ブーメランを投げずにはいられないのだとしたら……
ブーメランは遊びです。投げると、投げた人の元へと戻ってきます。しかし投げたことを知らないままにそれが返ってきたなら、痛い思いをする。ーーそのようなわたしたちの放っているブーメランについて書きました。
- ブーメランを追いかける
- 事例M
- 事例R
- ブーメランを投げない
- 人の不幸は蜜の味
- 徳・カルマ・運命
- 毎朝目覚めるときのように、〈唯一人〉
- それでも、ブーメランを投げている
- 〈唯一人〉でブーメラン遊びができたなら…
ブーメランを追いかける
随分前からSNSで「ブーメラン」という言葉を見かけます。
観察していると、自分で言った言葉が自分の身に返ってくる、というような意味合いで使われているようです。
多くのひとが無自覚に採用してしまっていること、そしてそれを自覚しきれないままに苦しんでいる理由として「ブーメラン」の言葉は適用できそうでもあります。
まず、わたし個人の経験から、それがどういった事態を招くことになるのかを追跡してみようかと思います。
事例M
たとえば、わたしは次のように言われたことがあります。
「若くていいねぇ」
そのひと――Mさんはわたしを長幼の序を笠に着て見下しているのではありませんでした。むしろ、わたしの若さを高みに据え、それを見上げなくてはならない低きにいる自らの境遇を嘆いたのです。
しかしMさんにも、わたしと同じ年代の頃があって、その点では平等のはずです。
理屈ではなしに、若者は年寄りに羨望の視線を向けられる――なんてのは屁理屈で、そこにはただ、屈託があるだけです。
そして、その屈託こそがブーメランの根拠なのです。
Mさんの屈託とは何でしょうか。
それは、「若さは善で、年寄りは悪」とでも言うような偏見に端を発しているように思われます。そういった偏見はMさんの目に宿り、その目に映る年寄りの〝老い〟に対して若い自分に安心する一方、「自分はああはなりたくない」という想いを反照的に強めていったのでしょう。しかしMさんも老います。結果、Mさんは自分が無自覚にも見下げていた老いを鏡に映る自分に認めざるを得なくなり、例の偏見が自分自身のイメージ解釈に適用され、「若くない自分は、悪である年寄りなのだ」という意識を持つに至った――この屈託なのです。
Mさんの屈託は、まさに投げたブーメランを我が身で喰らうという羽目に陥った例と言えるでしょう。
事例R
もうひとつの例はRさんというひとのことです。
そのひとは結婚して子どもができたのですが、その子が精神障害を持っていたのです。Rさんは残念に思いながらも、世間の目を気にして、〝障害児を育て上げた親〟になろうと努めました。そうして意思の疎通も困難で、場所を構わず突然大声を挙げたりする我が子と、強く生きていこうと決めたのです。
しかし、我が子を連れて公共の場に出掛けるとき、Rさんはついつい誰かが自分たちを悪し様に言ったり、奇異の目で見てはいないだろうかと過敏になってしまいます。あるいは「子どもがああいうふうだと大変ねぇ」という憐憫の視線が向けられてはいないだろうか。耐え難い精神的苦痛を感じます。
ここにも、ブーメラン現象があります。
Rさんは我が子の障害を認めたつもりですが、それを障害だと思ってしまっている時点で、自分が採用してしまっている差別意識に気づいていません。
電車のなかでぶつぶつ独り言をしゃべるひとに向ける、自分の視線が含んでしまうもののことを、Rさんは知らないのです。
無意識に採用しているひとの見方は、それがネガティブな意味合いを持っているほどに後々になって自分の身を苦しめることになる。そしてそれは他人から向けられている(ように思われる)視線へと転化します。自分の無自覚的な自覚の投影です。見ているつもりが、〝そういうふうに見られている不安〟へと、たやすく変化してしまう。
Rさんが投げたブーメランは、自分が当事者の世話をしなければならなくなったとき、世間の目というかたちで返ってきたのです。
ブーメランを投げない
ブーメランについてざっくりとした例を確認しました。
わたしたちも、気づかないうちに放り投げてしまっているかもしれないブーメラン。
いつか忘れた頃に痛い想いをする羽目になるなら、是非ともその憂いは回避したいところ……。
ブーメランを投げなければいい!
でもどうやって?
