can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

It seems to me 〜〈欲動〉イメージのスクリブル

 欲望はわかります。しかし欲動ってなんでしょうか。ちょっとつかみ辛さがあるので、肉付けしてみようと思います。そういう記事です。(2018/09/26-11/09)

 

 

欲動ってなんぞや?

 

フロイト以来の精神分析学に〈欲望〉と〈欲動〉という概念があります。

わたしは、はじめてそれらの言葉の対比を知ったとき、その違いがわかりませんでした。

欲望は…「自分がしたいこと」、英語で言うところの“ Want ”または“ Wanna be ”の言い方でイメージができます。

でも欲動は?――イメージできませんでした。

 

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しかしその不可解と伴走するうちに、わたしはどうにかイメージを結ぶことができたように思うので、そのイメージについて書きつけさせてもらいます。

 人称的な欲望と非人称的な欲動

 

まず、欲望と欲動を英語に言い換えてみます。

すると、欲望は“ Desire ”、欲動は“ Drive ”となります。

“ Desire ”は「~と望んでいる」その状況に、主語が誰かが明らかです。

ある想いに対して、それが誰のものであるのかがわかっています。

“ Drive ”の方では、意味としては「車を運転する」の〝運転する〟という動作を表す言葉でもありますが、欲動というときには「自分を駆り立てるもの」というニュアンスを帯びます。起っていることとしては「~と望んでいる」ことと変わりはないのですが、しかしそこでの主語をはっきりと決められないのです。主語を断定することを躊躇わせるような何かがあるのです。

 

欲動は、人間心理の考究に頭を悩ませたフロイトが用いたドイツ語での表現では" Trieb "とともに“ Es ”、すなわち英語で言うところの“ It ”として表されます。

“ It ”は非人称主語で、「雨が降る」などの英語表現において登場する主語です。

欲望を人称主語のはっきりした言葉だとすれば、欲動はそれがぼんやりとしていて、非人称的なのです。

 

人称的というのは言語学…いや言語哲学の言い方です。
言語というものは、相手の身になる能力を前提にしています。一人称は二人称に転換しえる。わたしはあなたで、あなたはわたし。鏡を覗いての自問自答をイメージしてもらうと良いでしょう。そこには視点の入れ替え可能性の発生があります。あるいは小説のなかでの視点や映画のなかでのショットを思い出すと良いかと思います。双方ともに作者の視点が設置されています。これは言語において、一人称、二人称、三人称に至るまで通じている前提なのです。
人称的の言い方が指すのは、視点の在り処がわかっていることであるーーと言えるでしょう。視点の在り処としての座標がわかれば、その座標へと意識を志向させることができます。言い換えれば、感情移入することができるのです。
翻って非人称的であるということは何か。視点の在り処としての座標を絞れる人称的であることを鍵と心得れば、その絞れなさが肝になるでしょう。すなわち視点の在り処が絞れないことが。
非人称的な主語として英語のIt を挙げましたが、〝 It 〟が主語として置かれる英文を読んでみますと視点の絞れなさを理解できるでしょう。その代表例としては天候を表現したもの、It rains. などがあります。雨を降らす人称的な誰か、ないしは何かを特定できはしません。その非主体的な名が主語として機能するようなシチュエーションが、非人称的である、というわけです。

「ノる/乗られる」感覚


はて、さて。

わたしたちは「自分がやった」のか「他人がやった」のかという判断の仕方とともに、「おのずとそうなった」という状況の判断仕方を持っています。

そうした状況判断は、自分自身の行為の主語を決める際にも適用されます。

 

つまり、自分の行為が「自発的」(自分がやろうと思ってやったのか)と「他発的」(誰かに言われてやったのか)かのどちらかに考えることができます。そしてそのどちらもでもない「内発的」(自然とそのようにしていた)だったかどうか、という認識もあるわけです。

 

差し当たり、欲動は「雨が降る」ように非人称的で「内発的」なものとして説明できます。「ナニカに駆り立てられるように」と言うときの〝ナニカ〟というわけです。それは英語で表せば“ It ”の語が主語の位置に冠せられるでしょう。

 

また、“ Drive ”という言葉に居着く「運転する」の意味から、「ノる/乗られる」の対比を思い浮かべることができます。その対比は伊藤亜紗の吃音研究の著作である『どもる体』での、自分と体の関係を記すのに用いられた図式でもあります。そこではやはり「ノる/乗られる」という言い方が、人身一体であることを表現するのに使われているのです。

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 さして頭をひねらずとも、「ノる/乗られる」は「する/させられる」の図式で理解できるでしょう。

〈ノる〉という事態は、主体と行為とが直立関係にあります。いわば、主体という頭部(主語)が行為という身体(述部)に対してまっすぐなのです。このときの行為主体である自分にとって、自らの行為の責任を問われることは不当ではないということに頷くでしょう。言い換えれば、〈ノる〉ときには、文法用語で言うところの「能動態」にあると言えます。

