界の現れ方を自他のあいだで殊更に念頭へと浮かべることはありません。そうであるからこそ「どうしてこんな簡単なことがわからないんだ!」などの言い方がまかり通ってしまうわけです。そのような実情に対し、自閉症者の、健常者の知覚世界との懸隔を考えることは、わたしたちが実際に生きている環境が、はたして隣り合う他人にとってのそれとぴったり一致させることができるのだろうかという認識へと、わたしたちを導いてくれもするかもしれません。現に、彼らとのあいだにはたしかな違いがあります。しかし、その違いは健常者同士にとってまったくの無関連であるようには、わたしには思えません。

 わたしは本稿でその違いの手触りをたしかめます。あるいは、そうした違いが個性的に生きるということにどういった意味を持つのかについてを。

 

自閉症について――音の伴わない声

 

自閉症という表現からもわかるように、当事者である彼らと非自閉症者としての健常者(もしくは定型発達者)とのあいだには、隔たりがあります。その隔たりは主に、健常者向けに構築されたコミュニケーションに、自閉症者からの声は拾われにくいという点にあるでしょう。自らを表現することで他者とつながり、他者とつながりあうことで社会とのつながりを自覚できることが、ひとつの人間的条件としてあるわけです。しかし表現が伝達し、理解されるまでに至らなければ、声に音は伴いません。音の伴わない声にはひととひととの〈あいだ〉における存在感は皆無と言っていいでしまう。そうした声がなんらかの条件で他者から閉ざされているのが、自閉症

 

――仮にではありますが、自閉症をうえのように理解しておきます。

 

さて、声なき声を持つ自閉症者にも、自己表現をすることができた当事者がいます。

世界的に有名なのはドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』。

自閉症について論じる場合、ほぼ全てと言っていい論者が、ウィリアムズの本を参照します。

 

本邦においても、そのような自閉症当事者の声が本になっていて、しかも世界的なベストセラーとなっていることも、自閉症に関心のあるひとであれば耳に入ってきます。

その本は『自閉症の僕が飛びはねる理由』、著者は東田直樹。

今回、わたしが読んだのはその本です。

 

表現行為と意思伝達、そして自己認識の発見

意思伝達という難事

 

わたしたちはことばを、意思伝達のためにあるものだと思い、それを用いることで自分以外の人たちとの意思疎通が叶うのだと信じて憚りません。

ことばをそのように理解するわたしたちが、思っていることが伝わるか否かということにこだわってしまうのも致し方なしと言えます。それゆえにコミュ障は疎むべきものとされ、あがり症は改善されるべき病理と見なされてしまうわけです。

 

そうした背景がある以上、同じ価値観を共有せざるをえない(させられるを禁じ得ない?)自閉症者の側でも、その意識裡において意思伝達の可否が重要な位置を占めたとしても、決して奇妙ではありません。

ただし、自閉症者当人が実際にどのような自他へのないしは世界への認識を持っているのかどうかを確かめられるかどうかが、ことばによる意思の伝達行為を介さなければならないという事実は、大きなネックとなります。

 

こころ と ことば

 

多くの健常者がそうであるように、ひとの意思と行動の関係はことばによる表現を通して了解されます。その点で自閉症者は意思と行動の関係が読みにくく、ことばもうまく使えないということもあって、外側から見ると、健常者と同じような内面を、自閉症者が持ち得ているのかどうかは、必ずしも判然としません。

しかし自閉症者である東田直樹が、文字盤ポインティングおよびパソコンを用いた自己表現の手段を以て語ったところでは、語るべき何かが存在する領域である内面の所在を明らかにしています。ことば と からだ  の関係上の接続困難とそれに由来するかなしみを、彼は次のように表現しています。 

僕も話せないのはなぜだろうと、ずっと不思議に思っていました。

話したいことは話せず、関係のない言葉は、どんどん勝手に口から出てしまうからです。僕はそれが辛くて悲しくて、みんなが簡単に話しているのがうらやましくてしかたありませんでした。

