can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

女の夢園と男の飛翔――竹宮恵子『ウィーン幻想』より

 竹宮恵子の『ウィーン幻想』を読むと、竹宮流の男と女の本質が立てられています。そこからはどのような含みが読解できるのか。わたしの関心は彼女の独特な語彙――「夢園」や「飛翔」――などの、〝概念としての可動範囲〟へと向かいました。むろん、ここで述べられている男女の違いはあくまでも象徴的なものであって、男女の違いは事実としてこうであるという話ではありません。悪しからず。
キーワード:夢園、飛翔、イメージ、夢見、ハイデガー、現存在、被投性、不安

イメージを介して開かれる〈場〉

 男女の違いとはよく取りざたされる話題であり、他者どうしのあいだにおいての断絶もさることながら、性別間における断絶も確たるものとして語られがちである。それは性的であるがゆえの排他的な性格を醸してしまうという点で危ういものの、わたしたちがイメージを介して開かれる〈場〉に拠った現実に息しているという事情を思えば、自他そして男女という基準によって「切り分けられるリアリティ」があるという実情を直視することは不適切ではない。

イメージはわたしたちの周囲に満ち充ちている。

そもそも、わたしたちが〝わたし〟を名乗ることでさえイメージに依存しているのだから。

そのようなイメージをつかむのには流行歌や映画、ドラマやマンガやらといった文化表象をテキストにするのがいいだろう。何よりも身近で、自然と耳目に入ってくる。そのような文化表象を敢えて俎上に上げなくとも、個々人の経験においてもそれは感得されている。なにせあらゆるイメージはこの社会の内部において発生し、展開し、収束するイメージであるからだ。イメージが現に作動している意味空間のなかで生活している社会成員は、それゆえに、そのイメージを自覚無自覚問わずある程度把握している。

男女を問うことの功罪

わたしは本稿で、男女のイメージを検める。
男女のイメージがどのように作動しているのかを窺うというわけだ。
前述の通り、男女の相違を論じることは書き手の思い込みの反映が色濃く出たり、ときには男尊/女尊の立場が浮き立つ結果となり、それを真に受けた読者が〝男というもの〟〝女というもの〟などの主語の大きさを非難したりすることもざらである。

本稿からも、そのような非難を立ち上げることは可能だろう。
男と女。その区分の見立ての恣意性を指弾することはできるだろう。
しかし、弁解というよりそもそもの狙いとして、わたしはあらゆる男女論の性差区分の恣意性も、それが恣意的であるからという理由でのみ非難されるべきではないと考える。
 
男女の違いは現実的に実在する。そうした違いを押さえておこうとするために男女論は書かれ、そして読まれる。多くの場合、そうした男女の違いに関する考えは、自らの経験値や誰かの男女論を踏まえて「男というものは~」「女というものは~」と斜に構えた態度を取らせる根拠として機能してしまうのかもしれない。

しかしそれだけではないのだ。わたしがむしろ注目したいのは、男女の現実的な違いをある特定の立場で押さえておくことで、特定の立場から仮固定的に男女それぞれの領域の境界線を拵えたそれ以外のところ、もしくはそれ以上のところで互いに似通うことができるという可能性の提示にもなる――という点である。

「似た者同士」という言い方は、自他の〝似ていなさ〟をバックグラウンドにしたフロントシーンとして意味を持つ。男女間においても、「似た者同士」になることの愉悦は確実にある。恋人同士を想定するとして、「似た者同士」になれたことの喜びとは、本来他人同士でありその上に男と女という違いを有していてこその滋味であるはずだ。
 