ところが、 〈乗られる〉事態では、主体と行為とが倒立関係となり、自分の状況を言語化するにしても、本来ならば頭部としての主体が身体としての行為を従属するところが、行為はむしろ主体に対して支配的な態度を示し、主体は十分に己れの行為責任を引き受けることができなくなります。このときの状況を「受動態」的であると言ってもいいでしょう。

 

すでに述べた図式に重ねてみますと、「ノる/乗られる」というのは「自発的/他発的」に対応します。そして、やはり前述した「内発的」の観点で眺めますと、「ノる/乗られる」の図式自体を構成する「主体‐行為」連接は、それらをひっくるめて「ひとつの現象」であるという理解へと開かれます。

「ひとつの現象」というのは、端的に自分が自分であるというその事態を指して言えます。なので、わたしは「ひとつの現象」として〝自分が自分であること〟を〈自己〉と表現することにします。

 

『どもる体』でも触れられている哲学者シェーン・ギャラガーの言葉に「自己所有感(sense of self-ownership)」と「自己主体感(sense of self-agency)」があります。

 自己所有感と自己主体感は、主体と行為の関係を述べる言葉です。

伊藤の説明では次のように記述されています。

「自己所有感」とは「これを経験しているのは私である」という感覚。一方「自己主体感」とは「この動作を引き起こしている、あるいは生み出しているのは私である」という感覚を指します。
伊藤亜紗『どもる体』p75,医学書院,2018)

やや同語反復的なパラフレーズを試みます。――自己所有感が自分の行為を「自分がやったこと」だとして、〈自己〉の所有者意識へと帰属させられる感覚を指し、自己主体感の方は、自分の行為を「自分がやっていること」だというふうに、〈自己〉の行為者意識へと関連付けられる感覚を指します。

 伊藤がギャラガーの言葉をひも付けるのは吃音当事者であり、彼女は次のように述べます。

吃音に当てはめるなら、自分の経験であると分かっている以上、吃音の経験にも「自己所有感」はあります。一方「それは自分の生み出した動きではない」と感じられる点で、「自己主体感」が失われた状態にあると考えられます。

「自己主体感」が失われた状態について、ギャラガーはこう説明しています。「ある運動が私の運動であると認めるが、私がその運動を引き起こしたり、コントロールしているとは感じられない、ということがありうる。つまり、私には動作主体(agency)という感覚がないのである。運動の動作主体は、私を背後から押している人物、たとえば健康診断で私の腕を操作している医者のようなものである」
(同上,p75――太字にした箇所は原文での強調箇所を表現したものです。)

ギャラガーの説明しているくだりは統合失調症の例になりますが、伊藤は「自分でないものに動かされている感覚」を記述したものとしてギャラガーの記述が有効だろうという意向があるようです。

そうした伊藤の認識は、わたしが〈欲動〉の概念に血肉を与えようとする操作にとって示唆的であるように思います。

 フロイトの使用例

 

〈欲望〉の言い方では、たとえば将来の夢などをひとに訊ねる場合などがそうですが、そこでは未来の自分のイメージの所有者としての主体が前提になっています。その質問を〈欲望〉に関連するものとして読むのに注意すべきなのは、イメージの所有は含意されていますが、そのひとが実際に行為したかどうかには消極的なのですね。積極的なのは「持っているのかどうか」という点であり、〈欲望〉は行為可能性こそ匂わせど、「行為したのかどうか」は脇に置いてしまうのです。

他方で、〈欲動〉の場合だと、日常的な場面でその言葉を使うことはないでしょうが、おおむね行為者としての自分が前提になっています。

例文として、〈欲動〉の語を世に流通させたインフルエンサーであるフロイトの使用例を確認してみましょう。

欲動との関係における自我は、馬の圧倒的な力を手綱を引いて止めなければならない騎手と同じである。

フロイト「自我とエス」p20,道籏泰三訳,『フロイト全集』第十八巻,岩波書店,2007/1923――※記事の意向に合わせて、原文での「エス」の表記を「欲動」と言い換えています。)

 フロイトの使用例を見ますと、〈欲動〉は乗り手が制御することが期待される馬としてイメージされています。馬の乗り手である騎手は自我、というわけです。〈自己〉という言い方を用いるなら、〈欲望〉が騎手の意向に内在しているものの、〈欲動〉は必ずしも騎手の通りにはならないようなものとして捉えられていることがわかります。

わたしの言い方では、〈自己〉という現象(もしくは現場)において、騎手はアタマを指し、馬はカラダのことだと言えます。

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カラダは必ずしもアタマの思う通りには動いてくれませんが、アタマはカラダの所有権を主張しがちですし。

以上を踏まえると、

行為が主体を置き去りにしていくような

 

欲望は自己の自己所有感が前面にある。

欲動は自己の自己主体感が前面にある。

  昨今、ビジネス書の棚でも「無意識」に頼ることを打ち出した人生論や処世術の本が目につきます。

哲学者である内田樹の著書のタイトルである「私の身体は頭がいい」の言い方に倣えば、「自分のアタマで考えるよりも、人間のカラダの賢さに頼る方がいい」という立場であると言っていいでしょう。