思いはみんなと同じなのに、それを伝える方法が見つからないのです。

〔……〕

僕たちを見かけだけで判断しないで下さい。どうして話せないのかは分かりませんが、僕たちは話さないのではなく、話せなくて困っているのです。自分の力だけではどうしようもないのです。

〔……〕

自分の気持ちを相手に伝えられるということは、自分が人としてこの世界に存在していると自覚できることなのです。話せないということはどういうことなのかということを、自分に置き換えて考えて欲しいのです。

(東田直樹『自閉症の僕が跳びはねる理由』,角川文庫,2016(2007),p30-31)

 わたしたちが「こころ」という言い方を用いるとき、そこではしばしば、ことばの故郷のようなものとしてイメージされる自分の内側が思い描かれるでしょう。

他方で、「ことばは存在の家である」という見解もあります。この観点から言えば、わたしたちはことば以前に内面らしきものがあるのではなくて、ことばを通して発見していく内部があり、そういった発見していくプロセスの結果として内面らしきものが「いつの間にやら、そこにあった」という態で存在している…ことに気づく。――そのような消息により、「こころ=存在」は成型されているというイメージを持てます。

わたしは、後者の立場に信憑性を見る立場にあります。

 

思えば、日本人が西洋の列強諸国に追いつけ追い越せの精神で駆け抜けた明治からこの方、文学者が浪漫主義や自然主義、あるいは私小説、はたまた大正時代にプロレタリア文学、昭和時代の新感覚派だのという身振りを見せていたのは、近代に値するだけの内面つまり「こころ=存在」を、どうにか日本人に成型しようという努力だったのではないでしょうか。現代にSNSやブログなどで容易に発信できる気持ちや感想、主義主張に至る〈自分の事情〉が、そのような文学者たちの軌跡を抜きにしては実現しなかった可能性を思うにつけ、「ことばは存在の家である」という言い方はにわかに信憑性を持ちはじめます。*1

 

自己認識は意思伝達を狙い、表現行為を通して発見される

 

以上の記述を踏まえてわたしが言いたいのは、東田直樹の内面もかなりの部分が、彼の表現行為の結果として発見されたものなのではないかということです。「発見されたもの」というのは必ずしも〝他人と意思伝達ができる自分〟の発見のことだけではなくて、彼自身の自己認識の発見でもあるように思われます。なにせ表現行為は、その表現結果(=作品)によって、表現者をほのめかすことができるのですから。

 

表現行為に関してもう少し述べますと、たとえば、ことばを表現媒体として用いるなら、そこにはあるルールが前提となるようなゲームの成立と表裏です。つまり、ことばを使ったゲームのプレイヤーになることと、そこにゲームが成立しているということは、そのゲームをプレイすることにとっては「つねに、すでに」というかたちで前提になっています。このゲームのうえではことばのやりとりを介して話し手と聞き手とが存在していることになります。ことばの使用と意思伝達の成功は、そればかりではなく、ことばを発する何者かを遡及的に構成していく働きがあります。わたしたちが内面と呼ぶ領域はまさにそうした余剰物として産出されたものとしてある――「ことばは存在の家である」という文言を思い出しながら、そのような見方をすることができます。また、ことばを発する何者かは、そうしたゲームのなかで否応なく聞き手への意識を持つことになり、聞き手に想定されている自分に自分自身がなっていくという構造を持つことになります。なぜなら意思伝達を目的としてことばを使うとき、そこには伝えたい相手がいなければならず、さらには伝えようとしていることと相手との関係を絶えず調整していかなければならないのですから。それにより自分は相手を想定し、同時に、想定した相手にとっての自分を想定することとなります。自分が、意思が相手に伝わるためには、「聞き手に想定されている自分に自分自身がなっていく」というのはこの意味においてです。そしてそのことが、わたしが「自己認識の発見」という言い方でつかもうとしているところでもあります。

以上が表現行為と意思伝達がもたらす自己認識の発見の内実に関して述べられるところです。

 

「できること」を通して自分を好きになる

 