イメージとパフォーム

わたしはイメージに注目した。イメージとは何か。それは可視的( visible )であるということだ。可視的であるということは形( form )を持っているということ。そして、ひとが生きているということは自分が自分であることを遂行ないしは演じている( perform )ということである。
現実をパフォームすること。“ per-form ”、“ per ”はラテン語で「~につき、~ごとに、~によって、~を通じて」であり、“ forma ”はラテン語で「形」、すなわち英語の“ form ”である。つまり「形を通して」表現されるものが“ perform ”なのだ。
現実はつねにイメージを通して立ち上がる。イメージはパフォーマンスを通して現実化する。パフォーマンスもまたイメージによって構造化される。わたしたちはそうしたイメージングとパフォ―マンスとの連鎖の内部に立って、現実が現実であるという事実を享受している――という現実を生きている。

むろん、そうした現実の消息を精緻に記述するというのはまた別の技術なのだが。

しかし彼らはーーいや〝わたしたち〟はそこで作動しているイメージを知っているはずなのだ。それゆえに的確な言語や造形イメージを通して表現(per-form)されていた場合には「その通りだ!」と得心がいくのである。

 では、以下、わたしが適当だと思われた表現から、男女について考えてみよう。 

竹宮恵子の男と女、そして夢見

男女の別として図式的に理解するのに示唆的であると思われるもののひとつに、竹宮恵子の手による『ウィーン幻想』*1という本に収録されている文章がある。

ウィーン幻想 (1979年)

そこでは次のように書かれている。
少女が持つ内的世界<インナーワールド>を夢園とでも呼ぶなら少年の持つ世界は、まさに内的宇宙<インナースペース>である。少女が夢園の花々をゆったりと育てる光なら少年は宇宙にこぎ出す一そうの船。身近な空間と無限の宇宙。女性は産むことによって、大地のような連なりを持つもの。比べて男性は本質的に翔ぼうとするものなのであろう。鳥の雌が雛を育て、雄は飛び立って行くように。沢田研二の歌ではないが〝おまえと暮らすのが幸せだろうが、男にはできないのだよ〟なのだ。男性には生まれ落ちた時から一代限りの孤独があり、それゆえ、望みに賭けて、すべてをふりすてることができる。自分の一生を燃焼しつくすことこそ本質なのである。男性になりきらぬ前の少年は、まるでそのエネルギーだけで、できているように見える。〝少年〟が、そういう夢や希望、そして失意の化身であるかのように。
[……]
現実にはない高みをもとめて、夢を賭け、それを実現しようとする。そして夢の実現に向かって飛翔する姿が、〝少年〟そのものだ、と言っても過言ではない、と思う。
(竹宮恵子「少年の光と影」『ウィーン幻想』白泉社,1979,p191-192)
つまり少女は夢園であり、少年はそこに留まっているばかりではなく飛翔するものであり、その飛翔こそが少年が少年であることの本質である。
 
竹宮の言い方には、「夢見 Dreaming」という点で少年少女とも共通している。
〈夢見〉とは何か。それは竹宮の同作品の言い方のうちに別の表現を探せば、「幻想」なのだろう。
要は、この現実とは別の位相に幻想が立ち現れる〈場〉があるのだ。それはある種耽美な、少年少女のイメージの匂いを醸す空間である――とでもいうべきものだろうか。

しかし差し当たっては、わたしたちにとって重要なのは男女のイメージの境界にまつわる〈場〉なので、少年少女のイメージを男女の方へと引き直す。

それが男にはできないのだよ


竹宮は沢田研二の「サムライ」*2という楽曲の歌詞を参照している。その歌詞がわたしたちの思考の進み行きにとって含蓄があるので、参照したい。
片手にピストル 心に花束
唇に火の酒 背中に人生を
アアア アアア
 
ありがとう ジェニー お前はいい女だった
はんぱなワインより酔わせてくれたよ
だけど ジェニー あばよ ジェニー
俺は行かなくちゃいけないんだよ
 
寝顔にキスでもしてあげたいけど
そしたら一日 旅立ちが延びるだろう
 
男は誰でも 不幸なサムライ
花園で眠れぬこともあるんだよ
(サムライ 沢田研二 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索より、冒頭のサビから一番のサビ手前までの歌詞を引用。太字の個所は筆者による表記。)