自分が所有することから絶えず免れようとするカラダは、こう言ってよければ最も身近な他者です。

〈自己〉に属しながら他者として機能する無意識的なもの――それをつらまえる言い方として、〈欲動〉という概念はあります。

 欲望主体と欲動主体

 

さて、欲動主体であるカラダは欲望主体であるアタマを批判します。そして批判してくる欲動主体に対して、欲望主体は抵抗します。それらの〝運動〟は〈自己〉という場において展開します。〈自己〉にはひとつの人称的な主体が君臨しているのですが、そこには非人称的な主体が潜勢しているのです。

自己批判としての欲動、というわけですね。

〈自己〉は「欲望を持つ主体」です。

他方で、「欲動を運ぶ主体」も同じ〈自己〉の場に存在します。

この意味で、〈自己〉は生成運動そのものです。

 

〈自己〉の場を注視しますと、そこにある生成運動が“たった一度”かつ“たった一つ”であるしかないことを目撃できます。そして、自発と他発の分類は意志のもたらす恣意であることにも頷けるでしょう。現場はたった一つ、という訳ですね。

わたしたちは「自発/他発」の図式を自他の水平的な関係として捉え、自分の行為の「能動性(自分がやろうと思ってやったのか)」と「受動性(誰かに言われてやったのか)」とを確認しました。そこに「内発性」(自然とそのようにしていた)を観取することで「欲動とは何か」の理解線を敷いてみはしたのですが、その「内発性」に至る手前に、「自発/他発」の図式を垂直な関係として理解することもできるようです。

すなわち、ある自分の行為が、誰か他人の指示に自分が従って行なったのかどうかではなく、つまりは具体的な対他関係のなかで行われたかどうかではなく、自分ひとりきりの行為決定システムの内部における、いわば自問自答の過程のなかから実行に移された行為があるとき、行為主体としての〈自己〉に自問自答を可能にする行為決定システムには、常に既に、他者の観点が像として介入しているはずで、さらにはそうした他者の複合体こそが行為主体に与えられた行為決定システムを構成しているのですから、その自己内対話的な自問自答の内部においてさえ、「自発/他発」の表現を許容する自他関係の論理階型が存在するのです。

 

 自己を、内発的な生成運動として捉えるとき、わたしたちは所有不可能であるものに衝き動かされる行為主体と出会うことになります。

  • 所有者としての主体
  • 行為者としての主体

 まるで、運命のようです。

運命は宿り宿されこそすれど、それに対して所有者になることはできません。

しかし、運命を受け入れ、あるいは立ち向かうことで、行為者としての主体として生きることはできます。架せられた不条理……とでも言いましょうか。

 アーティストと欲動

 

創作者あるいはアーティストにとって〈欲動〉は無視できない概念です。

  わたしがこの記事で書いている文章にも〈欲動〉は潜んでいることでしょう。

それらは往々にして書いている過程のなかでは見えないのです。

 

わたしはこれを書き終えることで「わたしはこの記事を書いている」状況の外に抜け出なければなりません。そうすることによってはじめて、わたしはわたしの〈欲動〉とようやく顔を突き合わせて向き合うことできるのです。

わたしと〈欲動〉の関係にとって、この記事を書き終えることは、書き手としての〈自己〉の他者になることなのです。書き終え、わたしはようやく読み手としての〈自己〉になり、書き手だった〈自己〉を醒めた目で見つめることができるのです。

 

いまや、フロイトの影を追った同じく精神分析学者であるラカンの「われなきところでわれ思う、故に、われ思わぬところにわれあり。」の言い方は、〈欲動〉を表現するものとして理解できることでしょう。

 

「本当の自分」という言い方をしばしば見掛けますが、精神分析学によれば、意識的な自我は無意識的な領域をつねに抱えていて、自分が自分であることの大半を蔵している無意識にこそ真なる自分が隠れているとされます。自我と無意識とを含んだ全体を自己と呼ぶにして、自我と自己はいわば庭師と庭園のごときものだと言えます。庭師である自我は、庭園の手入れをしますが、その庭園はあまりに広く深遠なため、全容を把握することができず、それゆえに無意識は無意識的であるということになるのですね。そうした消息を受けてなお、「本当の自分」は自我ではなく、自我以外の領域が担保しているのです。

 

制作行為はある意味では〈自己〉の目撃が賭けられています。〈自己〉とは上記の譬えで言えば庭園です。庭園の全体性を象徴する何かを目撃すること。それが賭けられている。つまり、「自分は何者で、どこから来て、どこへ行くのか」――そのような青臭い問いに真剣になっている。むろん、意識している必要もなく。制作という活動において、そうした〈欲動〉の影を看取することは可能ですし、そして結果としての作品に対面したときの制作者の想いもまた、欲動的なのです。 

ーーIt seems to me.

_了

 

 

どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

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エスの系譜 沈黙の西洋思想史 (講談社学術文庫)

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