パッと思いつくことは実に単純で、「人にやさしく」ということに尽きるでしょう。
それは幼い頃に勧善懲悪モノの童話なりアニメなり、もしくは小学生時代の道徳の教科書に掲載された話なりから触れているはずなのです。道徳とは何かについて。
人の不幸は蜜の味
ところが道徳についてすでに知っていることを生かせないでいる。
なにせ「人の不幸は蜜の味」とも言います。
週刊誌などの記事。電車の中吊り広告。
ネットニュースなどでもそうです。
「誰々が不祥事を~」系のニュースが日々更新されていく背景には、他責的でいられることの快感があるでしょう。自分が責任を負うことなしに、一方的に責める側でいられること。
そのような文化では良いことの価値は不当に低く見積もられてしまいはしませんでしょうか。
もしかしたら、良いことをするのが今やリスクになっているのかもしれません。もちろん、悪いことをするのも相当のリスクを背負うことになります。なので、悪いことを〝しちゃった〟人たちが非難の的にされるわけです。
もしかしたら、良いことはつまらないのかもしれません。つまらないどころか売名行為の疑いを掛けられ、性善どころか商魂でもって良いことをしたのではないかと見なされるリスクを負ってしまうようになっているのかもしれません。なので、良いことにはそれをするリスクが掛けられてしまっているのかもしれません。
だとしても、おいしい悪意は賞味しない方がいいでしょう。
徳・カルマ・運命
悪いことをしないでいる。そして良いことをする。
良いことをする自分と悪いことをしない自分の両立。
わたしが思うに、これにはコツ…というか独特の姿勢がいります。
それは〈唯一人〉であること。
仲間を持つにしても群れの意識を持たないこと。
個人主義者ではなく個人になること。
――等々。
「徳を積む」という言い方があります。良いことをすれば救われるというあれですね。いわば、信じるという善行を行えば魂は天国に入場可能というキリスト教的なメッセージのイメージです。
また、「カルマを貯める」という言い方もあります。こちらも善行は自分が自分であること、または自分になることの因果に係わり、因を重ね束ねることで果を享ける。この構図を意識し、善因を生きることによって善果を得、苦しみの連鎖である輪廻から抜け出せるという仏教的なメッセージのイメージ。
加えて、「運命を負う」という言い方もあります。
占星術では術者が被術者に対して、「あなたは今のままだとよくない」という言い方をし、被術者が無自覚的に引き受けてしまっている自分の性格を指摘し、「その性格でいることで被るかもしれない運命」に注意を向けさせます。そして被術者は自らの責任に気づき、引き受けるか別な性格を生き始めるかを選択することになるのです。
――以上の3つの言葉に、他責的なものはひとつもありません。
「自責」というとやや堅苦しいものがありますが、自分が自分であることを自ら引き受ける態度には勇ましいものがあり、こう言ってよければ、自分であることに対して誠実です。
こうした意味でのマジメさは、〈唯一人〉であるということの自覚に係わってきます。
毎朝目覚めるときのように、〈唯一人〉
〈唯一人〉で個人としての自分に向きあうこと。
この境遇に立つとき、世の中の人間関係でのごたごたはある様相を見せます。
たとえば、思春期の中学生が自意識の過剰のために親に反発するとします。さらには「自分はひとりで生きてやる!」と啖呵を切り、家出したとしましょう。すると途端に自分が当たり前なこととして享受していた日常の意味に気づきます。それは自分が唾を吐きかけた〝親のありがたみ〟と世間では言われるものだと気づかなければならなかったときの、彼の胸中。やるせなさ。
彼にとって家出という行動は〈唯一人〉になろうとした意志の表れだと見做せます。それは挫折してしまうものの、その挫折によって得られた気づきがあるわけです。――それは何か。
あるいは、「失ってから気づく大切さ」はよく聞くフレーズです。「いつまでもあると思うな親と金」でも「孝行したい時に親はなし」でもいいのですが、それらは〝つねにあったもの〟が〝すでになくなった〟という喪失の契機を経て得られた気づきを告げています。――それは何か。
それは何か――その問いへの回答は、〈唯一人〉は誰かとの寄り添い、何かとの付き合いなくしては実現しないということです。
本質的なのはしかしそういった文字通りのことではなく、そこに隠喩的に働く当たり前のこととして享受してきたことに気づき抜けていく覚醒のプロットです。
〈唯一人〉として立つときに目撃される様相というのは、つまりはゲームのなかのキャラクターからプレイヤーへ、もしくは、小説の登場人物から読者へと、自分がさっきまで無自覚でいた自分を、ひとつの役柄として俯瞰できるような様相なのです。そこで自分はさっきまでの自分とひとりきりで対峙するという点で、〈唯一人〉でありえます。しかしそれもまた、自分以外との係り合いを抜きにしては実現しません。とりわけ係り合うことで培った相手もしくは対象の喪失を抜きにしての実現は難しいでしょう。
そして、そのうえで〈唯一人〉になろうとすること。
ゲームキャラクターからゲームプレイヤーになったとしても、プレイヤーになった途端に新たな視点が加わったゲームのキャラクターになってしまい、
小説の登場人物から読者になったとしても、読者になった途端に読者の視点を持った登場人物となってしまうことでしょう。
朝目が覚めて、自分はさっきまで夢を見ていたんだと気づく瞬間があって、それ以降徐々に意識がはっきりしてくると、今度はこっちが夢である可能性が頭を擡げてくる。
〈唯一人〉になるのもそれと似ています。
「今、自分は〈唯一人〉なんだ…。」という境地があり、世界において孤独になる。
ひとは覚醒するとき、いつでもひとりきりです。たとえ誰かと同じ夢を見ていても、そこからの覚醒は個別の体験になります。たったひとりで目覚めなければならないのです。いつでも、目覚めは孤独のうちに訪れます。
覚醒のとき、ひとは誰かと群れてはいられません。
覚醒のとき、ひとはわがままではいられません。
それでも、ブーメランを投げている
ブーメランを投げなければいい!