意識というものは、生命に対して遅れてやってきます。言い換えれば〈じぶん〉は〈いのち〉に対して遅れてやってくる、というわけです。

人間の自己意識が、「意識についての意識」 の成立こそその内実であることは既に知られています。「意識についての意識」と言うとき、意識を「手前の意識」と「奧の意識」とで分けるとして、重要なのはそのあいだです。手前にあるものへの奥にあるものとの関わり。それらを媒介するものが必要で、その媒介物を通して表現されるものが自己意識として出力されるのです。

手前の意識と奥の意識の話題は、自分と他人の意思疎通の話題とも繋がります。そのあいだの接続困難が自閉症者の困難であることは既に確認しました。そしてここで確認したいことは、その困難を埋め合わせる努力が、意思表現方法の習得に関わってくるということです。

東田は次のように述べます。

ひと言でいうなら、障害のある無しにかかわらず人は努力しなければいけないし、努力の結果幸せになれることが分かったからです。

僕たちは、自閉症でいることが普通なので、普通がどんなものか本当は分かっていません。
自分を好きになれるのなら、普通でも自閉症でもどちらでもいいのです。(同上,p60-61)

先に引用した箇所を踏まえるなら、自分と他人とのあいだの成立を可能にする条件として、意思伝達のための方法を習得することが大切になってくる、と読んでいいでしょう。彼のことばを借りるなら「自分が人としてこの世界に存在していると自覚できること」のために。そのために、ただ存在しているだけではなく、存在している自己を表現していくことが重要な意味を持つのです。

 興味深いことに、彼は普通になるために努力するべきだとは言っていません。普通であるかどうかより「自分を好きになれる」ことが大切なのだと説きます。普通であることのうちにある幸福は実にあやふやです。さしたる努力をせずとも、健常者でさえ「幸せとは何か」に悩んでいるという情報は、嫌でも耳に入ってくるというのに。そうしたあやふやなものに己れを賭けるよりかは、現状の肯定をどう展開させていくかを考えたほうが賢明でしょう。

心理学者の榎本博明は『自己実現という罠』(2018)のなかで次のように言います。やりたいことより、できることを増やすことが大事。これは至言で、自己実現を説く甘言に従っていても自分を好きになれることはありませんが、自分の能力が上がっていくと、できることが増え、相乗効果で自己肯定と願望とが形作られていくことはたしかです。そうした「できること」は自分の表現の仕方に関わってくるのですから。

 

変われば変わるほど変わらない

 

自閉症者は変化することを苦手とする特性があります。彼らがじーっと動かずにいることは、世界の側がぐわんぐわんと変容していく体験のただなかに取り残されることになります。なぜなら彼らの体験している世界は(個別的な程度の差こそあれど)過剰なクローズアップと過敏な過敏なハイレゾの知覚情報に満ちているからです。

健常者の感覚で言えば、何かに熱中してしまってそれ以外の物事が視界に入らなくなってしまうこと、または、音声録音媒体で録音をしてそれを後で確認するときに入り込んでいる様々な微細なノイズがそれです。それが自閉症者だと、何かに熱中していく能動的なプロセス抜きに熱中させられてしまっているという状態に陥りますし、ちょっとしたノイズが意識の全幅にわたって占拠し、集中を欠いた状態に陥ることとなります。彼らはそれを振り払うように絶えず変化を促してくる世界に抗して、自らの体をしゃにむに動かします。

しかし東田はそれにもかかわらず努力が重要だと述べているのです。努力とは未熟な自分を熟達した自分へと変身させるプロセスでありベクトルである以上、そこには自閉症者が忌避する変化が伴うはずなのに。

 

たしかに、東田のいう「努力」もまた変化を伴いますが、その先にあるものは寧ろ「変わらないもの」を持とうとする意志であるように思われます。

彼は次のように自身の努力を記しています。

僕の場合は、覚えたいことを確認するために書いているのです。
書きながら見た物を思い出します。それは、場面ではなく文字や記号です。文字や記号は、僕の大切な友達なのです。なぜ友達なのかというと、いつまでも僕の記憶の中で変わらないからです。(同上,p68)