歌詞には「〽それが男にはできないのだよ」とある。これはストーリーとしてはある男とジェニーという女との関係で、おそらくは彼女の方は一緒に落ち着いて暮らしたいのだが……という運び。そうした関係のなかで、男はしかしその安らぎのなかに身を落ち着かせることはできない、というモチーフだ。
竹宮から立場から見れば、沢田の楽曲の歌詞の主人公には、男の飛翔への志向があるのだ、と見て取ることができる。

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超越と内在――失楽園を通して

沢田から見る男のイメージを「飛翔の夢見 dreaming in transcendence」として見立てることができるとすれば、そこで男に相対する女のイメージも浮かびあがる。それはやはり竹宮の少女のイメージを貸りて、「夢園の夢見 dreaming in paradice=immanence」と名付けられるだろう。女はつまり、情緒的な空間への定住を望んでいるのだ。しかし男は目的的な時間を生きようとする。そこに相違が生じる。

「夢園」という言葉から、神話的なイメージを喚起することは不可能ではない。それというのはアダムとイヴのことである。聖書的世界においてそれは人間の起源とされ、楽園にいられたところをヘビに扮したサタンにたぶらかされた、男の肋骨製の女が罪の実をもじい、男と共に食らい、神を裏切り、それが原罪となった。

――このように見ると、楽園は竹宮がいう夢園にアナロジカルに対応させることができる。男の飛翔にしても、神への崇敬を充てればいい。女はあくまで楽園を大地として、その大地に属するものとしてサタンもヘビも罪の実も認識しているとすれば、そこには天空に属するものとしての神への配慮、つまり超越への指向性はうかがえない。

楽園の男と女は、互いの欲望の種類が違っている、女は罪の実を大地に属するものだと捉えたがゆえにやはり内在志向的である。それに対して男の方は楽園の例外として罪の実を認識している。なにせ神から「その実は食べてはならない」と告げられたのは男だからだ。女は〝神に言われてはいない〟。禁止の後で、女は創造されたのだから。つまり、神の言葉を神聖なものとして作用させる象徴化が十分に施されていないのである。象徴化が不十分である場合、言葉が言葉として機能しない。言葉が象徴的に機能する場合に、ひとは禁止を言われれば、その言葉を守るのである。

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男において神の言葉が象徴的に機能しえていたということは、占星術が人間と星座を結びつけるような〝高みとの関係〟に開かれているということである。その高みへと飛翔するのが、男なのだ。そしてそういった
男の飛翔は、それに対置できる女の在り方を構想させてくれる。すなわち、女は、竹宮が述べているところの「大地のような連なり」を本質とする、というわけである。
〝連なり〟には切断と飛躍がない。これは目の前の物が目の前の物でしかないということである。「ここが夢園ならば、ここが夢園なのだ。」――これが竹宮の描く女なのである。
男の場合は「ここが夢園ならば、ここに夢園はない。」となる。ケネス・バークが「否定形こそ人間の行動に力とエネルギーを与える源泉である」*3というロゴロジーの立場を取るとき、竹宮的な男の概念と重なるのではないだろうか。象徴性というのはまさに否定形が機能するということなのだから。象徴が機能している。そのことからして、男は現実に対して、超越的なのだ。


つまり、一方には男の超越志向的性質があって、他方には
女の内在志向的性質があるのである。


男の不安とは何か――ハイデガーを経由して

 以上を背に翼として受ければ、沢田が歌う〝男の、女と共にあることの安らぎのなかで感じる不安〟を考えると、それは単純に男の責任能力の不全なのではなく、男が「今が永遠に続いてくれればいいのに」という感覚を現に享受しているというそのこと自体が不安なのだと繋げられる。

不安と言えば、哲学者のハイデガーは不安に関して多くを語っている。彼は「現存在」という言い方を用いて人間を表現する。

現存在とは何か。文字として切り分けて考えてみる。

「現ー存ー在」

1949年に発売された『實存と虛無の頽廢』*4という当時の名高い日本の哲学者の対談本のなかで、たしか和辻哲郎の発言だったと思うが、「存+在」というのは「時間的な有+空間的な有」であると述べていて、「存在」が時間と場所における限局化をこうむっている事実を表現するものだと理解できる。

