図書『いつかすべてが君の力になる』:本番のために練習があるのではなく、練習のために本番がある
声優の梶裕貴の本を読んで、思いがけず含蓄のある言葉を見つけました。【勉強や練習】と【試験や本番】とがあり、前者は後者のためになされるという認識が通例です。しかしそれはむしろ逆なのではないか。結局のところ【勉強や練習】の〈場〉こそが大元なのではないか。――そういったことをまとめてみました。
キーワード:手段と目的、練習と本番、勉強と試験、普段、ハビトゥス、イベント
はじめに
声優の梶裕貴が修業時代に講師から言われた言葉がいい。とてもいい。
「レッスンの3時間はあくまで発表をする場であってトレーニングじゃない。この時間を除いた、それ以外の1週間こそがレッスンなんだよ」
(梶裕貴『いつかすべてが君の力になる』河出書房新社,2018,p60)
今回は以上の言葉をより深く納得するための文章を書いてみようと思います。
手段は目的のために
ぼくたちはある目標を設定して、その目標を達成するために練習なり勉強なりをすることがあります。
学生時代の試験前期間において徹夜で詰め込み勉強!――なんてことをしたひともいるのではないでしょうか。
練習は本番のために。
勉強は試験のために。
要するに、手段は目的のために――というわけですね。
こうした認識は広く共有されていることでしょう。なにせ、だからこそ中高生には試験前に「試験前期間」なんてものがあるわけですし。喫茶店や図書館に試験勉強をする生徒たちの姿が見つかるのも周知の通り。
ですが、多くの場合、そのような〝お勉強〟はユーウツなものであるということも共通認識としてうなずけることでしょう。
なので、すでに試験を終えた人々はこんなことを言ってきます――「普段からやっておけばいいのに」。とは言いつつ、必ずしも彼らが〝普段からやっていた〟人間であったとは……思えませんよね(笑)
小学生の頃を想定するとして、当時学校に通っていたときのことを思い出せば、「好きで授業を受けているわけじゃない」というイジけた態度の子どもがいたかと思います。
もしくは勉強はできたとしても勉強を〝させられている〟感覚を感じていた子は、きっと少なくないでしょう。
受身の姿勢で学ぶ習慣ができてしまって、自分の進路に係わる将来の選択を迫られる中高生の頃でさえ、勉強などへ〝押し付けられていること〟に対する受身の姿勢が続く。すると当然〝普段からやっておく〟なんてことはしません。それは受身の姿勢とは真逆の自発的な姿勢なのですから。
本番のために練習があるのではなく、練習のために本番がある
少年時代の梶裕貴にも、そうした受身になってしまっていた気配がありました。
幼少期から「夢中になっていることを第一に考える」ことが信条としていた彼。声優になりたいという想いからレッスンに通っていたのに、半年ほど続けたときにレッスン内容に対して「このレッスンは、本当に自分のためになっているのかな」と感じてしまいます。彼自身の告白では、「どこか受身な部分」があったのだと回想していて、「気が付けば、レッスンを受けていれば自動的に声優になれるのだと」思ってしまっていたのだと言います。
そんなときに梶が講師に言われたのが冒頭に引いた言葉でした。
再び引用しましょう。
「レッスンの3時間はあくまで発表をする場であってトレーニングじゃない。この時間を除いた、それ以外の1週間こそがレッスンなんだよ」
(同上)
当時、梶は週1回3時間のレッスンを受けていました。
講師が言ったのは、その3時間が発表の場、つまり本番なのであって、それ以外の時間――つまり〝普段〟ですね――が3時間のレッスンという本番に向けた練習の時間なのだと言う認識なのです。
これはある種の〝コペルニクス的転回〟と評してもいいでしょう。
声優になりたい梶にとっての本番が、声優として仕事をもらえるためのオーディションに受かることだったとすれば、当時養成所でレッスンを受けていたのはせいぜい練習であるに過ぎなかった。
なので、受身の姿勢で学ぶことに慣れていたティーンのひとりだった梶もまた、本番であるオーディションと練習でしかないレッスンという認識から、普段の練習、いや〈練習としての普段〉の価値を低く見積もっていたのでしょう。
