can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【占われることの責任】占いは「当たる」のではなく「中る」ものである

近ごろ、鏡リュウジ(1968-)というひとの仕事に関心があって、ちょこちょことつまみ読みしています。その過程で『魂の西洋占星術』(1991)という本を読んだのですが、そこで占いの「当たる・当てる」ことに関する興味深いことが書かれていて、そのことについて考えはじめてしまったことをまとめてみました。

 

 

 

おこり:占いというもの

 

ぼくたちは占いというものに対して、「当たるかどうか」の点で評価しがちです。雑誌の占いコーナーを読むときに、念頭にあるのはそれでしょう。

そうした想いは天気予報を見聞きするときとは同じでしょうか?

それによって自分の身の振り方が決まるという点では同じかもしれませんが、天気予報では〈一般的なこと〉として納得するのに対して、占いでは〈個人的なこと〉が問題になっているという点で、ふたつを同一視することができません。

天気予報士が明日の天気を外しても、ひとは必ずしもその予報士に対してその日の天候に関する全面的な責任能力を見はしません。たとえ明日の天気予報をどれだけ信じたかったとしても。

しかし占い師に対してはどうでしょうか。占いを信じたいひとにとって、占い結果が外れたら、占い師をペテン師と呼び付けることさえ厭わないほどに、その占い師に自分の〈個人的なこと〉に対する責任能力を期待してしまってはいませんでしょうか。

  

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考えてみるとこの違いは不思議です。

天気予報だと、それが〈一般的なこと〉であるがゆえに、〈個人的なこと〉とは一線を画しているとこがあります。占いを信じたいひとは、自分が自分であることへの責任を放棄しているようにさえ見える向きがあります。この点では、占いの胡散臭さが読み取れます。なにせひとの信頼は、当人の意志と責任に基づいて発信される言動を根拠にして形成されていくものですが、占いに頼るひとには「自分を頼る」ことよりも「ひと任せにする」態度が目につきやすいところがありますし。

 

ところが鏡の『魂の西洋占星術』によれば、それは占い結果に対する、ひいては占いに対するミスリーディング(誤解)からくる認識なのだという観点へと導かれるのです。

 

運命を引き受ける責任

 

ぼくたちは「自分が幸せかどうか」と問うのと同じやりかたで、「自分の運命とは何か」を考えることができます。そうした問いかけは、自分に向けた疑いのまなざしです。「おまえにとってのホントウは、本当にそれで合っているのか?」というかたちへと、問いかけかたを変換してもいいでしょう。

 幸せも運命も、きわめて個人的なことです。そしてそれが個人的であることによって、その是非に関する保証を誰に対しても問えなくもあります。言い換えれば、他の誰の責任にもできないものとして――生き方や幸せ、自分の運命について等々の――自分個人の問題はあるのです

誰の責任にもできない。それは自分が自分であることへの自由を語ってくれもします。が、と同時にすべて自分のせいになってしまうことの不安を示してもいます。

 

ひとは、自分の運命がひと任せにはできないことを知っています。――この文言に対して無理解を示すひとは少ないでしょう。

ひと任せにできる自分の運命というものがあるなら、それを〝自分の〟運命だと呼ぶのに、なんらかのためらいや、もしくは欺瞞を感じてしまうことにさほど奇妙さはありません。そこには自分が自分の運命ないしは人生を生きることにおける主語が〈わたし〉であるということへの責任がありません。

リスクが〝負うもの〟でありながら〝選び取るもの〟でもあるように、運命も〝背負うもの〟でありながら〝引き受けるもの〟でもあるのです。後者の言い方を可能にする態度が、責任の根拠となります。そして、それなくして自由意志は成立しないのです。

 

占いが〝当たる〟ということ

 

 リズ・グリーン(1946-)によれば、占星学における自分の出生の時とそのときの天体の位置とを照らし合わせたホロスコープ(出生天球図)は、ひとが自分自身の〈こころ〉の向きに自主的に協調し、最初から自分の奥底にある潜在能力を最大限に生かそうという決意の心性を示すことはできないのだという。この決意には、最も深い意味での個人の自由意志がある、とも言う。*1

 つまり、占星術すなわち占いには本来、すべてが決定された物語に自分を重ね合わせるだけの決定論的な意味ではなく、むしろ自分が決意をする余地がしっかりとあり、その余地において個人の自由意志が顕現する、いわば自分が自分であるための領域が存在していると言うのです。

 

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 以上のグリーンの観点は、鏡の『魂の西洋占星術』においても生きています。鏡は「占いが当たるかどうか」という点に関して次のように述べます。

 心理占星学では、「当たる」ことを問題にしません。なぜなら、決してホロスコープは「黙って座ればピタリと」式の当てものではないからです。ホロスコープだけからでは、その人が男か、女か、あるいは日本人かアメリカ人かさも判断できません。

 (鏡リュウジ『魂の西洋占星術』,学習研究社,1991,p274)

 引用文中の「ホロスコープ」を、鏡の同書から引用で再び捉え直しますと、「ある人が生まれた瞬間の太陽系の星の配置を1枚の円形の図に表したもの」*2のことです。そのホロスコープを前に、「黙って座ればピタリと」いう当たり方はしない。だからこそ、鏡はハッキリと「当たる」ことは占い(心理占星学)の問題にはならないと述べるのです。

鏡は続けます。

 ホロスコープは、その人の潜在的な可能性をシンボリックな形で示すものです。それがどのように発現するのかは、その人の環境や努力によります。(同上,p274)

グリーンが、自分の奥底にある潜在能力を最大限に生かそうという決意の心性を示すことは、ホロスコープが示すところではないと述べたのと同様の主張がされています。

鏡が「その人の環境や努力」と述べるところを深掘りすれば、占ってもらう者(クライアント)もまた占いの結果にとって能動的な主体であることが想定されています。そのことを受けますと、その前の引用文中での「黙って座れば」が語るところは、そうした姿勢は占いに対する〝言わず、動かず〟な言動の受身的な主体であることなのだと理解できます。そして、そのような者は「当たるかどうか」を期待し、占いの結果として開示された自らの潜在的な可能性に対して、自ら動こうとはしないでしょう。そのひとにとって、占いは一時の娯楽に過ぎなくなります。

しかし、本当の占いは、そのような受身の姿勢で当たっているかどうかを期待する者を求めているのではありません。鏡はそうした、占い師とともに占い結果の発現を探っていく占いの在り方を、先の引用文に続けて、次のように言い表します。

ですから、心理占星学は「当てる」ことは目的としません。むしろ、本人でさえ気づいていない可能性を、クライアントと一緒に探ることこそが目的なのです。(同上,p274)

 ぼくたちにとって〈こころ〉は、誰の物でもなかったことはありません。それはつねに〝誰かの〟〈こころ〉であり、または、物にも〈こころ〉があるという観点からは、〝何かの〟〈こころ〉として、理解されるのです。

鏡が〝心理〟占星学というとき、やはり問われているのは〈こころ〉です。占いの場で、〈こころ〉を問うとなれば、やはりそれはクライアントである〝あなた〟の〈こころ〉であるはずです。それゆえに受身的に占い結果を眺めて我が身と比べた答え合わせをしているばかりではいけないのです。そこで問われているのは自分自身の〈こころ〉なのですから。

 

 占いが〝中る〟ということ

〝当たる〟と〝中る〟

 

ところで、「占いがあたる」の〝あたる〟という言葉には2つの表現仕方があります。ひとつは〝当たる〟で、ぼくが本稿でこれまで使用してきた表現です。もうひとつは、〝中る〟。ぼくはこの2つの表現可能性が、占いにおけるクライアントの占い結果との適当な係わり方を示唆するように思われます。

 

まず〝当たる〟という言い方を点検します。

〝当たる〟は一言で言えば〈接触〉です。別々のものが触れ合うこと。思いがけない出来事が自分に訪れることも〈接触〉と言えます。

また、「占いが当たる」というのは、「宝くじに当選する」のとは違います。少なくとも「占いに当選する」とは言いません。そして宝くじは大抵「運が良いかどうか」に掛かってきますが、占いは当たっても「運が良いかどうか」には関係しません。占いは自己実現に掛かってきます。自己実現はそもそも受身的な態度で実現するものではありません。

占いが〝象徴的に〟クライアントの来し方行く末を示すのであれば、提示された占い結果がドンピシャで「当たっているかどうか」はさして問題ではありません。むしろドンピシャで当たっていると、象徴的であるはずの占い結果が、ただの記号の表示としてしか読めなくなる嫌いがあります。結果の提示はあくまでもスタート地点でしかありません。そこに立つことはひとつの〈接触〉です。足元にラインが引かれ、自分の地歩の座標が示されたのです。

 