ここでは「変わろうとする自分」は、〝変わらないもの〟としての文字や記号を覚えていきます。〝僕〟はそうした「覚えたいこと」を場面から文字や記号へと置き換え、彼らに〝僕〟が見た物のイメージを付与し、いわば表情を授けます。その表情は〝僕〟に向けて場面を語り、表情を持つ文字や記号を〝僕〟は「友達」と表現するのです。そうした文字や記号などの(自分が覚えた)友達は「いつまでも僕の記憶の中で変わらない」ものになるのです。

 

以上のような努力は、「変われば変わるほど変わらない」趣きがあります。

健常者の感覚だと、好きなことは変わっていくのが当然であるという感覚を共有しています。それがいつまでも変わらないでいることは、しばしばアニメオタクが晒される偏見が示すように、「子ども向けのものが好きな変わったひと」といった視線をこうむることになりかねません。むろん、それは前時代的な偏見なのですが。

以上の健常者の感覚と対比させるなら、自閉症者の側では「好きなこと」は変わらないのかもしれません。彼らが取る常同的・反復的な行動は、そのような好きなことへのこだわりを示しているように思われます。

ただ、自閉症のそうした強いこだわりを保存したまま、ひと と ひと との〈あいだ〉で生活していくには困難が生じます。どのような事情であれ、人体の成長に伴って周囲から遇されるありようは変わってきてしまうのですから。そこで課されるのが「変わっていくこと」になるわけです。東田が「努力」というとき、踏まえられていることはそうした変化、言い換えれば、人生からその都度その都度で期待されることに、自分の能力の許容範囲内で応答することなのです

 

自分の能力、すなわち「できること」から人生の問いへと応答することは、いわば自分が自分であることへの自信を深めます。その自信こそ、「変われば変わるほど変わらない」という事態に働く、〝自分の変わらなさ〟をもたらすのです。

 

しかし自閉症者の多くがそうであるように、東田もまた変わらないでいることにとどまっていたい気持ちに支配されます。そのような傾向は性格というよりかは、彼らの身体感覚によって強く規定されています。たとえば「道が僕らを誘うのです。」(p120-121)という、自分の体が道のほうから呼ばれてしまい走り出すことを抑えられない感じ。または、「やってはいけないという理性よりも、その場面を再現したい気持ちの方が大きくなって、つい同じことをやってしまう」(p124)という、それをすることで得られる「感電したように、びりっとすること」への渇望。それらの抗いがたい誘惑にノセられてしまいやすい体質は、自閉症者にとって意志判断に基づいた責任能力を、他人が押し着せることの難しさを物語っています。と同時に、自分だけでは変わらないでいることへととどまり続けてしまいがちな在り方を告げてもいます。

自閉症の僕が跳びはねる理由』において、東田が何度も自閉症者への介助を述べているのも、以上のような事情があるのです。

 

アタマでわかっても、カラダでわからないこと――感覚について

 

東田は次のように自らの〝動いてしまう体〟について述べます。

じっとしていると、本当に自分はこの体に閉じ込められていることを実感させられます。とにかく、いつも動いていれば落ち着くのです。

(同上,p132)

    ここでは自閉症者にとっての〝主体的であらんとすること〟や、〝自由であるという感じ〟への、身体感覚に根差した感性が述べられています。彼はじっとしているとこの体に閉じ込められていることを感じてしまう。だからこそ、動くことでその閉塞感を振り払おうとする。

 

前述のように自閉症者の身体感覚は、過剰なクローズアップと過敏な過敏なハイレゾの知覚情報です。次々と押し寄せてくる情報の波に途方に暮れている状態。比喩イメージとして挙げるなら、地方から上京したひとが渋谷駅を降りて渋谷交差点を前に都会を体験する、あの呑まれてしまう感じですかね。あのようなひと、ひと、ひと、あるいは、もの、もの、もの――の知覚情報は自分を呆然とさせるという点で、こちらの主体性ないしは「自分が自分である感じ」を奪います。ここで自分が自分であるという主体性を奪われないようにする身振りが、東田が証言しているような動くことに繋がるのです。

 

多すぎてその全てを意識に拾えない知覚情報は、自分に受身的であらせようとします。この極致こそ、東田が言うような「この体に閉じ込められている」感覚なのです。そんななかでじっとしていることは、自分がその状況から引き算されていくような感覚をもたらすのではないでしょうか。