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〝現〟というのは世界( world )のなかで、世界全体( wholeness )を与えられているのではなく、一定の領域( area )を与えられて〝しまっていること〟として理解できる。そこでは世界全体の無限性に比して有限的な状況に取り囲まれていて、その取り囲まれの内部にて/から自己の可能性へと接続できるという事態を呈している。それが「現に」ということの意味である。先述の和辻の「存+在」のひそみに倣えば、〝現〟は「実際的な有」と言い表すことができるだろう。
つまり、「現ー存ー在」は「実にー今ー此処に」と言い換えられる。

仮に「世界」を無限とし、「領域」を有限とする。人間は領域にいながら、世界のなかにいるということを自覚できる。このことは人間が有限と無限の〈あいだ〉に立っていることを語る。すなわち世界を想定しつつ領域を生きること。言い換えれば、無限を参照しながら有限の行為をするということだ。それは生きていながら死を想う人間の姿でもある。そこに不安は生じる。ハイデガーは現存在である人間の根本感情=本源的である気分を不安だとした。恐怖は対象を持つが、不安は対象を持たない。対象なき不安を通して人間に開示されるのが、やはりハイデガーが述べているところの「被投性」なのである。
「被投性」は人間が、「実にー今ー此処に」という現存在の態でいることのうちにある居心地の悪さのことだ。居心地の悪さが告げるのは、自己を取り囲んでいるものたちを受けて湧出してくる、そこに〝投げ込まれてる感〟なのだ。この〝投げ込まれてる感〟を自覚し、その事実を引き受けることが、ハイデガーが描く人間像にとって重要なのである。
あるいは、このように言えるだろう。
「被投性」を感得する人間は「世界=無限」に触れているからこそ、「領域=有限」にイラつくのだ、と。そのイラつきが〝投げ込まれてる感〟として立ち上がり、対象なき不安へと結実するのである。

より卑近な譬えをすれば、「自分はスゴい人間なんだ」となんら実績もなく威張り散らしている青年がいるとしよう。学生である。彼は他人に厳しく、自分に甘い。しかし彼もついに社会に出る時期を迎え、就活をするもうまくいかず、なんら関心のない業界にどうにか身を落ち着けることができた。しぶしぶ就いた仕事で、彼は思う。「自分はこんなとこでくすぶっているような人間じゃないんだ。」いつまでも
理想と現実とのギャップは解消されず。彼はいじけるばかり。――この譬えで言えば、青年は自分には卓越したポテンシャル(世界=無限)があると信じている。他方では、彼もまた一定の〈場〉を占有させられるという、現存在であるがゆえの被投性に晒されている。理想と現実は一致せず、イラつく。そして彼はおそらく、ある気分のなかで考えはじめるのだ。「自分はこのままでいいのだろうか」「どこかで手違いがあったのではないだろうか」。それこそが不安なのである。

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沢田の歌の場面へと目を向ければ、そこには竹宮が構想したような〝男〟がいるわけである。彼はジェニーといる。しかし男には竹宮的な見地から「飛翔の夢見」が起こる。ハイデガーの線から読み解けば、「本質的に翔ぼうとする」男は、現に翔ばずにいる自己を肯定することができない。自分自身が彼女との暮らしを望んでいるにも拘らず、不安に陥る。ジェニーと一緒にいることは不安の対象ではない。対象なき不安。それはいったい何によってもたらされているのか。

ところで、「私がある」と「私である」とは違う。ハイデガーは前者を「事実存在」とし、後者を「本質存在」とまとめた。さらにサルトルハイデガーのまとめた図式を「実存」と「本質」として整え、かの有名な「実存は本質に先行する」の発言を行った。*5サルトルの見地だと本質は空虚であるからこそ、自らが行動した事実を積んでいくこと(実存)によって、空洞になっている本質を埋めていくことが賭けられているのだった。しかしわたしたちは本稿で本質を前提にしている。なのでサルトルではなく、ハイデガーへと戻る必要がある。