次に〝中る〟という言い方を点検します。

こちらは、一言で言えば〈浸透〉です。 ある状況のなかにいて、その状況に属している諸々の関係性の影響を受けながら、その関係性の総体としての状況に対しても影響を行使する。操作的ではないかたちで係わり会うこと。そうした〈浸透〉関係。

とはいえ、「占いが中る」という表現はあまり採用されないのもたしかではあります。自然さという点では、〝中る〟を用いる場合では、助詞を「が」ではなく「に」にすることに自然さを覚えます。「占いに中る」という言い方は〝中る〟に助詞「が」を用いる場合よりも少ないでしょう。たとえ〝当たる〟を用いたとしても、そこに助詞「に」が付くことは稀です。しかし〝中る〟を考えるのに、この違いは無視できません。

 

助詞のこと:「が」

 

ここで、助詞「が」と「に」について、少し点検することにします。

 

〝が〟の助詞は、しばしば主語に対しての使われ方を問われます。そこで対比的に挙げられるのが助詞「は」です。たとえば「わたしは/がここにいる」のような文に顕著でしょう。「わたしはここにいる」と「わたしがここにいる」とではニュアンスが異なります。この相違に関して、内藤淳の研究*3に拠れば、「は」は判断文において用いられ、「が」は現象文において用いられることが自然です。判断文は占いの信憑性を述べた文を例にすれば「占いは当たる」のことで、この言い方は発話者の対象への直接的な評価として理解できます。他方で「占いが当たる」だと、発話者は占いという対象に対して「は」を用いた場合よりもやや距離があります。言い換えれば、「が」には発話者自身の内側にある想いを主張しているのではなく、客観的に報告可能な状況を言い当てようとしている向きが読み取れます。

 

助詞のこと:「に」

 

 次に、助詞「に」を見てみましょう。

助詞「に」は同様のケースで使用される助詞「へ」と対比的に捉えることができます。「仕事に/へ行く」と言うとき、どちらも日本語として間違ったものとは聞こえないでしょう。ただ、そこには重点の置き方の違いがあります。郭 潔 · 林 伸一の研究*4に拠れば、その意味のグラデーションは「に」が密着性を担い、「へ」が方向性を担うところにより起こるとのこと。その使い分けには彼らが示唆するように話し相手が目上なのか対等なのかという点にもありますが、ここで確認しておきたいのは、助詞「に」が心理的にも物理的にも対象との距離感が近しいという彼らの導き出した結論です。

 

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助詞に基づく2つのスキーマ

 

では、「占いが中る」の言い方に戻りましょう。

 

ぼくたちがしばしば用いる「占いが当たる」という言い方に対して、「占いが中る」という言い方は何を示唆するのか。さらに〝中る〟という表記にこだわろうとすると、助詞を「が」ではなく「に」にしたほうが自然であるという感じには、いったいどのような意味があるのか。――こうした点は、鏡が『魂の西洋占星術』において「心の探求は、結局のところ、自身で行わなければならないのです」(p16)と述べる、占いにおけるクライアントの側の責任を理解する手立てとなるように思われます。

 

ここで、ぼくたちは〝当たる〟に付く傾向にある助詞をまとめて「〈は/が〉スキーマ」とし、〝中る〟に付く傾向にある助詞をまとめて「〈が/に〉スキーマ」と表すことにします。*5

 

〈は/が〉スキーマには接触的な性質があります。占いとクライアントの関係に関連させて述べるなら、このスキーマが適用できる〝当たる〟という言い方では、発話者は依然として客観描写の如き立ち位置にいます。客観的というのは、身分上は当事者でありながら当事者としての感覚を持ち得ていないという状態のことです。既述のように〈は/が〉が示唆するのは〈判断/現象〉の図式、言い換えれば、〈主観/客観〉図式となり、二元論的な感覚なのです。

二元論的な感覚というのは、自分事と他人事がコインの裏表としてあることです。それはしかし自分事がかんたんに他人事へと転化してしまうということでもあります。自他の転化が簡単。それはつまるところ、自分のことを他人のせいにすることが簡単である、ということなのです。

占いに関して言えば、グリーンが占いにおいて占われる側であるクライアントの自発的な姿勢が大切なのだと説き、鏡が占いは「黙って座ればピタリと」当たるものではないと述べるのも、何かのせいにしているあいだは占いによって明かされる象徴の意味の深みに達することができないという想いを共有しているからです。

 

では、〝中る〟と親和する〈が/に〉スキーマではどうでしょうか。

ぼくたちは〝中る〟に浸透的な性質を認めました。そして助詞の効果の点検の結果、〈が/に〉の助詞の特徴として〈現象/密着〉の性質を見ることができるようになったわけです。

〈現象/密着〉には〈は/が〉スキーマに見られた二元論性があるでしょうか?――ありません。そこには人間の皮膚がそうであるような、〈ふれあう〉ことによる内外の境界の融解があります。あるいは、とけた氷が表面に自体が液化しつつある汗をまとい、個体として他の物と接触することがないように、境界があいまいになる。これは、〈接触〉の概念をもう少し推し進めた概念としての〈浸透〉、という見立てもできるかと思います。〈接触〉もまた〈ふれあう〉ことですから。しかし〈浸透〉の言い方には二元性の維持が困難であるという含意があり、ぼくはその点で〈接触〉の先に、もしくは奥に、〈浸透〉の概念を置くことにします。以上から、内外が浸透しあうことで二元性が維持できなくなるような、そうした消息が〈は/が〉スキーマにはあることが確認できるのです。

 

 二元性が立ち消えたとき、そこには何があるのでしょうか。そこには〈場〉があります。現象はそれが起こる場所を前提にしており、密着は主体とその現象が起こっている場所への係わり方を表すのです。

〈場〉と述べるのは、ひとが占い師のもとを訪ね、占ってもらうというそのことがひとつの〈場〉なのです。つまりクライアントがクライアントになることのうちに、すでにひとつの〈場〉が生成されているというわけですね。この意味で、そうような占いの〈場〉に入っていく、外から中へ、この図式から言って「なかに入る」という表意イメージを担いうる〝中る〟の言い方は適当でしょう。

 

〈場〉の非自覚的主体性

 

また、〈場〉のイメージをつかんでみると、ぼくたちは場所というものに対して必ずしも自覚的にそこがどこであるのかを意識せずに足を踏み入れてしまう、ということに思い当ります。つまり自覚的か、無自覚だったのか。

 

〝当たる〟すなわち〈接触〉は、自覚的なものです。

触れたり、触れられたり。

訪ねたり、訪ねられたり。

接触〉することのうちには無自覚的であるという含意はありません。

「偶然の接触」は事態としてありえるにしても、〝偶然の〟という特筆事項が必要になる程度には、〈接触〉そのものに無自覚的なニュアンスは伴っていません。

 

〝中る〟すなわち〈浸透〉は、非自覚的なものです。

〈浸透〉は、「したり、されたり」といった意志のレベルでは掬い取れない、状況に埋め込まれていることを媒介にして感得される現象です。その外部において〈浸透〉は存在しません。接触〉となると内外の立場がありますが、〈浸透〉ではつねにすでに内部であり、それゆえにこそ外部を設定することが無意味なのです。この、無意味であるという点から、「自覚/無自覚」という対照もまた維持できなくなり、「非自覚的」であると述べさせてもらいます。

つまり、〈浸透〉することのうちには、意識上の表面的なレベルにおいては「自覚/無自覚」があると言えますが、本来的には「つねにすでにそうなっていた」という形でしか表現できません。

そして〈接触〉がそうであったように「偶然の浸透」は意味のない文ではありませんが、〈浸透〉の語の性格上、それはつねに「必然の浸透」へと言い換えられる向きがあります。これは、〈浸透〉の例として、ある事柄に係わる際の構造で、たとえ意識の前景として与えられるものが偶然的であったとしても、その後景には前景に偶然の産物が到来する余地が潜勢していたのです。あるいは、現勢的に意識に現れていることに必然性を見るにしても、その後景には無数の偶然が鳴りを潜めている。〈浸透〉という現象がそのような相反するものの相互可侵的な事態を持っているのです。それゆえに〝当たる〟がそうであったような「自覚/無自覚」の図式は維持できず、〝中る〟はいわば「非「自覚/無自覚」的」としての非自覚性を帯びるのです。

 

 〈場〉としての「占ってもらうこと」と、そこを訪れるクライアントのとの関係は、つねに本質的なものがあります。すなわち、誰にどのように占ってもらうかで占いとの係り方やその結果が変わってしまうにしても、本質は変わらないでいるような、占いの本質が。

 

「当たる占い」の場合では〈接触〉の観を呈し、そのために到達しえないところがある。それが〈場〉の認識でした。

 

「当たる占い」という〈接触〉的な占いへの認識だけでは、自己認識の主体は自覚の主体でしかありません。自覚の主体の貧困さによって占いのクライアントになったのですから、自覚の主体は別の何かに取って代わる必要があります。しかしそれは現実的ではなく、それゆえに〈場〉との相互浸透状態になることが求められるのです。