それに対して、動くことは受身的であれと強いる状況に対して、能動的でありえる自分を証明しようとする態度です。そうした態度の表明が、動いていることであり、それによって得られる「落ち着く」という実感こそ「自分が自分である感じ」を感得しえていることを示しているのです。

 

わたしは自閉症者の、いわば感覚タイプとでもいうような体験記述を読んでいて、そうした身体感覚を理解する補助線として、占いの領域でなされている人間の性格類型の記述が参考になるのではないかと思います。少し、手元にある資料から抜き書きしてみましょう。

感覚タイプの人は、まず、自分が味わった印象をこの上なく大切にします。たとえば映画を見たとしましょう。感覚タイプの人は、真っ先にその映像や音楽の美しさを問題にします。あるいは、ひょっとすると、映画館のシートの座り心地や席数などのコンディションにまでコメントするかもしれません。そして、俳優が着ていた衣装や小物、あるいは俳優が食べた食べ物のことまで実によく見ているはずです。[……]

このタイプの人は、自分が過去に五感を通じて経験したもの、あるいは今経験できることにのみ、非常に価値を置きます。

鏡リュウジ『魂の西洋占星術学習研究社,1991,p112)

 以上はおおむね障害などと呼ぶには中らないソフトな傾向性を記述したものですが、感覚タイプのイメージをつかむのには良いのではないでしょうか。

 

自閉症の場合では程度の差こそあれ、知覚を通して感覚的に与えられる情報のひとつひとつが、時系列のごとき統一性を持たず、ひとつひとつの知覚情報はぶつ切れの状態で意識に迫ってきます。上述の感覚タイプに関する引用で言えば、単に気になってしまう部分が感覚的なのだ、と言った対象体験の問題となりますが、自閉症の場合だとそれが世界体験の問題になります。

 

健常者の場合、対象との係り合いは他のひととも共有している客観的な世界を前提にしたものとなります。そこでは単に世界全体に含まれる部分を選択する仕方の傾向でもって性格タイプと見なされます。上に引用した感覚タイプもそれに漏れません。しかし自閉症者の場合の、世界との係り合いとなると事情は異なります。そこでは世界全体とその部分の区別がうまく付きません。なぜなら全体は部分的であり、部分は全体的であるような世界の現れ方があるからです。そこでは部分としての一は全と存在的な価値が等しく、時間的な距離も空間的な距離もひとしなみな基準で並列されてしまうのです。

「大は小を兼ねる」という言い方がありますが、大と小とのあいだになんら相違もなければそうした言い方の寓意も成立しないでしょう。そこには大小を意味付ける序列が機能していなければなりません。また自閉症的な世界体験を線ではなく、点の集合としての記憶そして世界だと考えることもできます。線であればある一点からの距離が相対的に把握できますが、点だけの世界となると、点と点とのあいだには連続性がなく、その都度その都度で行き当たりばったりな自己が間歇的に存在していることになります。

たとえば東田は自身の時間感覚を次のように述べています。 

ずっと続いているのが時間です。だからこそ、はっきりとした区切りがなく、僕たちは戸惑ってしまうのです。[……]

時間の変化で時間が経ったことは分かりますが、実感として感じることができないのが、僕たちには不安なのです。[……]

僕たちは怖いのです。自分がこの先どうなのるのか、何をしでかすのか、心配で心配でしょうがないのです。自分で自分をコントロールできる人には、この感覚は分からないでしょう。

僕たちの1秒は果てしなく長く、僕たちの24時間は一瞬で終わってしまうものなのです。

場面としての時間しか記憶に残らない僕たちには、1秒も24時間も、あまり違いはありません。

いつも次の一瞬、自分が何をしているのか、それが不安なのです。

(東田,p83-84) 

 引用文の末尾で、東田は「次の一瞬」への不安を表明します。

健常者の感覚では、次の一瞬に世界が激変しているという想像をすることはできますが、しかしそうしたイメージには蓋然性がなく、蓋然性という点で、自分の将来への漠然とした不安に悩むことはあっても、次の一瞬間への不安に怯えることはありません。言い換えれば、彼らには物語的な一貫性が前提にあるために、ある持続する時間幅をベースに自分のことをイメージできるのです。