ところが講師の言葉では認識は次のようにひっくり返るわけです。すなわち、本番のために練習があるのではなく、練習のために本番がある――と。
ハビトゥス
ところで、P・ブルデューという社会学者がいます。彼の用語に「ハビトゥス」という言葉があります。ぼくたちは勉強をついついやらないでいてしまう「普段」について考えるのに、そのハビトゥスの概念を参照することにします。
ハビトゥスは人間の普段の慣習的に行ってしまっている行動を説明します。わたしたちは本人の自覚とは関係なく、ひととひととで構成される社会関係のなかの階層のどこかに属している。階層に属していることによって、ぼくたちの〝普段の行動〟のパターン傾向はある程度決まっているのです。その点で言えば、ハビトゥスは顕在化する〈普段〉に対して潜在している、行動を産出するシステムであるというわけです。
お勉強をユーウツだと感じる感受性を持つティーンの想いにハビトゥスの概念をかざしてみます。すると、彼には「好きで授業を受けているわけじゃない」と感じ〝させられてきた〟思い出がある。その思い出が現在に影響を及ぼしていて、現在の受身の姿勢に結実していることがわかるのです。
つまり、普段の行動の背景にはそれを構造化するシステムとしてのハビトゥスがある、というわけですね。
イベントと普段
さて。
大人になっても、本番や試験はあります。
練習は本番のために、勉強は試験のために。
言い換えれば、イベントのために準備をする。その準備がなされるのが〈普段〉においてということになるのでしょう。
ここに梶が講師から教わった認識――本番のために練習があるのではなく、練習のために本番がある――を重ねてみると、こうなります。
- イベントのために〈普段〉があるのではなく、〈普段〉のためにイベントがある。
補足しましょう。
ぼくたちはハビトゥスによって〈普段〉がある程度決まっている。そのなかに本番や試験などのイベントが入り込んでくることがある。それに対して受身的であると、いつもどおりに〈普段〉を過ごすことになってしまう。
梶の例で言いますと、「レッスンを受けていれば自動的に声優になれる」と思っていた〈普段〉の彼がいて、それはまた、ハビトゥスとしての彼の〝声優になる〟という目標への受身な態度として自分自身を実現してしまうことになる。むろんそれでは、声優への道はそれこそ〝運任せ〟になってしまう。
そこでカギになるのがイベントと〈普段〉の関係を見直すことです。
アフターファイブを目掛けて仕事をするOL、週末の休みを目掛けて通勤電車に揺られるサラリーマン。または、好きなアーティストの音楽ライブまでの日数を指折り数えて過ごしているひと。――以上の例は、〈普段〉とは別の時間にイベントを据えて、そのイベントを楽しむことで自身の解放を思い描いています。彼らは現実的な日常の生活を忘却するために、非日常的な余暇を目標にしているのです。
忘却すべき日常はしかし、還帰するべき日常でもあります。どんなに極上の時間を過ごしたとしても、その後に待つのはやはり日常なのです。どんなに情熱的な恋愛も、結ばれてからはただ生活が続くだけであるように。
ぼくたちはイベントと〈普段〉の関係を見直さなければなりません。
普段に向けたイベント
要するに、こういうことなのです。
何かしらのイベントが予定されます。カルチャーセンターでも気になっていた映画を観に行くと決めた日などでもいいでしょう。
そのときに〈普段〉はそのイベントに向けた〈普段〉になることが可能になります。この可能性のなかで、ひとは漫然とその当日を待つことができもする。
しかし他方では予習をすることもできる。カルチャーセンターの講師の著書を読んでおく。観ようとしている映画の監督の作品を視聴してみる。――やり方は様々あるでしょう。
一見、それはイベントに従属した〈普段〉に過ぎないように思われるかもしれません。
けど、ちょっと待ってください。
『イベントに向けた普段』は、その手前に【普段に向けたイベント】の図式を隠しているのです。
つまり、
- 【〈普段〉に向けた『イベント】に向けた〈普段〉』
――なのです。
あるいは
- 〈普段〉→イベント→〈普段〉
――とでも表すことができるでしょう。
『イベントに向けた普段』のレベルではまだ受身なのです。いわば、中高生が試験前だからユーウツになってテスト勉強をするようなものです。それでは本番のために練習があるという認識です。