ぼくが〝中る〟を用いた「中る占い」のイメージで描きたかったのは、自覚の主体の貧しさを救う手立てとして占いを見るとき、その主体が維持されたままでいることのマズさを思ったからです。

クライアントが、自分が今のままではマズいと思ったにも拘らず、そう判断した時点でのマズい自分のままで自分自身の〈こころ〉ひいては自己( self )とうまく交流できるのかは、疑問です。

であるからこそ、触れるばかりではなく、入るものとしての占い、その〈場〉への佇み自体に重点を置くような、そんな認識をぼくたちは要請したのでした。

〈場〉は自覚や無自覚の主体ではありません。しかしそれは主体であるクライアントに否応なしに働きかけてきます。〈そこ〉にいることの当事者性。現に〈そこ〉に佇んでいることで当事者になっているということ。〈そこ〉ではクライアント自身が自覚的な主体であることよりも先に、〈場〉そのものが非自覚的な主体としてあるのです。その〈場〉の成立とともに、そしてそのなかにおいて、クライアントの自覚主体の貧しさがエンパワーされていく。占星学が語るところに寄せれば、クライアントが象徴的な導きに従うことで己れの奥底にある潜在的な可能性を感じることができるようになるのです。

  

占いに〝中る〟ということ

 占いの胡散臭さについて

 

冒頭で触れた占いの胡散臭さについて、もう一度立ち返ってみましょう。

占いはオカルトのジャンルに入れられても仕方がないという判断を、多くのひとが共有しています。オカルトは荒唐無稽なもの、いわゆるトンデモであると見なされています。

鏡やグリーンが依拠している占星学のジャンルも、それに格別の関心を寄せない限りはトンデモのジャンルへと入れてしまっても構わないだろうという認識は、間違いなく存在します。

水晶を前にクライアントに先々のことを宣託する占い師のステレオタイプなイメージもまた、日本語を話す中国人が語尾に「~アルね」「~アルよ」などと付けるイメージと同様に、人々のあいだに記号的なものとして生き続けることでしょう。そうした紋切り型を生む心性は、それこそ人間が人間である限りは付き物です。占星学でさえ個人の人生を空高く遠く輝いている星々の運行と関連させるのですから、その点だけ目を通すと実証的に有効性が示せるはずがない胡散臭さを嗅ぎ取ることはできます。

他方で、グリーンが『占星学』のまえがきで触れているように、心理学と統計学を修め、伝統的な占星術の主張するところを統計的に検証し、出生時の惑星の配置と職業のあいだに統計的に意味のある相関関係を提示したミッシェル・ゴーグラン(1928-1991)の仕事もあります。ちなみにゴーグランは元々は占星学に対して懐疑的で、当初、統計的な検証を施して占星学の根拠を骨抜きにしようと目論んだようなのです。しかし、ところがどっこいで思いがけずにその正しさを証明することとなり、占星学の正当性を信じるに至った。こういった事例もあります。*6

 

ぼくは以前、ひとの運命について触れながら、占いはひとが自分の運命を生きるうえでの責任を「ひと任せ」にしてしまう構図を読むことが可能であることを示唆しました。

ひとは、自分の運命がひと任せにはできないことを知っています。――この文言に対して無理解を示すひとは少ないでしょう。

ひと任せにできる自分の運命というものがあるなら、それを〝自分の〟運命だと呼ぶことになんらかのためらいや、もしくは欺瞞を感じてしまうことにさほど奇妙さはありません。そこには自分が自分の運命ないしは人生を生きることにおける主語が〈わたし〉であるということへの責任がありません。

 ――たとえば、こんなふうに述べています。

 

鏡にしてもグリーンにしても、クライアントの自由意志に重要性を見ていることは間違いないのです。占いを受けることで自分が変形することはなくとも、変性してしまうかもしれないという覚悟はしてほしい、と言い換えてもいいかもしれません。できないでいた覚悟ができるかもしれず、持てないでいた勇気が持てるかもしれない。そうしたことが自分の身に起こる蓋然性に疑いを持つにしても、占いに、自分に係わるなんらかの可能性を見たのなら、占い結果という自らの来し方行く末を暗示する地図とともに「自分が自分であること」に向けて再出発できる〈しるし〉として、占いの象徴性をわかっていなければなりません。

 

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人間の環世界と矛盾

 

ぼくたちはまた、〈場〉という言い方を使いました。占いはひとつの〈場〉であるのだ、と。精神が身体という場所がなければならないように、意志もまた自由であるためには場所がいります。意志が自由を獲得するための〈場〉を理解する補助線として「環境」の語を用いてもいいでしょうが、ここではぼくは「環世界」という言葉を使いましょう。

 

環世界――この言葉は生物学者のヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)の用語で、生物は棲息している環境との関係を、その身体の機能面に依拠することで自らが生きる世界として立ち上げていて、その点で器官的な機能によって開かれていながらも同時に閉ざされているという在り方を示します。

また、哲学者のマックス・シェーラー(1874-1928)はユクスキュルの環世界を受け、動物が環世界のうちに機能的に閉ざされているのに対し、人間は自身の環世界から独自の仕方で距離を取れることを主張しました。つまり、動物が〈環境〉に閉ざされているのに対し、人間は〈世界〉に開かれているというわけです。環境も世界も、どちらも〈場〉という言葉のうちに収めることができますが、「意志」の語を用いようとする場合には、環世界理論において閉鎖的な語感を持つ「環境」の語は適していません。選ばれるのは「世界」です。では意志の語に親和する〈世界〉とは何でしょう。ここで哲学者マルティン・ハイデガー(1889-1976)を参照してみます。

ハイデガーは『存在と時間』(1927)のなかで「存在とは何か」という問いと格闘します。それは「人間とは何か」の根本に置かれる問いであり、〈世界〉の概念もまたその文脈から要請されました。いわく、人間を含めあらゆる存在者は世界のなかで存在しているが、しかし人間の場合は別で、世界のなかにおいて自らが自らであることの可能性と絶えず際会していて、そうした自己の可能性として浮かび上がるものとの関係が意味になる、そうした意味的なものとの出会いの場( meeting place )が〈世界〉なのである、と考えるのです。シェーラーが「動物は〈環境〉のうちに閉ざされ、人間は〈世界〉のうちに開かれている」と考えたことと突き合わせれば、ハイデガーは「あらゆる存在者が〈世界内部性〉のうちにあるだけであるのに対して、人間は〈世界内存在〉として自らが属する環境を超え出ていく独自の存在構造を持つ」と考えるのです。「意志」という言葉が動物的な〈環境〉にではなく〈世界〉のほうに親和する理由は、そのような観点においてです。そして、ユクスキュルの「環世界」の語に戻れば、動物的な環境に閉ざされた環世界は、人間のそれとは異なっていることがわかります。そこで問いに付されるのが「人間の環世界とは何か」です。

哲学者の國分功一郎(1974-)は『中動態の世界』(2017)において「意志は物事を意識していなければならない。つまり、自分以外のものから影響を受けている。にもかかわらず、意志はそうして意識された物事からは独立していなければならない。すなわち自発的でなければならない。この矛盾をどう考えたらいいか?」*7と、意志について述べています。要するに、意志は、自分以外のものからやるべきことを迫られていながら、意志はそうした環境からの要請に距離を取り、それをするかどうか、もしくは別のことさえ考えることもできるような独立性を持っていると言えなければならないのです。そうした考え方は人間にとって馴染みのないものではないでしょう。例えば意識の流れを描写する小説などは多くそのような人間の意識の在り方を表現しています。

試しに手元にある小説、丸山健二(1943-)の『夏の流れ』(1967)から例を取ってみます。主人公である〝私〟は刑務所で働いていて、囚人を監視する業務をします。それは環境から要請される〝やるべきこと〟です。他方、その業務の前に同僚と話した釣りを考えることは業務とは関係がありません。それは〝考えていること〟として、環境とは距離を取った意識の在り方を示しています。 

私と堀部は右側の階段を上った。他の看守は自分の部署でじっとしていた。私は手前の壁に、堀部は向い側の突きあたりに、背をもたせた。看守たちは次の運動の時間まですることがなかった。それで互の顔を見合ったり、ハンカチでやたらに汗を拭いたりしていた。しかし、私も堀部も時間潰しには、結核患者と同じくらいに慣れていた。眼を開けていても、視界を何かが横切らない限り、別の事を考えていればいいのだ。私の視線は壁にもたれるとすぐぼやけ、頭が勝手に働きだした。まず釣のことを思った。最近では、初めにいつも釣のことだ。

丸山健二『夏の流れ』文藝春秋,1967,p23)

 ハイデガーが、人間が世界内部性において世界内存在であると述べるところは、國分が意志と物事との関係における矛盾と重ねられます。そしてそれは、上に引用した丸山の描く〝私〟の消息とも対応しているでしょう。

