can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【キャラは誰を相手に話しているのか】想像力と声の演技

あるゲームのキャラソンを聴いて、そこで声優がキャラになりきってセリフを言うくだりがありました。わたしはそれを聴いて違和感を覚えたのです。その違和感について書きます。
キーワード:カント、想像力、ニーチェ、深淵、ガラス 

 

 キャラソンとは何か

 キャラソンとは何か。それはアニメやゲームなどのキャラありきの、そのキャラが歌っている態での声優の歌のことです。

聴き手として想定されているのは別のキャラに対してだったり、もしくは独白風のもの、あざといものではファンに直接語り掛ける態の歌などがあります。

そうしたキャラソンにおいて、間奏部分などにキャラのセリフが入ることがあります。聴き手に語り掛けるふうに発声されるそれに、わたしは違和感を覚えたのです。

 

キャラソンの構成上、キャラの語りは聴き手に向けて発せられることになります。なのでわたしがキャラソンを聴いているときに聴く、語り掛けてくる当のキャラの声は、当然聴き手であるわたしに向けて発せられたものであるとことになります。

しかし、わたしはあるキャラソンのなかのセリフを聴いて、その声を「聴き手に向けて発せられたもの」だとわかっていながら、「聴き手としてのわたしに向けて発せられたもの」ではないと感じたのです。

 

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ギャルゲーでさえも

 わたしは、いわゆるアキバ系のオタクカルチャーが好きです。一時期は〝今期のアニメ〟として放送されている殆どを視聴していて、観ていない作品は指折り数える程度という有り様でした。

至極当然のこととして、美少女キャラと恋愛をする、いわゆるギャルゲーというものにも嵌まっていました。

ギャルゲーは主人公のアイコンに、プレイヤーが感情移入かつ自己投入をして、「主人公/プレイヤー」へと発せられる懸想する美少女キャラ一言一句に身悶えるものです。

 

既述した、「聴き手に向けて発せられたもの」だとわかっていながら、「聴き手としてのわたしに向けて発せられたもの」ではないと感じる体験は、ギャルゲーの構成上、やはり存在していたように思われます。

たとえばゲーム進行中にBGMを停止してみて声優のアフレコした声を聴いてみれば、わかるかと思います。

 

しかし、オタクとしてのわたしには、そうした違和感よりもキャラとの恋愛のほうが意識を占めていたので、そのときには感得せられなかったのだと思われます(苦笑)。 

現場の声から――梶裕貴の声

 では、現在キャラソンを聴く際に感じる件の違和感は何によって起こるのか。

声をアフレコする当の声優の立場でもそのような違和感を催させる声を問題視しているようです。

現職の声優である梶裕貴*1の証言を確認してみましょう。

最近、難しいのが、声優の仕事の多くをゲーム作品が占めてきたことです。ゲームの収録の場合、セリフの掛け合いではなく、ひとりで淡々とキャラクターの声をあてるというやり方で進めます。そういう現場に慣れてしまうと、アニメのアフレコのように大勢の役者の中で相手の出方を受けてどう演じるかや、監督の希望にどう答えるか、などのキャッチボールができなくなってしまう。実際に、そういう役者が増えてきたな、という印象です。
(梶裕貴『いつかすべてが君の力になる』河出書房新社,2018,p159-160)

梶が言う〝キャッチボール〟は、投げる方の思いと受け手の理解が相互関係的に成立しているような形でのコミニケーションの成立のことと言えましょう。

梶が挙げているゲームのアフレコ収録の話で言えば、アニメだと演技が他の声優と共に同じ現場を共有していることで、自分が向かい合い演じるキャラと他の声優が向かい合って演じるキャラとが孤立しません。同じ〈場〉を共有することで、声優同士の居合わせが、キャラ同士の情緒的なシンクロを醸すことになる、とでも言いましょうか。

あるいは、アニメの現場ではダイアローグ的でありえても、ゲームの現場ではモノローグ的になりがちである――それが梶の印象が告げるところでしょう。

いずれせよ、アニメのアフレコ現場では起こりうるシンクロが、〝ひとりで淡々と〟式のゲームのアフレコ収録だと難しいのは確かです。

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梶の「想像力」

 コミュニケーションがコミュニケーションであるためにはモノローグ調であってはいけません。独り言とはいえまったく相手を想定していないとも言えない向きもありますが。とはいえ、ひと と ひととが互いに相互反映的であるような交流を通じて「場の雰囲気」が生じるのは本当でしょう。その〈場〉に参与しながら対面する相手へと発する声、それが対話的な声のキャッチボールの成立と展開になります。