わたしは軽はずみにそのように書いてしましました。
しかし、ブーメランという言葉およびそのイメージをよくよく検討してみますと、わたしたちはブーメランを投げないでいるということはできないのではないかという可能性に思い至ります。
SNSで実際に使用される「ブーメラン」はおそらくなんらかの批判的なニュアンスのあるコメントの発信が、投げのモーションに中り、そのコメントでの批判が発信者当人も実は該当していたという場合が受けの事態ということになるでしょう。
とはいえそれではおもしろくない。もっと「ブーメラン」を拡大して、一度意味をびろびろに広げてみることで見えてくることがあるように思われるのです。
わたしたちは「ブーメラン」をつねにすでに投げてしまっているものだと理解します。
ブーメランは投げたものが自分のところに戻ってくるものです。
とはいえわたしたちが生きている現場に目を向けますと、ブーメラン的な〝投げたものが戻ってくる〟という事態は何も特定のコミュニケーションのあり方ばかりにのみ適合するわけではありません。
見かけたら挨拶している近所のひとから実家から贈られてきたのだと言って果物を貰ったり、
寝る前に必ず仏壇に手を合わせるようにしているから無病息災なのだという確信でさえ、
〝投げたものが戻ってくる〟式の事態だと意味を広げることができます。
以上の操作をすることでわかるのは、「ブーメラン」はひとが生きていればつねにすでに放ってしまっているものである、ということです。
ただそこにいるだけで周囲になんらかの効果を及ぼしてしまい、その及ぼした効果の結果を自身で受けることになる。
自覚しているとかいないとかとは無関係に、ブーメランを投げてしまっているということ。ひとは自分が受け取ることになるブーメランを自覚無自覚問わずに放り投げてしまっている。この点から、多くの人間関係上の悩みは、自分が無自覚のままに投げてしまっているブーメランが巡り巡って自分に返ってきたときに、それを自分のせいだとは思えないところにあるように思われます。
〈唯一人〉でブーメラン遊びができたなら…
わたしはたまに、こう思います。
すべてを自分のせいにできたなら、そのときわたしは神にも等しい存在になれるのではないだろうか?
まるで思春期の中二病の典型思考のようですが、これはかなり重要です。
多くの場合、ひとは自分の責任の範囲を決めていて、それを超過した領域でなんらかの損害を受けた場合に、ひとは誰かのせいにします。
しばしば性犯罪被害者女性への心無いコメントとして、そんなことされてもおかしくない格好をしていたのではないのか――というものが挙げられますが、敢えてこの下劣なコメントをしたひとの心境に寄り添って考えてみるに、その人物は被害者女性の責任の圏内のなかに性犯罪被害を受ける可能性が織り込み済みだったはずだという責任能力を見ようとしているのではないでしょうか。他方で、被害女性の側からすれば性犯罪被害は自分の責任の範囲内からは遥かに超過した領域に属し、それは「自分のせいではない」という立場になる。
仮に、以上のような消息に信憑性があるとして、わたしの脳裏をたまによぎる先の直感である「すべてを自分のせいにできること」が実現した場合、少なくとも、上の下劣なコメント者はわざわざ「わかっていること」当事者に対して伝えることはしないでしょうし、当事者の方でも泣き寝入りだとかそうではないとかとは別の次元で沈黙することになり、問題は存在しなくなります。
大げさに言えば、宗教が、悲惨な事件が起きたときに、それを神への不信と捉えるのではなく、神からの試練だと考えるようなもの。すべてが自分のせいならば世界が現にこうなっているのも自分のせいであって、自分がひどい目に合うことさえも、すべてに含まれる。そのときには自分と自分以外の誰の責任能力も非対称的なものとなって、責任主体としての自分はすべてに含まれていながらもすべての外部に立ち、その外部において己れの責任能力を行使することになります。
以上の如き夢想はある種の悟りではありますが、「ブーメラン」を考えるとき無暗に責任主体である自分を疎外しないためにも興味深い思考実験に思われます。
わたしは〈唯一人〉という言い方を用いました。
その理由は、〝以上の如き夢想〟へと醒めるためには「世界に唯一人」――〈唯一人〉の境地に佇むことが構想としては最も近傍にあるように思われたからです。
〈唯一人〉になって、ブーメランを投げられるとすれば、疾く回転し、宙に弧を描いて返ってくるその軌跡も、空を切る音の聞こえさえも、すべてが透明に自分に与えられるのではないでしょうか。そして〝これを投げたのは間違いなくわたしなのだ〟という確信のもとに、自分の手でキャッチすることができる――そう、思われます。
_了