 

以上を踏まえ、「人間の環世界とは何か」をわかるための理解線を敷くとすれば、意志はそれが現れるための〈場〉として環境に沈んでいるように内在しつつ、同時に、自身を環境から浮かび上がったものとして世界へと超越しているのです。これによって人間の環世界を図式化する際に、環境がイメージに、世界がシンボルの領域に、というかたちでの二分を促します。一方がなくしてはもう一方は存在しえない。そうした相補的な関係を持った環世界にこそ人間固有の世界があるので、イメージとシンボルという把握はあくまで図式的なものです。しかし実際上は流動的に生きられている人間の生態を記述しようとすれば、あえてその生き生きとした流れを遅滞させることも、ときには必要となります。國分が意志を記述しようとする際に見いだされる矛盾を指摘したのは、本来 流暢なものであるイメージのレベルをシンボルとしての言葉を通して固定化しようとする際に起こる、いわば摩擦のようなものです。摩擦の伴わない行動ではひとの願いが実現することがないように、イメージの流れを抑圧しない言葉を使うのでは意志の表明は十全に果たされはしないでしょう。イメージはシンボリックにその意味の実現へと駆り出され、シンボルはイマジナリーな形式を通してしか象徴化されないのです。意志は、そのどちらかに立ち、どちらかが見下ろし/見下ろされているというのでもなく、それらの〈あいだ〉に顕現のための〈場〉を持つのです。さしあたり、人間の環世界はそのように語りうるでしょう。つまるところ、ひとは世界において記号的な風景を象徴のネットワークを介して眺めているのです。*8それが環世界的に〈現実〉という様相で、調和しているかのように現れているのです。

意志が、〈そこ〉において〝やるべきこと〟と〝考えていること〟とで、互いに相補的でありつつ独立しているところの、その対称性が破けるときに、〈そこ〉に顕現するもの、それが自由と呼ばれるものなのではないでしょうか。仮に、イメージに依拠している意志とシンボルに依拠している意志とを想定すれば、自由な意志は、その双方にそれぞれ係留している意識が無関連化され、意識上から退隠したときに顕現するのではないでしょうか。

言うなれば、我を忘れた我――これもまた矛盾していますが。

そう言えば当のグリーンもまた次のような一見して矛盾を孕んだ(それゆえにこそ真理を言い当てている?)言い方をしています。

人はただ出発しなければならない。そして、その旅の中で我を忘れなければならない。この旅では出発点と到着点は究極的には同じなのだから。

(リズ・グリーン『占星学』岡本翔子・鏡リュウジ訳,青土社,1994,p420)

 

占いにおける責任放棄的な側面

 

さて、考えてみようとしていたのは占いの胡散臭さだったのでした。

占いの、自分のことをひと任せにしている責任放棄的な側面――これはたしかに見て取れる余地はあります。

しかしそうしたことは何も占いに限ったことではないので、占ってもらうひとどころかSNSで他のユーザーのつぶやきを読むことから、映画館で映画を観ること、ひとと話をすることに至る全ての営みに潜在していることでもあるのです。

どういうことかというと、それらは自分が他人なり作品なりを「わかる」かどうかが肝になっていますが、自分が「わかるかどうか」をひとは往々にして、他人や作品の作者などのせいにすることが多いからです。他人の言い方であったり、作者の表現の仕方や技術力であったり。自分が「わからない」のはそれらの良し悪しや未熟のせいである。そうした態度は要するに「受け手である自分の責任とは無関係である」というような考えが背景にあるのではないでしょうか。

 

仮に、仮にではありますが、そうした受け取り方を採用してみますと、占いに胡散臭さを嗅ぎ取るひとはおそらく、自身の、自分が「わかるかどうか」の責任を他人に押し着せる態度を、占いのクライアントへと投影している可能性が窺えます。それはつまるところ責任放棄的な態度なのであって、鏡やグリーンが説くような占星術ひいては占いにおけるクライアントのあるべき姿とは異なっています。

 

では、占星術ひいては占いにおけるクライアントのあるべき姿とはどのようなものでしょうか。

ぼくは占いにおける「責任放棄的な側面」はたしかにあると述べました。

この側面から実現される自由というものは存在しません。占いは象徴と向かい合い、それをわかろうとする営みです。象徴は記号ではありません。責任放棄的な態度からすれば、彼の眼に映るのはすべて記号的なものです。それをわかろうとすることは既に書き込まれたかたちでの意味を読んでいくことになります。誰かによって既に意味が保証されていて、しかもその意味は自分の責任のもとで読み込むのではなく、作者が事前に想定しているはずの何か表現するに値するような意味であるはずで、それをわかることは自分の為になるかもしれない。――このような態度には読者である自己と、作者である他者とのあいだに切断線が引かれてあります。ここでは意味に対する能動的で制作主体的な態度が欠落しているのです。

 

占いにおける責任投企的な態度

 

グリーンはこう説いていました。「最も深い意味での個人の自由意志」が実現するかどうかが、占星術においては重要である、と。

上述した責任への〈放棄的態度〉 は明らかにグリーンの、そして鏡の意趣とは異なります。

そこでぼくはネガティブな責任としての〈放棄的態度〉の、受身的で消費主体的な態度の逆を構想してみることにします。すなわち能動的で制作主体的な態度からのポジティブな責任を。

 

鍵になるのは、記号に対する象徴です。

ユング心理学に拠れば、双方の違いは以下のように記述できます。*9

  • 記号――既知のものの代用表現で、略称などを指す。
  • 象徴――既知的でなく比較的未知のものを表現しようとしたもの。

 〈放棄的態度〉は上の記号の定義に絡めて言えば、記号が持つ既知のものとの親和、あるいは癒着に起因したある種の思考停止によるものでした。

他方で、象徴の定義を見ますと、記号が固定的な意味が既に用意されているのに比べ、未知のままに意味を書き込んでいく余地が残されているのです。言うなれば、象徴表現には記号表現がそうであるような文字通りの理解が成立しないのです。つまり、象徴表現は隠喩的にナニカを、明示することをためらい、ときに拒みながら語ろうとしているような媒体(media)なのです。

『占星学』の《心の性生活》の章でグリーンは、〈こころ〉すなわち意味の領域としての主観について考えるときの問題点に、ひとが「あまりにも文字通りに事を受取りすぎるということ」を指摘しています。「我々は、心の状態を行動から判断してしまうために、心の状態や、その裏にある本質的な意味に、ベールを被せてしまうのである。」行動から判断してしまうというのは、目に見えるものによって、という意味です。星の王子さま*10の「大切なものは、目に見えない」の言葉を思えば、〝目に見える〟ことの優位はさほど〈こころ〉に及ぼすところの大きいものではないようです。というのも、目に見えるものは既知的なものとの関連付けが容易いということもあるのですから。目に見えなければそれはつねに未知的で神秘的です。それはしかし、だいたいが記号的に目に見えるもののの背後に潜勢しているのです。

グリーンはそして、以下のように続けます。

しかしもし、焦点を表面の行動からその背後にある象徴へと移動させたなら、全体の様子は変わって見えるであろう。我々は自分が何であるのかを、象徴的に表出する。しかしもし我々が、象徴が存在している構造の解釈についてあまりにも忠実であると、その生命を失い、有機的適応性を失い、硬化した枠組みの中にはまってしまうのである。

(リズ・グリーン,p247-248)

問う必要のないものは構造としては硬化したものと言えます。そこには問うことによる構造の変動がないのですから。記号的なものをそれとして理解すりためのマニュアルを想定してみますと、マニュアルとそれに基づいた対応が構造を規定するのであれば、その構造からは生命が生命であることに含まれているはずの熱量を奪うことになるでしょう。無機的であることの冷たさは、そのようなマニュアルへの忠実さによって生じます。

しかし、引用した文において、グリーンが「我々は自分が何であるのかを、象徴的に表出する」*11と述べるように、象徴は絶えず生成されます。マニュアルを見ずに解釈することが、ここでは能動性の発揮と言えるのです。

象徴と向き合うとき、ひとは意味を問うことが賭けられます。このことは、意味がわかることを賭ける記号との付き合い方とは違っています。ここには正しく能動的であり制作主体的であるような人間の象徴との関係があります。その関係には決して受身の姿勢ではないような解釈の営みがあり、その営みは開かれた自己の可能性の〈場〉においてなされ、〈そこ〉でまた、ひとは己れの可能性が〈こころ〉に浮かび上がるのを感じ、己れという〈場〉をその都度に現出させる。現れることの可能性の裡に現れることへと再度現れ直すこと。このような己れの可能性に向かって己れ自身を投げ企てることを〈投企〉*12と言います。

ぼくはこの〈投企〉を、ひとの、責任における〈投企的態度〉というかたちに整えることで、ポジティブな責任を提示することにします。

 