この難点は、〈普段〉が変性せずに維持されていて、「忘却すべき日常」は「還帰すべき日常」のままであることです。
しかし【普段に向けたイベント】の構図では、イベントの向こうにある「還帰すべき日常」を変性させる指向性があります。元居た〈普段〉が「忘却すべき日常」だったとしても、あるイベントを機に、普段を普段たらしめていたものを変容させるポテンシャルが潜勢しているのです。このレベルで変えられてしまうことになるものは、〈普段〉であり、そしてハビトゥスであると言ってもいいかもしれません。
ハビトゥスの調律
ぼくたちは梶が講師から言われた言葉をパラフレーズして「本番のために練習があるのではなく、練習のために本番がある」と述べました。
イベントとしての本番があり、他方で〈普段〉としての練習がある。コペルニクス的転回で以て基礎に置かれるのは、練習の〈場〉としての〈普段〉です。その〈場〉はイベントの前でも後でも、いわんや最中でさえ、つねにすでに現に潜勢している現実経験の最基層なのですから。
ぼくたちにはまず、〈普段〉が与えられています。その後でハビトゥスがやってきて、絶えず「普段の行動」を調整しているのです。そうして調整された〈普段〉は安定したパターンとして再びハビトゥスへと帰り、ハビトゥスはまたその行動の傾向を〈普段〉としてぼくたちに課すのです。
なので「忘却すべき日常」があるとき、言い換えれば、現実が嫌で仕方ないときには、〈普段〉を変える必要があります。
「自分を変えよう!」とか「なんでも気の持ちようだよ!」などの言葉が語るところですね。
それがムズいことは確かです。
しかし「練習のために本番がある」の見地で言えば、〈普段〉を変えることは不可能ではないように思われます。つまり、ハビトゥスの調律は不可能ではありません。
要するに、本番としてのイベントを据え、〈普段〉の〈場〉において能動的にそれへの勉強や練習に取り組むことによって。――これは実に見慣れた啓発文句であるように読めます。とはいえ真理があることもたしかです。
最後に、もう一度だけ梶が講師から言われた言葉を引きます。
「レッスンの3時間はあくまで発表をする場であってトレーニングじゃない。この時間を除いた、それ以外の1週間こそがレッスンなんだよ」
(同上)
声優になった自分を〈普段〉にするために、声優になれるシステムを現状の〈普段〉によって調律しなければならなかった。ハビトゥスの調律ですね。
〈場〉という表現を用いれば、レッスンをする〈場〉は発表をする〈場〉を目掛けてあり、そして〈場〉を掛け合わせることによって声優の〈場〉を獲得する。
かくして、イベントへの態度如何によっては、それ以後の日常を変容させる効果がある――というわけです。
おわりに
「イベントがある」というとき、ぼくたちは「本来/非本来」の図式をこっそりと意識裡に持ち込んでいはしませんでしょうか。
趣味でも恋人との時間でもいいのですが、それが本来的であって、〈普段〉の生活は非本来的なのだ、という線引きをしてしまっている可能性が。
イベントは良かれ悪しかれ、人生にメリハリをくれます。それは仕事かもしれないし、趣味かもしれません。ただ、イベントのその後に,それでも生活は続くことも本当なのです。
だとすれば生活の現場へと通じるイベントへの姿勢をかたち作ることには大きな意味があるのではないでしょうか。
もしも、あなたがイベントを単に「日常の忘却」として用いているとき、しかしそれは「忘却すべき日常」が変容する可能性を抑圧してはいないかと、そう、考えてみるのもおもしろいでしょう。
本来の自分をどこかに設定すると、それ以外の自分が抑圧されてしまいます。そこで抑圧されているのは概ね次の2点です。
- 自分が自分であることで変えようのないこと(多様性)
- 自分が変わりうるかもしれないという可能性(潜在性)
上の2点――多様性と潜在性とが抑圧されてしまうことは、固着的な現実を生きることになります。「退屈な日常」や「ツラい現実」がそのままで固定されてしまっては、それこそ逃げ場がないでしょう。
〈普段〉の暮らしのなかで、もしあなたがツラい思いをしているのであれば、イベントへの態度(ハビトゥス)を見直してみると、もしかしたら、今よりもう少し楽な現実が見えてくるかもしれません。
_了