他方、自閉症者の感覚ではそうはいきません。彼らには持続する時間幅を前提にできないのですから。引用した東田の証言にも〝間断なく続いている時間というもの〟への戸惑いが述べられています。そうした戸惑いを健常者の世界体験と比較してみますと、自閉症者にとってはそうした時間観念が、感覚的に納得できないという点が見えてきます。いわばアタマではわかっても、カラダではわからない。理解はできても、納得はできない。そういった観念として、健常者が享受している時間というものもあるのではないでしょうか。

先述の対象体験と世界体験という対比を再び持ち出せば、健常者が対象の選び方で性格を云々するレベルはひとそれぞれの自分にとっての対象体験のことであり、自閉症者が対象の与えられ方で〝障害者として〟生きづらさを覚えるのは彼の存在がこうむる世界体験のレベルの話なのだと理解できます。

 

終わりに:わたしたちの障害について

 

 さて、ここまで書いたところを振り返ってみると、主だったトピックとしては【表現】【努力】【感覚】に注目してきたようです。それらは図らずもビジネス書で扱われがちなトピックと等しくなりました。

 このことはしかし驚くことではないでしょう。なにせビジネス書ではモチベーションとコミュニケーションとが重視されているのですから。そしてそのような傾向は社会の側がひとに要請してくることでもあります。

 

自閉症は障害とされます。しかし彼ら自体が障害なのではありません。彼らと周囲の環境との付き合い上における齟齬が、そのような名称を彼らに与えてしまうのです。

 なので、ある意味では健常者が素朴に直面する、仕事上の人間関係で難儀しているのと同じです。関係性の病理。この場合の病理は、自閉症者と社会環境とのあいだのことだけを指すのではなく、我らと彼らとで自他を差別化しようとしてしまう、人類の根深い心性のことでもあるのです。

  • 「最大のライバルは自分自身」
  • 「誰に負けるより、自分自身に負けることが悔しい」
  • 「己に克つ」
  • 敵は本能寺にあり

最後は少し毛色が違うかもしれませんが、どれも体育会系のノリとしてはよく聞くことばです。どの言い方も正義の側に立つ我らに対して蒙昧で愚かな彼らとを見分けてしまう我らが我らであることの病理を剔抉した言い方として意趣を読み込むこともできます。

 

関係性の病理の克服は困難です。それは絶えず無自覚になされます。

それに抵抗するには絶えず醒めた意識で、自覚を心掛けることが大切――などと宣っても、自覚はそれ自体難しいもの。その困難はわたしたち人類が「無意識」という語彙を持っているという事実からも察することができるでしょう。

  

キリスト教では、わたしたち人間は神の似姿を持つと教えられます。完全無欠な「神=God」と同じ姿を持つ栄光に浴しているのが人類なのだ、というわけですね。

――と、同時に、人間はアダムとイヴが楽園にいた折り、原初の罪を犯したのだとも伝えています。その罪によって人類は楽園を追われたのだ、とも宣います。つまり人間は不完全有欠の存在なのだと説くのです。

 

歴史を振り返れば、人類が似たような事情から失敗を重ねてきたことが容易に読み取れます。それを教訓とし、現代に生きるわたしたちは学ぶのである、というわけですね。しかしそれはあまりにも容易く、ただのガス抜き程度にしか効き目がないかもしれません。他方で、凄惨な事件を乗り越え続けることには限界が見えてきた、というのが20世紀でした。表象不可能な、ひとが思い描くことのできない、あるいは正視することさえも禁じられた出来事が、かの収容所で起こってしまったからです。

人類は歴史を辿り、文明を発展させてきました。そこでは失敗は乗り越えられるものだという強い認識もあり、また、目も当てられない失敗も抱えて共に歩むのだという認識もあったでしょう。しかし無限に発展していく歴史モデルは非人間的な趣きを醸してきたのです。

 