〈投企的態度〉における絶対的なものと自由意志との婚約

 

ユング派の治療理論では、患者は、自分に与えられた可能性や創造性を生きていない主体であるとされます。患者にとって重要なのは患者の人生の意味の生産拠点としての象徴を解釈することに尽きます。自分に与えられた可能性や創造性は、象徴の解釈を通して生産されるというわけです。このときの生産プロセスおよび作品としての自己物語に対する患者の立場は制作者のそれに準じます。たとえそのような抽象物である自己物語の実作が困難だとしても、絵を描くなどの具体的なものつくりを行う創作活動によって、患者は制作者になれます。精神医療において創作活動が精神衛生に良いとされているのは、明治の夏目漱石(1867-1916)から平成の坂口恭平(1978-)に至るまでよくよく知られているところです。

 

解釈のプロセスは制作のプロセスに重なります。

象徴の解釈と自己の制作と。

そうした営みへの渦中へと入っていくこと(いや、入っていることに〝気づくこと〟)は、ひとの、意味的なものとの出会いの場( meeting place )としての〈世界〉における投企的な在り方そのものです。ひとが投企的であるとき、出会いの場である〈世界〉へと前傾の姿勢を取っています。ハイデガーに倣って言えば、その様態は死ぬことを死んでいっているという人間固有の在り方――「死への先駆的覚悟性」が、そうした〈投企〉の態勢を成り立たせているのです。

この前傾姿勢としての〈投企〉が、ひとの本来的な能動性の在処を告げている――これを仮固定してみると、そこにぼくたちはグリーンが 「最も深い意味での個人の自由意志」と言ったものを見つけることができるのではないでしょうか。

自由が問われるときには、そこには絶対的なものに打たれ、そして相対的な物事との関係性が儚い夢であったのだとハッとする、その瞬間の到来が要請されます。俗流に言えば「わたしは今、幸せと言えるのだろうか?」という自問ですね。そうした自問は「なぜ幸せでなければならないのか?」と読み換えてみると、自分が〝しなければならないこと〟を喜びを伴って行えていないからだと導けます。〝やりがい〟と言ってもいいでしょうが、占い的な言い方をすれば、宿命や運命を感じられていないというわけです。そうした直感――自らの身心を真っ直ぐに貫く感じは、相対的なものではなく絶対的なものとして感得されます。

 

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たとえば、ひとにとって絶対的なものが死で、死に対する覚悟を先駆的に行いうること――というハイデガーの線をなぞるなら、そこには「自分が自分であること」への覚悟がなされるという点で、ぼくたちは責任能力を感じることができます。

占星術で言えば、絶対的なものは「自己(self)」であり、それはひとそれぞれの個性を伴い、つねに部分的である意識的人格に対して全体をなしています。部分と全体とを繋ぐのが象徴の解釈になるのです。占星術でのホロスコープ(出生天球図)によるメッセージは、絶対的なものが背筋を走らないでいる不安を抱えるクライアントに向けて、ただ別の角度からの洞察を与えるのではなく、それ以上に「自分が自分であること」への確信を提供するのです。占星術は〝何が起こるか〟を予言するものではなく、天体の位置の照応により、特定の時期に意識の表面に浮かび上がってくる内的な成長パターンを象徴的なかたちで表現するものです。確信は、意識上に浮かび上がっているものが、天体から降りてきたかたちで示されるメッセージと重なることで、主観的な〈場〉に宿るのです。この確信が背筋に走るとき、ひとは独特な責任感を帯びて行動することができます。

 ――以上の「責任」は、決して〈放棄的態度〉とは親和しません。ネガティブな意味を持たず、ポジティブな意味を告げています。ぼくたちはハイデガーが人間の存在する独特の仕方を言い表したものとしての「投企」という言い方を以て、肯定的なものとしての責任感を表現することにします。そして改めて、それこそが〈投企的態度〉であり、哲学的な意味で死の予感に駆られて己れの生に向き合う真摯な態度と、占星術によって自己の象徴的な意味を解釈することで己れの生に対する感覚を深めることに共通する、肯定的なものとしてひとの責任の在り方なのです。

 

そしてまた、自由意志が宿るとすれば〈そこ〉になることでしょう。絶対的なものと自由意志の婚約(mariage)は、決定論的な囚われをもたらしはせず、むしろ強い確信を以て生きることができるのです。

ユングは次のように述べます。

 意志の自由とは、自分がしなければならないことを喜んで行う能力のことである。――C・G・ユング

(リズ・グリーン,p336)

 意志の自由。ユングに倣えば、それはある能力の名前です。しなければならないことを喜んで行うことができる能力。そこには決定論的でありながらも囚われてはおらず、むしろその決定を、己れの運命として引き受けながら、その〈場〉を謳歌しています。絶対的なものと自由意志の婚約とはその意味であり、そしてその結婚生活の幸福を支えているものこそ、ユングが「意志の自由」と名状したひとの能力なのです。おそらくそれは〈投企的態度〉であるがゆえに持つことができる責任能力のことでもあるでしょう。

  

 占いに〝中る〟ということ

 

そして、ようやく次のようにまとめることができます。

 

占いが成立する〈場〉があるなら、クライアントは責任を以て〈そこ〉に臨まなければなりません。占い師への恨み言や行く末を訊ねるのは間違いです。〈そこ〉はつねにすでにあなたの世界なのですから。

再度、グリーンの言葉を引きます。

自分の内的なものの反映でないようなものは人生には入る余地はない。どんなものも、完全に他者のせいにできるようなものはない。

(リズ・グリーン,p415)

内的なものが反映していないという事実を〈世界〉から引き算した場合、占星術の立場から、いやもっと広く〈こころ〉について考えるあらゆる観点から、その〈世界〉はおそらく科学が想定しようと指向する徹底した客観世界となることでしょう。しかしそこには意味がありません。意味は主観なくしては成立しないからです。

素朴にも世に広まる誤解のひとつに、主観世界の前に客観世界があるのだという「自己=世界」の認識があります。このウソは、「主観世界の前に客観世界がある」という文が有意味であるためには、ある主観の〈場〉が必要になるにもかかわらず、その〈場〉があたかも存在しないかのようにしているところです。

意味が成立しないところにある物と物との交流の〈場〉には、〈こころ〉がありません。その点からも、〈世界〉は〝内的なもの〟としての主観を抜きには〈世界〉にはなれないのです。そして、このことはまた、グリーンが「どんなものも、完全に他者のせいにできるようなものはない」と説くところと重なります。

 科学的に品質が保証されているものに対して、ぼくたちは自身の責任能力を十分に示すことはできません。なぜならそこには主観的な領分よりも客観的な領分の方が強くそのものを規定しているからです。このバランスの悪さが、消極的な〈放棄的態度〉を生むのです。それに対して、占星術は積極的であろうとする意志の〈場〉を確保します。〈そこ〉において、〈投企的態度〉としての自分自身の責任を感得することができるのです。

 

ぼくたちは〝当たる〟と〝中る〟かという見地から、占いの胡散臭さを検討してきました。

 「占いが当たる」ではクライアントの責任能力は〈放棄的態度〉に親和的であるがゆえに、「当たるかどうか」という観点から〈個人的なこと〉を言い当ててもらおうとして、占い師の前に着席する無責任な態度を示してしまいがちです。

しかし〝中る〟という言葉を用いた認識からは、「占いが中る」ないしは「占いに中る」ことが目掛けられることとなり、〈投企的態度〉で以て、占いのクライアントになっているという〈場〉に参入するかたちとなります。そこでは〈個人的なこと〉と〈一般的なこと〉は〈世界〉において融和し、〈世界〉に投企するという態によってクライアントの責任は生成され、象徴の解釈というかたちでそれが生きられることになります。

 

もちろん、「当たる占い」「占いが当たった!」などの言い方は日常会話としては使ってもいいのですが、せっかく占いを受けるのであれば、「占いに中る」つもりで臨むほうが創造的かもしれませんよ~とくらいは書き留めさせてください。

 

以上が、「占いが当たる」と「占いが中る」の2つの言い方から窺えるところになります。

   

占いが象徴的であるということ

迷える子羊になるということ

 

「占いが当たる」よりも「占いが中る」という認識が大切です――と締めくくってもいいのですが、ぼくは占いが象徴にこだわる理由について、少し点検したく思います。なにせ、占い全般の胡散臭さの根拠のひとつのように見えるものが、占い結果を象徴的に示すための媒体やメッセージをもたらす神秘的な依代に拠って演出されているように思われるからです。たとえばカードであったり、水晶であったり、占星術においても天体の位置を以てクライアントの〈個人的なこと〉を象徴化して示したりするのですから。

占いのイメージとしては当たり前ではありますが、占いから確信を得ようとするクライアントにとっては、それを当たり前で済ますわけにはいかないはずです。ぼくはその点を点検、いや、探検しようと思います。