 つまり、コミュニケーション=キャッチボールをするにも〈場〉が必要なのですね。

 

〈場〉を踏まえた対話ができれば対話相手が立ち上がります。声優に必要な主だった能力に、梶は「想像力」を挙げます。

人間には想像力があります。自分の経験を糧に、そこからどれだけ想像の幅を広げられるか。それこそが声優としてのセンス、そして力量を問われる部分なのではないでしょうか。
芝居のセオリーやテクニックといったものは、あとからいくらでも身に付けることができるはずです。
声優として一番大事なのは、〝想像力〟だと僕は思っています。
(梶,p104-105)

 想像力――それは存在しないものを存在させる能力のことです。言い換えれば、〝ないもの〟を〝あるもの〟にしてしまう、ヤバい能力が、想像力なのです。 

少し、想像力についての理解を深めるために、哲学者カントの知見を参照します。

カントの「想像力」

 イマニュエル・カントは、哲学史上において主に「正しい知識とは何か」を問う「認識論」に関する仕事が有名です。カント以前の〝知識の正しさ〟は自然界にある属するものだと考えられていました。ガリレオが述べたように「宇宙は数学という言語で書かれている」*2のであり、人間はそれを自然の言語としての数学によって読み解く作業をし、〝正しさ〟を発見していくとされていました。しかしカントはそれを逆転させます。つまり〝知識の正しさ〟は〝正しさ〟を認識する主観の側に属するのだと喝破したのです。この観点からは、対象は認識主観が構成するものになるのです。俗に、この認識の逆転を「コペルニクス的転回」と言います。

 

カントは認識主観には普遍的な形式があるとして、いわゆる「わかりみ」をもたらすものとしての「純粋悟性概念」を想定しました。純粋悟性概念を持つ認識主観には図式(カテゴリー)があり、「こういうことをするとこういうふうになる」という了解可能性*3をなします。そうした図式を通してわたしたちは物事に対して「わかりみ」を得ることができるのです。

さらに深掘りしますと、物事を受け取る際には感性が受容し、概念図式を張っている悟性が感性からのデータを自発的なかたちで解釈することになる。そこで感性と悟性とのあいだをつなぐのが想像力になるのです

 

以上のカントの認識論を押さえたうえで、梶の声優にとって大切な能力としての想像力にも目配せしつつ、話をわたしの違和感に戻します。 

声の持ち主を表現するということ

わたしがキャラソンのセリフに感じた違和感は、つまるところ「セリフの宛先としての相手が見えない」という点にあります。

 

聴き手としてのわたしは、「キャラ=声優」の声を聴いても、自分がそのキャラに言われている感覚を持てない場合があったわけです。*4

 

梶は想像力を唱えました。キャラに魂を込める作業として声入れを了解するとして、その声にいったい何が込められるのかと言えば、ひとえに感情だということになるでしょう。もしくは「得も言われなさ」としての〈エモさ〉だ、と。想像力はそれらに迫真性という血を通わせるための筋肉であるというわけです。

つまり声の持ち主に擬態すること、声の風格を制作すること、声の経歴を仮構すること。しかも、言葉を通してではあれど、言葉のなかでではなく言外において。

ニーチェの「深淵」

声優の仕事が声を通して、他者であるキャラに生命を与えることに頷くとして、声優の想像力は、たんにそのキャラになりきることのみに向かうのではいけないのではないでしょうか。

 

カントの想像力を思い出しましょう。カントの認識論で言えば、認識主観は想像力を通して感性データを悟性の張る概念図式に引っ掛けます。想像力の働きは感じたものと概念とを結びつけるのでした。

想像力という名のデータと概念とを結ぶひもを震わせられたらどうでしょうか。ないものをあらしめる想像力。ないはずのキャラの声をあるようにする魔術的な演技をするより前、そのときに〝なかったもの〟は単に「キャラそのひとの声」だけではなく、キャラと対面するわたしたち「他者としての鑑賞者」でもあったはずです。

 

たとえば暗闇を見つめるとき、わたしたちは暗闇を見てはいますが、暗闇から見られている自分をイメージできません。なぜなら自分を見つめている暗闇の認識主観、こう言ってよければ〝キャラ〟を想定できないからです。

逆から言えば、暗闇の比喩が適用できてしまうようなアフレコされたキャラでは、声はあてられていても、声を聞くひとが依然として〝ないもの〟になったままになっているのです。

