SEO対策によって想定された感動主体のフラットさについて
生産性やクリエイティブであることの重要性が説かれています。そこで行き交うメッセージを目にして感じたところがあったので、ざっくりと書いてみました。
キーワード:感動の一元化、合理性
クリエイティブなひとが自らのクリエイティビティの発揮を感じているのはどのような場合なのでしょうか。
仮に、ある独特な合理性を発揮しているときである――としましょう。
意識高い系と言われているひとたち、もしくはその当事者が憧れているひとたちの感覚はひじょーに合理的です。
その合理性はしかし、普通の合理性とは違います。
「普通の合理性」の〝普通〟というのはこの場合、会社勤めのサラリーマンがコンプライアンス意識に準じて仕事をする際の合理性のことではありません。むしろクリエイティブであろうとする彼らは、そのような通勤電車に揺られる合理性を嫌います。
彼らの合理性はとくにカネに対する意識に現われます。彼らにとってカネは数字です。
「普通の合理性」では数字は目的です。しかし「独特な合理性」だと数字はあくまで結果として付いてくるものなのです。
結果としての数字は自分のプロフィールに具体的な情報として書けるものであって、それはそのまま自分の社会的な信頼にも繋がります。
データ分析の基本として挙げられる、数字を分けて比べること。――これはクリエイティブであらんとするひとのスタイルを語ってはいませんでしょうか。
数字を大事にするというのは、分析対象として自分を見るという認識を開いてくれるようです。数字として表現できることはPCDAサイクルのゲームへの参入を意味します。
Plan(計画):これまでの実績やこれから先の予測などを元にして計画をたてる。
Do(実行):計画を実行する。
Check(評価):実行した内容が計画に沿っているかどうかをチェックする。
Act(改善):実行した内容が計画に沿っていない部分を見つけて改善する。
(引用元:PCDAサイクル – Web集客とアクセス解析)
PCDAサイクルのなかに入ってしまえば、あとは数字の変化を気にし、変数記号としての自分自身をチャート図化するかのようにして検討することができるというわけです。いわばExcel感覚です。Excelのメインは表を作ることであり、その表を基にして有用性や収益性を勘案するというところに本分があります。
そこにはマルクス経済学がそうであるような資本の意味などを問う視線はなく、あるのは資本家の「投資したことの成果」を意識したカネの動態観察の目です。
言うなれば、文意重視のWord的なものに対する図式重視のExcel的なもの――でしょうか。
そのような合理性からは、質的なものは捨象される傾向にあります。
わたしが観察するところでは、その傾向は彼らの「ひとを感動させること」において顕著です。
そこから読み取れるのは感動の一元化とでも言いましょうか、個々の感動の質を〝あえて〟フラットなものに還元してしまっているように思われるのです。
感動の質の一元化は、言葉と心情の関係として理解できます。
商品に価値があるように、言葉には意味があります。その構造をひとに投影すると、人間には心情があると見立てられます。
- 商品と価値の関係を決めるのが欲望
- 言葉と意味の関係を決めるのが使用
- 人間と心情の関係を決めるのが感動
以上のように整理してみたとき、クリエイティブなひとが理念としている「感動の一元化」は、とても合理的な態度であるように思われます。
ホリエモンこと堀江貴文は「カネで買えないものはない」というような発言をしたと言います。この点では古典的な成金のイメージと結びつけることはできるでしょう。しかし大事なのはそれに続く言葉です。彼は「カネで買えないものは差別につながる」と続けたのです。ここには〝あえて〟のニュアンスを読むことができます。
堀江が道義的な理由で〝あえて〟の立場を取っているかは重要ではありません。IT時代のビジネスの成功者としての彼が、採用しているマインドセットが「カネで買えないものは差別につながるから、カネで買えないものがあるという考えはよろしくない」というメッセージを発したことが重要なのです。
クリエイティブなひとの合理性にとって、感動はひとえに行動と結果のループに嵌め込まれます。それは速度重視と言ってもいいかもしれません。SNSでのいいね評価とリツイートを賭けたツイートなどがそうですが、そこではメッセージの重みが犠牲になっています。速度を上げるためには重量があってはいけないというわけです。
しかし感動の質を一元化している彼らは、それで構わないのです。
加速させた質でもってクリエイティビティを発揮できるなら、それはそれで良いのです。
堀江は「多動力」掲げました。ひとところで動いているのではなく、行動の数を増やすことが大事だというわけです。
落合陽一は現代クリエイティブであることのひとつのランドマークになっているのもまた示唆的です。彼の多様な経歴を見て、生産性の極致にいるかのように錯覚をしてしまうのもむべなるかな。
つまり、下手に感動の質を問うているうちではクリエイティブな合理性を生きることができないのですね。
「場数を踏む」なんて言い方もあります。
仕事を頼むのに、いくら最高学府を出ていたとて、それだけでその人物の仕事の質は問えません。場数を踏んだ経験のある、実績のある人物に仕事を頼むのは合理的な判断です。
質を問わずに場数を踏んだあとで、稼いだ場数が実績になっている。なので動く必要がある、というわけです。
また、「数うちゃ当たる」とも言いますが、「独特な合理性」の場合では「数うちゃ稼げる」と言えるでしょう。むろん、稼げるものはなにもカネばかりではなく実績ないしは人脈が、というわけですね。ノウハウと言ってもいいでしょう。
要するに、量を稼ぐために数をうつわけですが、一発いっぱつの質にこだわっていては量を稼げないのです。それゆえにGoogle検索順位チェック用のSEOツールを使って、ある程度の質の保証されたメッセージを多数発信する。それが身についてしまえば、数をうてる。――こうしたやり方が採用されるわけです。
それゆえに、クリエイティブである彼らが発信するメッセージは、とてもポピュラーな受け手が想定されているのです。SEO対策やインフルエンサーの広めるノウハウに基づいて想定された、感動する主体である受け手は、こう言ってよければとてもフラットでニュートラルなリテラシーを持っていると言えます。
その主体は教室の隅で本を読む文学少女であり、大卒で働くコンビニのアルバイターでもあり、大手企業勤務のサラリーマンもある。そしてそれらの人物像でもないとも言える。―――そうした抽象的で総体的な主体が想定されているのです。
であるからか、クリエイティブな活動をしている発信者としての彼らが、逆説的に没主体的であるように見えてしまいもするように思われます。
つまりはこうです。
たくさんのPVを稼ぐためのフックを仕掛ける姿勢は、多くのひとの共感を得られるキーワードを仕込む操作を行います。それは共感する受け手を特定の誰かに絞らない(あるいは絞ったとしてもなお)仕掛けになります。すると、それを発した自身も、逆照射的にひどくぼんやりとした主体になってしまうのです。
ひとは表現をすることで自身の有り様を着飾りますから、速度重視の感動を狙ったフックを仕込む場合には、自身の有り様もまた想定された主体の調子を帯びてしまうこともあるのではないでしょうか。
_了