 

まず、精神分析学のほうに迂回します。

 

ぼくは鏡が『魂の西洋占星術』のあとがきで、「心理占星学」という言い方をしているくだりを目にしたとき、「精神分析学」の言葉を連想しました。言葉の表現として、それらはとても似ているように思われました。ともに〈こころ=Psyche〉を表す「心理」と「精神」とを探求することがその文字の表意性から読み取れます。両者が取る探求の方法に、一方では星座の象徴性を読み、他方では言葉の象徴性*13を俎上に乗せて〈こころ〉を読み解くことは、両者に通底している部分を浮かび上がらせることになるように思われたのです。

精神分析学では「人間は自分のことがわからない」を基本理念とします。心理占星学の「自分のことがわからないから象徴を恃む」という人間の心性を思うと、どちらも自分自身であることへのわからなさに対して、いわば迷子になっているのだ――とまとめることができるでしょう。〝自分自身に迷子である状態〟。占いを頼るひとがしばしば「迷える子羊 stray sheep」に喩えられるのも、この点から納得がいきます。

 

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否認――表面と深部

 

ひとの、自分自身のわからなさを相手取るときに、精神分析学には「否認」という概念が手立てとしてあります。それは、言語表現が否定の否定が強い肯定の意思を表出してまうようなもので、ひとが、実際はそうではないのに「そうである」と事実を否定してしまう態度を取る。しかし実際は「そうである」は〝そうではない〟のであって、事実としては〝そうではない〟のです。こうした展開は自我が実際はそうではないということを否定して、それがたとえ中途半端になるとしても、そうではない現実を否定することにより、そうである現実を虚構的にもしくは幻想的に構築するための手続きになるのです。そのひとの自我は自己の衛生的な恒常性のために心的現実を打ち立てようとするのです。この時点で、自我は分裂します。あるいは、2つの現実を背負うこととなります。とはいえ心的現実は望ましくない現実の隠蔽でしかなく、むしろそうではない現実の存在感を強めることとなるのです。そのように実在する本物の現実の影に怯えることで、不安になる。これが嵩じると、〈こころ〉は病的な症状を呈するようになるのです。 

 

ひとが意識的に生きる現実が、そのひとの言葉が語る通りのものではなく、その意思表現にはそのようなかたちで表現されている必然性があって、意思表現という表面的なメッセージがある一方で、言葉に対して絶えず隠喩的に動いている無意識の存在を認めようとします。表面的なメッセージは深部的に動くコンテクスト(文脈)によって規定されているのです。意思表明は自覚的になされることもあります。しかしそうでない場合もあり、当人が無意識に否定の意思表現をしてしまっているときに、精神分析学的な意味での否認の働きを認めることができるのです。

 

 部分と全体のあいだを調停する

 

 「パートナー」という言葉があります。恋人や同僚、仲間や親友といった意味で用いられる言葉です。英語表記にすれば〝 partner 〟、そしてそれは〝 part-ner 〟です。そこには「part 部分」という言葉が見てとれます。 

親しいひとを「パートナー」と呼ぶとき、自分は相手のかけがえなさを認めています。いわば、パートナーとしての相手は、自分が自分であるという全体的な( total )経験において、部分的( partial )な役割を担っている、と。

そのときの全体としての自分、いや自己は完全無欠( perfect )ではありません。しかし、全体性を持っているという点で、自己は完結している( complete )のです。そのような完結的な全体性に触れるために、ぼくたちは恋をし、旅をし、学び、自己を発見していく――そのような占星学が伝える象徴的な文言を理解することができるのです。

 

精神分析学では意識と無意識(および自己)とを、部分的なものと全体的なものとで理解します。そして部分的な表現は全体的な経験の代理表現と見ます。他国に出かけてたまたま出会ったひとの印象が、その国のイメージを象徴することになってしまうようなものです。しかしそれはしばしば裏切られるわけです。そしてむしろ裏切られることの方が望まれる向きさえある。この意味で、部分的なもの( partialness )と全体的なもの( totalness )とは闘争関係にあると見做すことができます。

精神分析の営みは、部分的なものと全体的なものとの関係を、前者の後者に対する予定調和的な向きを、仮定制作的な中間項を置いていくことで部分と全体との闘争の調停を図ろうとします。

 

心理占星学であれば、闘争というより葛藤と言った方が相応しいかもしれません。クライアントに対して、自身が抗いようのない運命を提示するのではなく、全体的な自己を羅針盤のように示し、象徴的に完結した自己の在り方を告げることで〈世界〉のなかで確信を以て生きる勇気を授けます。

 

 ひとの血肉としての言葉

 

迷える子羊としてのクライアントの闘争および葛藤の調停に、精神分析学では分析家が分析をし、心理占星学では占い師が占星をする。分析にせよ占星にせよ、そこにはある象徴的な媒介物があいだに入ります。それが言葉です。

 精神分析学者であるラカンは、「無意識は言語のように構造化されている」と言いました。言語すなわち言葉は、樹木が自然に育ち、川が流れのままに海へと注ぐこととは別の次元のことです。言葉は自然の摂理のなかで、言葉の道理の次元を成します。そして自然の摂理の内部で、自然の摂理を包括しようする、しかし言葉は自然に包括されてもいる。このような「クラインの壺」じみた表裏・内外の渾然とした様態が、言葉と世界との関係です。言葉すなわち言語は象徴的な世界を構築し、現実の世界を包んでいる。しかし論理的に言って、人間の種族が地上に現れて言語を使用しはじめたのは現実の世界の成立の後です。人間なくしては人間が使用する言語も存在しないはず。そして人間の発達過程を思えば、人間はいきなり言語を使えるのではない。言語を実際に使用している人々のなかで、徐々に、あたかも浸透するかのように習得していきます。その浸透過程が、ラカンの言い方に寄せて言えば、構造化されていく過程に当たります。かくして、ぼくたちは言語を無意識のように血肉化していくのです。つまり人間が人間であることにおいて「言語は無意識のように血肉化されている」というわけです。

 

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クラインの壺 - Wikipediaより



 見えるものと見えないもの

 

〈こころ〉を考える多くの思考が、星の王子さまがつぶやく〝目に見えるもの〟と対比させて〝目に見えないもの〟が潜在していることと、その重要性についてを語ります。言葉を空間的なイメージに言い換えますと、それは此岸と彼岸と言ってもいいでしょう。

此岸のこちらと、彼岸のあちら。

こちら側には意識があり、あちら側には無意識がある。

そうした距離感が、空間的なイメージだけでなく言語的なイメージとしても与えられている。ここでの「空間/言語」の図式は「クラインの壺」的なイメージで捉えた「自然の摂理/言葉の道理」と対応します。それは「鶏が先か、卵が先か」という問いにも似た因果的な矛盾を抱えています。しかし、であればこそ、象徴としての「クラインの壺」が有意に機能することができるのです。

 

精神分析学での分析が、あちら側としての無意識のメッセージとしてこちら側に表出する症状を診るように、心理占星学における占星は、こちら側で迷うひとに対して、あちら側にある天体からのメッセージとの照応を提示し、それを解釈することで自分が自分であることの確信を促します。言ってしまえば、どちらも、科学的に有意であるような因果関係を認めることは難しいことがわかります。どちらともが〈こころ〉において感得される極めて〈個人的なこと〉を扱うのであり、客観的なデータとして記録することでその本質が損なわれてしまうような主観的なものを問うているのですから。火の熱さがどれほど精密に記述されようと、火に触れる体験に勝りはしないように。

あるいは、次のように言ってもいいでしょう。

〝見えるもの〟は因果的で、〝見えないもの〟は非因果的である、と。

このことは精神分析学の、自我が現実を2つに分けて、実的現実と心的現実とで分裂した様態を作り出すのである――という認識と重ね合わせることができるでしょう。

 

 言語が自然に似ているとすれば、それは自然法則を言語のほうに適用した結果です。

そして言語にすると漏れてしまうような事態があるなら、そこでは自然法則とは違った因果系列が働いていると見る方がいいでしょう。

たとえば〈こころ〉というスクリーンにて上映される、心的現実などは。

 

 

 占いの因果性

 

自然法則とは重ならない心的現実を生きるぼくたちの、非因果的な〈こころ〉の迷いに応えるのが占いだとすれば、占いもまた非因果的なもの、つまり非科学的であることは当然です。

