can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

ドラマ『漱石悶々』:男性文学と女性の成長

ドラマ『漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間』(2016)を見て思ったこと。

 

私は学部生時代にサブカルチャーの文学という講義を受けていた。そこで先生はこう言っていた。

「今では男性の成長は描けなくなっています。女性の成長物語だけが描けて、そしてウケるのです。」

先生はジブリ作品の『風の谷のナウシカ』を引き合いに出したり、社会評論家の大塚英志を参照したりと、男性の成長を描くことの不可能性を説いた。私の中で、男性の成長の不可能性というテーマは、それ以降、妙に胸のつかえになっていたのである。

そうした胸のしこりじみたものに、件のドラマは触れるところがあるように思われたのだった。

 

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ひとまずあらすじをば。

硝子戸の中』を書き終えた大正4年3月、強度の神経衰弱と胃潰瘍に苦しむ漱石は、静養のため若い画家の友人・津田青楓の招きで京都へ向かう。木屋町の名旅館「北大嘉(きたのたいが)」に投宿した漱石は、「文芸芸妓」として名の知れた祇園お茶屋「大友(だいとも)」の女将・磯田多佳と出会い強く惹かれていく。漱石北野天満宮での梅見の約束を反故にされて失望し、多佳の周囲の若手実業家・加賀正太郎や老舗旅館の主人・岡本橘仙の存在に悶々と気を揉む日々を過ごす。「大友」での宴席で胃潰瘍を悪化させた漱石は多佳のもとで床に伏し、やがて回復すると、思いを伝えぬまま津田が呼び寄せた妻・鏡子とともに京都を去る。東京へ戻った漱石は、多佳との間に情熱あふれる書簡を交わす。
(漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間 - Wikipedia)

(ドラマを観たときの印象で筆を進めた結果、あらすじの中で〝女将〟とある人物のことを「芸者」と表記している。悪しからず。)

 

さて、私は先日、『漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間』なるドラマを観た。夏目漱石と芸者との恋慕を描いたもの。芸者は漱石の熱心な読者であって、お座敷は盛り上がり、漱石も胸を躍らせたというわけだったのだが、ひょんなことから漱石がキレてしまう。

 
漱石は、あなたはデートを楽しみにしていた私のことを裏切ったのだ!ーーと芸者に手紙を送る。

残された手紙だと漱石は約束したのに裏切られた男として読める。そして漱石との約束を反故にした芸者の方がヒステリックな?女の気まぐれで漱石を弄んだ悪者に読めてしまう。ーーこれが漱石が残した文章の結果として、現代の読者が読める事のあらましなのだ。

  

がしかし、ドラマでは芸者はヒステリックでも気まぐれでも、ましてや悪女でもなかった。

芸者は漱石の実生活の疲れを癒すひと時の憩いの時間の中にいた。漱石はそこに留まりたがっていた。約束を反故にしてしまったのにも事情があり、芸者はそれを打ち明けることもできた。芸者はそうしなかった。ーーここに芸者の気遣いと理知がある。

(なぜ事の真相を打ち明けなかったのかは、ドラマをご覧ください)

 
漱石は知らないとはいえプリプリと怒る。片や芸者は真相を胸に秘め、漱石に対して不粋な女を演じる芸者。

  

漱石の証言だけを見れば、芸者は悪者としてしか現代の私たちには映らなかった。

当時、文学は男のものだった。そして、当時の人情ないし世情は、当時の文学を通してしか知ることができないという事情もある。つまり、現代において参照される過去の人情ないし世情の記録メディアは、ほぼ男性の視点において記録されているのである。

 近代化の過程では日本男性は成長しえただろう。西洋列強諸国に必死で追いつこうとする姿勢は、近代的主体の立ち上げに躍起になる文学者と共に、立派に成長物語足り得た。

とはいえ女性の方はどうか?


性文学。それは男性の成長のみが主題になっていたと言える。文学作品の主人公が女性ならば大丈夫とかの話ではない。男性がそれを書いたことが、既に男性の成長に供されているのである。男が書く女ーーこの図式でさえ、ひとつの抑圧だった。

 

要するに、男たちの言葉で語られ続けた時代が、女性にはあるのだ。

西洋列強がうんたらだの近代的主体がどうだの、知ったこっちゃない彼女たちは、女性自身としての成長物語からは疎外されていた。物語を読むのに文学を紐解けば男性文学しかない。

ゆえに、女性文学的な、女性が成長する物語が近代化に躍起になっていた時代の後で、要請され、そして男性の成長物語よりもおもしろいものになっているのだ。


物語はドンデン返し的であることが好まれる。だが。今や男性であることでドンデン返しができなくなっている。

 
夏目漱石 最後の恋』に描かれていたことは以上の点において示唆的である。

漱石の残した語りにおいて、芸者は抑圧されてきた。漱石と向かい合った芸者について知ることは、漱石の観点において抑圧された芸者を知ることでしかなかった。

しかし、ドラマでは芸術はむしろ漱石より上手だった。ドンデン返しという点で、漱石と芸者の関係の見直しをするには、芸者が真相を伏せていると想定することにおいて可能だった。

 

言い換えれば、漱石と芸者との関係を娯楽として、おもしろいものにするには、女性の側に成長を見込む必要があったのだ。逆に漱石の成長に肩入れすると、このドラマはおもしろくならなかっただろう。


やはり、男性の成長は描けないのかもしれない。抑圧され、その抑圧を跳ね除けることで成長、いや成熟を遂げるのには、女性の立場の見直しにおいてだけうまく行くのかもしれない。 

 

今回『漱石悶々 夏目漱石最後の恋 京都祇園の二十九日間』を観て感じたのは、かつて私が大学で「今では男性の成長は描けなくなっています。女性の成長物語だけが描けて、そしてウケるのです。」という立場への信憑性であった。

 

しかし、女性の後で、私たちは誰の物語を語ればいいのか。そうした問いが生じはする。今や女性の成長さえ描きにくい嫌いもあるだろう。物語の行き詰まりだ。

ダイバーシティと世に聞こえて久しいが、やはりマイノリティの方面からの声が有力だろうか。もしくは、『森は考える』という人類学の唱える、新たな語りの主体が声を挙げるのだろうか。――つまり、次の成長の主体は誰なのだろうか。これが気掛かりだ。

 

_了

 

※引用した画像はU-NEXTの当該ページ「漱石悶々 夏目漱石最後の恋」の動画視聴・あらすじ | U-NEXTより抜粋。