 

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ニーチェは「暗闇」とは言いませんが、「深淵」という言い方で次のような文を書いています。

怪物とたたかう者は、みずからも怪物とならぬようにこころせよ。なんじが久しく深淵を見入るとき、深淵もまたなんじを見入るのである。
(F・W・ニーチェ善悪の彼岸竹山道雄訳,新潮社,1954,p112)

ニーチェの言い方では「深淵」はたしかにこちらを見つめ返します。敢えて「暗闇」を対比的に用いるとして、暗闇ではその見つめ返してくる視線がわかりませんでした。しかし深淵の場合は怪物と向かい合うことで生じる裂け目のように立ち現われる関係性としてあり、暗闇のような不可視なものではなく、むしろ露呈された奈落なのです。それゆえにそこを覗くことで魅入られるようなキャラ性が、深淵には生じます。

ガラスと想像力――〈場〉の開示

 単純化すれば、暗闇はマジックミラーのように見るものと見られるものとが非対称的なのであって、深淵ではガラスのように見るものと見られるものとが対称的に見、そして見られるのです。マジックミラーでは暗闇のほうからの視線は成立しえても、暗闇を覗くものには暗闇の向こうを見ることはできません。他方でガラスの場合では、深淵の側の視線はそこを覗くものの視線と共にあり、そのうえでニーチェの言葉を適用させれば、深淵を覗くことで深淵を覗いている自分もまたその深淵にうつっているのです。あたかもデートの待ち合わせ場所である喫茶店に着き、ガラスを見て前髪を直すとき、そのガラスの奥の恋人と目を合わせてしまうようにして。

 

カントと、そしてニーチェを参照して、梶が言う「想像力」を補強しますと、声優の演技が目指すところはガラス的でなくてはいけないのです。ガラス的であるというのは、ガラスの向こうのキャラへと声を吹き込み、実在感を与えると同時に、当のガラスを通して、鑑賞者が、キャラの主観から発せられる声の臨場感に乗せられることが叶う演技こそ、声の演技の理想なのではないでしょうか。

この場合、ガラスというのは声優の「声」のことです。そして「想像力」は演者として持つ演技の引き出しと人間として持つ概念との結びつきをブリコラージュするセンスということになるでしょう。クリエイティブなセンスは、有り合わせのもので饒舌なサンプリングを施すことを可能にします。

 

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そして、そして何より、声は〈場〉を開示する力があります。その〈場〉を空洞にしておくことが声のもっとも深遠な働きを可能にすることではないか。力のない空虚な声ではなく、何かメッセージを込めようと力みの入った声でもなく。それはやはりガラスのように透明なのです。透明であるがゆえに、ガラスは反射もし、光を透かしつつ鑑賞者の姿をもうつすのです。そうした透かし・うつしが同時に起こる〈場〉での居合わせが、感性と悟性とをつなぐ琴線としての想像力を震わせえた結果もたらされる違和感のなさなのではないでしょうか。――想像力は、このような詩的イメージを実践へと適用させうる能力であることを示唆し、この示唆を以てこれ以上の言及は大変であると、わたしは判断し、ひとまず打ち止めることにします。

 

――以上、キャラソンなり、ギャルゲーなり、キャラの声を聴いている鑑賞者が、正当にキャラの相手として図式的に立てられていたい――そんな発声を、わたしは声優業の御旗の端に、書きつけてみようと思った次第です。

_了

*1:梶裕貴 - Wikipedia

*2:ガリレオ『宇宙は数学という言語で書かれている。そしてその文字は三角形であり、円であり、その他の幾何学図形である。これがなかったら、 宇宙の言葉は人間にはひとことも理解できない。これがなかったら、人は暗い迷路をたださまようばかりである。』|インクワイアリー

*3:了解可能性。了解( Verstand )は語源的に悟性( Verstehen )と同じ意味を持っています。他人の動機や行動原理を共感的に理解し、その意味を洞察すること。了解可能性と言うときは、そうした了解が可能であるという事態を指します。参照は誠信心理学辞典の「了解心理学」の項。

*4:声優職の名誉のために補足しておきますと、すべてのキャラソンにおいて「セリフの宛先としての相手が見えない」わけではありません。しかし、わたしが感じた「自分に言ってくれていない感じ」が、はたして演者の側の問題なのか、それともモノローグ的でしかありえないようなキャラソンの構成上の問題なのかは悩みの種として残しておきたいところに思います。