哲学者の千葉雅也(1978-)は占いについて、そしてそれが因果的ではないという点に関して、次のように述べています。

占いは、他人がじかに意見を言うものではありません。カードのような道具とか、何か手続きを間に挟むことがポイントです。占い師との関係は、だから間接的です。極端に言えば、占いの本質は占い師=他人の方ではなく、カードなどの準‐他者の方にある。そして、図像でも言葉でも何でもいいんですが、それがどういう意味かよりも、それがひとつのフレームのなかに封入された形で提示されることにこそ、核心があると思うんですね。占いの図像や言葉は、現実から切断されたものです。占いは非科学的なものですが、それがなぜかといえば、当然ながら、現実の因果関係とは無関係だからです。占いで占われることと、現実の出来事は因果的につながっていない。だから、一方では、占いに頼るなど問題外なのですが、しかし逆に言えば、占いが占いであるのは、それが現実の因果性からは完全に切断されているからであり、そこにこそ占いのおもしろさがあるのです。

(千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』文藝春秋,2018,p153-154 ※傍線は筆者)

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占い、とりわけ占星学に顕著であるところの、天体の運行に人間の性格が対応しているという立場では、この世の中の因果関係の外側にあるものとして象徴的に天体が置かれているのです。そこでは客観的である科学でさえも外側にあるものだとは見なされないます。なぜなら科学は、あくまでも現実の出来事の因果的なつながりを示すことにおいて、その客観性が保証されているのですから。それはあくまでも〝世の中の〟出来事に過ぎないのです。他方で、天体の運行が語る象徴性は、ぼくたちが素朴に生活を送るこの現実の因果性とは異なっています。占いはそれらの因果法則とは切れた位相において独自の法則性、いや、この場合は「規則性」と言いましょう*14――を持っているのです。

 

つまるところ、記号と象徴の違いなのです。

記号は横断歩道において赤信号だったなら渡ってはいけないことを表示します。その状況において他に解釈の余地はなく、世の中の因果的な合理性を、ある体系のなかに位置付けられるということ、示します。

その一方で、象徴は女性がくちびるにリップで赤く色づけるさいの、その赤色が語る意味の奥行のことです。それは彼女の趣向なのかもしれず、気分なのかもしれず、もしくは人生そのものを語る色なのかもしれないし、はたまた人類の普遍的な神秘が具現化しているのかもしれない。そのような解釈の余地があるとき、ひとはそこに象徴性を見ます。つまり、意味はつねに直示的にではなく隠喩的なものとして表現されるのが象徴が語る世界なのですね。

 

グリーンは因果的に作動している記号的世界と、非因果的に作動しようとする象徴的世界に関して、 次のように述べています。 

天文学的に見た惑星は、物理学的な力の集合によって宇宙空間に生じた単なる物体にすぎない。しかし占星術、あるいは形而上学の立場から見た惑星は、背後にエネルギーの焦点をもった巨大な生命体ということになる。古代の秘教的教義では、宇宙は巨大な生命体であり、意識や目的をもった有機体であると信じられてきた。心理占星術では、惑星は人間の無意識の中にある元型的なエネルギーを表す。天球図は象徴的な惑星の位置から成り立っている。惑星はいわば神々であり、無意識の力の象徴である。

(リズ・グリーン,p448)

 惑星は、天文学や物理学などの、科学的な枠組みを採用するなら因果的で、それであるがゆえになんらかの自然法則に由来する体系のなかに位置づけることができます。しかし占星術にあっては、それを形而上学視し、あたかも〝巨大な生命体〟であるかのようにして象徴視するのです。その結果、占星学的還元によって、惑星は人間の無意識のなかへと位置づけられ、自然の因果性を外れて非因果性を帯びたものになります。

 

わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律

 

 イマニュエル・カント(1724-1804)は『実践理性批判』(1788)で 「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律」という有名な文句を書きつけていますが、この対比は「月とスッポン」のように比べるべくもないような語っているのではなく、むしろ美しい夜空の星々に人間の道徳律が並べるに値するほどの美しさを持っているということを意味しています。ところが非因果的なものについて考えているぼくたちに掛かれば、カントの文言は別の文脈から眺めることができます。

因果性という観点から「わが上なる輝ける星空とわが内なる道徳律」の文を読むと、星空は自然界に属するものとして、因果的なものとして理解することが通例でしょう。しかし上に引用したグリーンの文言を読むと、惑星は形而上学的なものとして解釈することができ、カントの文言における〝上なる輝ける星空〟でさえ、同じ意味から形而上学的なものとして読み込むことができます。すると、〝上なる輝ける星空〟は非因果的なものとして浮かび上がってきます。そして〝内なる道徳律〟、こちらも自然界に属するのではないという点で象徴性を帯びます。なにせ道徳律は自然法則とは異なる、格率の次元で動いているのですから。

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唐突にカントの言葉を参照したのは、千葉の、占いの核心は現実の因果関係とは無関係である点にあるという言説を受けてのことです。現実から切断されたものとしての占い。「占いで占われることと、現実の出来事は因果的につながっていない。」――と千葉は書きます。そしてそのつながってなさこそがおもしろさなのだと言うのです。

これは〈こころ〉という現象にまつわることとして理解できはしませんでしょうか。

〈こころ〉のなかで起こることと、現実の出来事は因果的につながっていない。

もしくは 、〈こころ〉を「文」に変換してみたりなど。

 文で書くことと、現実の出来事は因果的につながっていない。

 当該文章の前半部に代入させられるものはシンボリックであるもの、つまりは象徴的であるということを共通項として持ちます。

 

ぼくたちは「クラインの壺」に触れて言葉と世界との関係を「表裏・内外の渾然とした様態」だと確認しました。壺の比喩は人間が人間であることの条件を示唆したものとして解釈できます。つまり壺があるからこそぼくたちはイメージとシンボルを獲得できている、というふうに。壺が壊れるとき、ひとは現実に晒され、言葉を失い、そして世界を失うことになります。

「 言語は無意識のように血肉化されている。」ぼくはそう書きました。これは精神分析学のみならず、心理占星学においても共有されていることです。あるいはすべての、ひとがひとであらんとする営みにおいてさえ。

一方では言語のような無意識が、他方では無意識のような言語が、ぼくたちがぼくたちであることを決定していて、たとえば、この文を書いているぼく、読んでいるあなた――両者とも、言語を通して、言語と伴に、言語に対して、言語としてのこの文と向かい合っています。それは象徴的であるために自然法則的な世界で、非因果的な規則を生きる矛盾を抱えてしまう根拠でもあります。

本来ならば切断されているはずの自然と言葉が、矛盾律ではなく融即律*15によってまとめ上がっていて、さらにぼくたちの理解の形式がおおむね言語的な思考能力に依拠しているのもあり、言語は象徴的に人間が人間であることの、自己意識および自己認識的な枠組みとして強い規定力を持ちます。

 

カントの言葉を誤読することを通して、ぼくたちが至った認識である〝上なる輝ける星空〟と〝内なる道徳律〟との形而上学的な対象としての一致は、象徴的なもの、もしくは象徴そのものを通して発見し、解釈し、感得される自己の確信の消息を説きます。つまり、占いに迷える子羊のような態で頼るひとが真剣に自分に対応する星座を調べたりすることは、非因果的なものとしての象徴に恃むという点で、ぼくたちがぼくたちであることのうちに潜む非因果的な象徴へと依存しているのと同じなのです。

 

それはまた、そこにこそ〝それゆえに〟のおもしろさがあるのだ、と言えます。

 

現実とは切断されたおもしろさ

 

千葉は「占いが占いであるのは、それが現実の因果性からは完全に切断されているからであり、そこにこそ占いのおもしろさがあるのです」と述べます。

因果系列が異なっているがゆえにおもしろさがあるとはどういうことでしょうか。

 

言葉を通した創作物はあまた世に出回っていますが、それらもまた〝上なる輝ける星空〟か、〝内なる道徳律〟かの違いでしかありません。とはいえ言葉を介さずとも、あらゆる事物は〈こころ〉に関連付けられることになります。

〈こころ〉にまつわる事柄は、とても魅力的です。映画であれば〝泣ける!〟と宣伝されますし、SNSでは〝いいね!〟が承認を表示することになる。それらは〝〈こころ〉が動く〟と書く「感動」の如何を問うていて、そして「感動したい」という欲求の普遍性をも語っています。

そのような「感動」の法則さえ解明されつつある昨今ですが、さしあたり、それが科学的な説明付けが可能であることとは別の次元の話であって、テレビの娯楽番組ではしょっちゅう科学的解明がなされた「感動」をネタにした感動演出がなされ、「感動すること」と「感動についてわかること」とが同じ俎上に載ることはありません。

 

あるいは通俗な例として、「趣味を仕事にしない方がいい」という言説もあります。趣味を仕事にするというのは、心的現実のレベルで楽しめていたことが、実的現実のレベルすなわち現実の因果性に支配されたロジックに侵され、純粋に楽しめていたことが合理性に呑まれてしまうことです。つまり〝やらなければならないこと〟や〝やるべきこと〟という意識で以て自分が趣味にしていたことをしなければならない。これは「趣味を趣味として楽しむ」という趣味の性質からは漏れてしまうでしょう。