ハイデガーが唱える現存在としての人間の不安というのは、「本質存在の性質が強まった結果、事実存在であることが抑圧される」ことによってもたらされる。そのことを踏まえて、沢田の歌での男とジェニーとの関係へと目を向けよう。男の本質は「本質的に翔ぼうとする」ことである。ジェニーとの暮らしのなかだと、その実現に向かわない。ジェニーとの暮らしは事実としてある。それに対して、男は自らが男であるというその本質において飛翔することを夢見る。不安は解消されることが期される。ゆえに男はジェニーから離れることを選ぶのである。

そして〝男の、女と共にあることの安らぎのなかで感じる不安〟は次のようにまとめられるだろう。
男は、女との愛の重さに自分が責任が取れないから離れるのではなく、互いが愛し愛されているということの、繭の如き安心が重く自身を押さえつけてくる、その安らぎの重みが怖ろしいのである、と。

以上が、「竹宮‐沢田」の構図から読み取れる男女のカテゴリーだ。


個々の幻想は、現実で合流する

もちろん、ここまでで書いてきたところは男女の優劣ではないし、実際の男女を以上に描いたカテゴリーに収めようというものでもない。ただ、男女のカテゴリーは現実において、重層的に働いていることは疑えない。
事実として。世阿弥が『風姿花伝』で勝負事の流れの勢いの所在がこちら側にあるか、あちら側にあるかということを「男時/女時」と表現していることを、世阿弥の男尊女尊の意識を反映するものだとは、ふつう思われない。あるいはフランス語に男性名詞と女性名詞があることを、男女差別が潜在しているとは、ふつう思われない。それらのカテゴリーは常に既に現に、気がついたらそうなっていたものとしての、わたしたちの現実を現実だと
感覚するための作動形式なのだ。「リアリティのデータベース」だと言ってもいいだろう。わたしたちはそのデータベースを可用的に参照し、たとえば世阿弥のように概念を制作したりするし、フランス語を話したりする。

「リアリティのデータベース」は、ひとが呼吸するのに大気を用いるようなもので、自然にわたしたちの意識へと陸続している。それは乗り物ではない。乗り物と乗り物は衝突するが、呼気と呼気は衝突しない。そしてリアリティは確立されている。その確立と共に生じ、それ自身を支えることになるのが、諸カテゴリーなのである。

ざっと、大雑把に素描してきた男女のイメージであるが、とはいえそのどちらもが〈夢見〉を基礎にしている点で同じだ。夢は竹宮が「幻想」と表現しているように、ファンタジックである。
ファンタジックではあるが、楽園=夢園という〈夢見の場〉で、男女が互いに幻想を抱きながら、同じ幻想ではあるもののそこが幻想であることの同じ位相では際会しえない。竹宮の認識が開く〈夢見の場〉では互いにすれ違うことしかできないのだ。おそらく、結局、互いに落ち着くのは現実の位相となるのだ。個々で持つ幻想は、現実で合流する。現実は、前述のようにイメージとそれに基づいてなされるパフォーマンスの連鎖というイメージにおいて、イメージングできるのだから。

わたしもまた、ひとつの呼気を漏らした。あなたはそれに乗車しないでもらいたい。それを乗り物だと見做さないでほしい。ただ、あなたの呼気をついてもらいたい。

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_了

  

*1:竹宮恵子『ウィーン幻想』白泉社,1979

*2:サムライ (沢田研二の曲) - Wikipedia

*3:ケネス・バーク『動機の文法』森常治訳,晶文社,1982

*4:高坂正顯,西谷啓治,務臺理作,和辻哲郎『實存と虛無の頽廢』弘文堂,1949

*5:実存は本質に先立つ - Wikipedia