わたしたちは楽園のあとで、歴史を単に過去を乗り越えるモデルとして理解すれば、そこには否定されたものたちが、「失敗」や「敗者」(すなわち彼ら!)の名を享けて隅へ影へ、そして闇へと追放されていくことになります。そうした影は、光としての我らとは対照的な位置へと押し込められ、しかし消滅することもなく、絶えず我ら(わたしたち)の背にピタリと張り付いているのです。ときに馴れ合い、ときに脅かされなどしさえして。

 

 わたしたちは楽園のあとで、歴史を過去と共に上昇していくモデルとして理解しなくてはなりません。そこには振り返ることが困難な過去もあるでしょう。憎悪や悔悟さえも。人類の歴史にどす黒く塗りこめられた、かの収容所の記憶の前に、わたしたちが「無意識」ということばを持っていたことは僥倖でした。無意識とは、葬られた記憶の、音を伴わない声の存在を掬いとろうとすることばです。わたしたちは我らの一致の構えを取り、そうした音を伴わない死者の声を、耳を塞ごうとする身振りさえも必要とせずに掬い取らずにいました。それはたしかに可能で、なんら問題もなさそうにさえ見えました。しかし思い出さなくてもいいことばかりのなかで、思い出してはいけない記憶を所有するに至り、そうした認識は変えざるを得なくなったのです。それはまた、わたしたちの持つ障害と向き合うことでもありました。

 

自閉症的な自己のありようは、物語を批判するものであると言えます。線ではなく点。引いていくものではなく、打っていくような自己の起こり方。わたしたちが当たり前に享受している自己の在り方では計り知れないもの。過去と現在、あちらとこちら、他人と自分などの〈あいだ〉を自明視した時間的なものではなく、いわば打刻的なもの。「置かれた場所で咲きなさい」ではなく「打たれた時刻に鳴りなさい」。打刻と打刻の〈あいだ〉の余白と沈黙も、そこにはあります。

 

余白と沈黙は何もないわけではない。そこには無がある。わたしたちが線的に、物語的に一貫性の保証を求める姿勢からは記し漏らしてしまう現象の力場があるのです。そこにある何かを拾わずとも構わないでいられる心性は障害的ではないでしょうか。現に、そこには余白も、沈黙、そこに無という在り方をした何かがあるというのに。それに構わないでいられようとは。

 

要するに、障害は我らが我らであることのうちに、わたしたちがわたしたち自身と係り合うその関係のうちに存するのです。【表現】【努力】【感覚】という、わたしの気がかりもそこに掛かってきます。表現力を鍛えるために努力して感覚を洗練させていく。その結果として発見される自身の障害を伴って、次の自分へと締めくくる。もしかすると、わたしたちの困難は、あたかも他人のような障害者としての自分を自覚し、そうした自他の異なりを伴うことによって深められる関係のありようを告げているようでさえあります。そこには個性があるでしょう。〈ひとつごと〉としての自分がいるでしょう。

 

単純に乗り越えてはならず、複雑にも伴って往かねばならぬもの。わたしたちの生涯は、そうしたものたちをたずさえることで不完全有欠の存在であるがゆえに開かれた自由へと乗り出せるのです。

【表現】【努力】【感覚】――これらと向き合うことで伴うのは個性との格闘です。個性は障害と言い換えが効く嫌いもあります。しかし同時に、個性は自分が欣喜雀躍と跳びはねたくなるほどの夢の実現の可能性を内包してもいます。 楽園のあとで、楽園の夢を見続ける自由。夢から醒めるのではなく、夢を改め続ける自由。そこで〈ことば〉は、善き揺籃となってくれることでしょう。あたかもそこに〈こころ〉があるかのようにほのめかしながら。

 

_了

 

 

自閉症の僕が跳びはねる理由 (角川文庫)

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自閉症だったわたしへ (新潮文庫)

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新書877自己実現という罠 (平凡社新書)

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魂(プシュケー)の西洋占星術 (elfin books series)

*1:このあたりの日本人と文学者の悲願の消息は、高橋源一郎日本文学盛衰史』が参考になるでしょう。彼もまた小説家であり、文学者なのです。