趣味と仕事では時間の質が違います。趣味の時間と仕事の時間。

そうした時間のなかでは、こう言ってよければ、因果系列の質が異なっているのです。記号的な時間と、象徴的な時間――と言ってもいいでしょう。自由な解釈の余地がないのか、あるのか。

 

この違いもまた、〝そこにこそ〟のおもしろさを語っていることでしょう。

そしてそれは、現実から切断された次元をおもしろがる心性の消息でもあります。

たとえそれが、どんなにバカらしく、くだらないものに見えたとしても。、そこに象徴はあるのです。

 

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おわり:迷い道を探すこと

テーマパークのアトラクションのうちに迷路を見つけることがあります。そのとき迷路は迷わせることを目的としている。ひとの娯楽のうちに迷うことを楽しむためのコンテンツがあるということは、ひとのある奇妙な特質を告げているようです。

〝当たる〟と〝中る〟などと言葉の綾じみた些事にこだわり、占いについて考えるための迷い道じみた論脈を敷くことに熱心になってみた結果、本稿はかたちを成しました。

おもしろがるために迷うこと。

迷うためにおもしろがること。 

たとえば、以上のような言い方でさえぼくたちの在り方を見直させる効果があるでしょう。それらの表現に深い内容があるということではなく、何かしら己れを読み込ませる内実があるのではないかと思わせるフレーズ。レトリックの話と言ってもいい。そこは書きつけることの到達点であったはずが、読み込むことで出発点にもなるような〈場〉でもあります。己れが着き、己れへと発つ。そんな発着場。

 

フレーズがある組み方で一ヵ所に集まり、かたちを成すとき、そこには高さができます。高さは立場を周辺から浮き立たせ、そこに立つ者に眺めをもたらします。高さは客観性を帯びることはできますが、そこでの眺めについては必ずしも客観的ではありません。

主観的であるがゆえの高さ、主観的であるがゆえの眺め。あるいは、それらは客観視を受けることで迷路のように見えてしまうものかもしれません。

しかし、迷いはつねに主観的な経験であることを思うと、客観的な迷路というのも変です。〈そこ〉で迷ったひとの迷いが客体化したもの、それが迷路。そして、ときにテーマパークのアトラクションのひとつとして置かれるように、個人の迷いが多くのひとにおもしろみを提供することになりもする。この意味で、ひとが自分自身の迷い道を探すことには価値があります。

 

自分が迷える道を持たないひとは不幸かもしれない。

迷いのない人生には具体的な手触りなんてないのかもしれない。

 

――で、あるからこそ、占いなんてものはあるのかもしれず、もっと言えば、〈こころ〉なんてものもあるのかもしれない。

〈こころ〉はひとの〈世界〉からの/への迷いの効果として生じた、という気さえしませんでしょうか。むろん、この直感さえひとつの迷いではありますけれど。けれど、その迷いが不要であることを申し渡せないような迷いでもあるのですが。

 

_了

 

 

 

 

 

占星学 新版

占星学 新版

 

 (2018/10/22-11/1)

 

*1:リズ・グリーン『占星学』岡本翔子・鏡リュウジ訳,青土社,1994,p63を参照

*2:鏡,p20

*3:内藤淳『助詞「は」と「が」の分析』http://www2.dokkyo.ac.jp/~esemi008/kenkyu/naito.html

*4:郭 潔 · 林 伸一「格助詞「に」と「へ」の使い分けについて : アンケート調査の分析を基に」『山口国文 』(35),山口大学人文学部国語国文学会,84-70,2012-03

*5:スキーマ(英語: schema)とは、もともと図や図式や計画のことを指す言葉で、今では様々な分野で広く用いられる言葉である。 「スキーム」(scheme)とスキーマはほぼ同じ意味であるが、一般にスキームが具体的にほとんど完成された計画や図を意味するのに比べて、スキーマはその手前のおおまかな(概念)状態を指すことが多い。」スキーマ - Wikipediaより引用

*6:ミッシェル・ゴークラン(Michel Gauquelin)――とはいえ、リズ・グリーンの『占星学』の訳者のひとりである岡本翔子の所感を恃めば、本文でのグリーンの楽観的な調子とは異なり、統計学での占星術を実証しようという試みは「完全に成功しているとは思えない」とのこと。岡本の立場は「占星術天文学のシステムを借りた疑似科学のようなものと思っており、科学の領域というよりむしろ、哲学や文学の領域に近いという考えである」(p443)という認識であるらしく、その点からもグリーンの熱を帯びた本文とは対照的です。しかしおそらく、岡本の認識を採用するほうがいいでしょう。なぜなら占星術が指向しているものがひとの〈こころ〉に係わってくる以上、そこに求められるのは科学的な合理性より、文学的な非合理のほうが、矛盾した意味合いを含んだものである象徴を語るのに相応しいはずですから。

*7:國分功一郎『中動態の世界』医学書院,2017,p23

*8:ぼくは「記号」という言葉を用いていますが、現代言語学の祖であるフェルディナン・ド・ソシュール(1853-1917)の、記号をシニフィアン(表現)とシニフィエ(意味)とで分ける記号観に意味を限定しません。むしろジャック・ラカン(1901-1981)の記号に対立させるかたちでのシニフィアン、という考えを恃んでいます。本稿でぼくが拠っている見立てでは、ソシュール的な記号が成立するとき、すなわちシニフィエシニフィアンとくっつくときには、そこにはすでに象徴的なシステムが働いているからです。しかしシニフィアンという表現は多くのひとにとり見慣れた言葉ではなく、わかりやすさが阻害される向きを思い、本稿では「シニフィアン」と表すほうが適当な場合でも「記号」という表現を使用することにしました。それゆえに、「ひとは世界において記号的な風景を象徴のネットワークを介して眺めている」と書いた箇所などは、「シニフィアン的な風景」と記したほうが適当ではあるかとは思いますが、「記号的な風景」という言い方をしています。

*9:河合隼雄ユング心理学入門』培風館,1967を参照

*10:星の王子さま - Wikipedia

*11:「表出」と「表現」は違います。前者は必ずしも意志に基づかず、後者は意志に準じる。グリーンの言葉をこの線から読めば、〝象徴的に表出する〟というのは未知を含んだものとして己れ自身を示してしまうことと理解できます。それはまた自分自身においてさえ「よくわからない」ものとしての〝自分が何であるのか〟があるということでもあります。

*12:「投企」はもちろんハイデガーの用語です。本文に既出の言い方を引きつつざっくり説明しますと、「あらゆる存在者が〈世界内部性〉のうちにあるだけであるのに対して、人間は〈世界内存在〉として自らが属する環境を超え出ていく独自の存在構造を持つ」ときの、人間が自らが属する環境を超え出ていく可能性を開示する、志向的な在り方および存在者として特有な世界への開かれ方のことを言います。くだけた言い方をすれば、経済的に裕福になるのにもそれぞれの環境によってそれぞれのやり方があり、あるひとは地道に働く道を、あるひとは毎週欠かさず宝くじ売り場に並び、またあるひとは違法な稼ぎ方を思いつく。そうした無数の可能性に開かれ、そしてそのことに己れ自身を賭けることができ、己れを賭けたことでまた世界は意味の再編が起こる。以上の一連の世界の選択可能性と連鎖可能性への開かれが投企の語で示されているのです。(参照;コンサイス20世紀思想事典)

*13:ジャック・ラカンの有名な文句。「無意識は言語のように構造化されている」を思い出しつつ、ぼくたちは精神が言語的なシステムすなわち言葉と意味との体系によって成立していることを、精神分析学の基本理念だと理解することにします。

*14:法則と規則について。ぼくが2つの言葉を分けたのは、太陽が朝になると東から昇ることと毎朝8時に登校しなければならないこととの違いを、言い分けるためです。前者は事実に由来し、後者は価値に由来すると言ってもいいでしょう。後者は〝べき〟で語れますが、前者はそうではありません。後者は恣意的ですが、前者はそうではありません。規則はルールのことで、ルールは決められますが、法則は決められません。せいぜい発見されるだけです。こうした違いを、法則と規則とで言い分けています。

*15:「融即律(ゆうそくりつ、principe de participation, loi de participation)とは、別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理をいい、フランスの哲学者レヴィ=ブリュル(Lucien Levy-Bruhl)がその著書『未開社会の思惟』において、未開民族の心性が文明人と本質的に異なることを示すために導入した概念である。神秘的融即(participation mystique)とも呼ぶ。日本語で「融即」はparticipationの山田吉彦による訳語だが、この語には参加や出席という意味があり、推論抜きに2つのものが同一のカテゴリーの中に入る、直結するというニュアンスを含ませている。また哲学では、プラトンイデア論の用語で「分有」と訳されるものに相当したために「分有の法則」と言われることもある。」融即律 - Wikipediaより引用。つまり、あたかも同じものであるかのようにまとめ上げてしまう心性のこと。