can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【コンプライアンス意識批判】リテラシーからコミュニケーション能力へ

合理性、リテラシーコンプライアンス意識。社会で求められがちなものを並べてみたとき、どうにも堅苦しいのは何故か。そもそもリテラシーはそんなに大事なのか?実はこっそりヤバいものなんじゃないか?――なんて疑いを抱いた末にコンプライアンス精神批判じみたものを書きました。

キーワード:リテラシー、プラグマティスト、コンプライアンス意識、コミュニケーション能力

 

 

合理性・理性・リテラシー

合理性とは何か。
ある信念がもたらす体系的な行動規範に適うこと――たとえば、こういう説明に頷いてみる。
合理的な判断ができているとき、理性的であると言われる。
理性的であるというのはある行動規範に準じているということ。
この点で、合理性も理性もコンプライアンス意識に裏打ちされている。
精神分析的な言い方にすれば、神経症的であるというわけ。
ここで、リテラシーのことも思い浮かべることができる。
リテラシーというのは読み書き能力のことだとされる。
読み書きができるというのは何か。
それはある体系的な言語規範に適った理解と表現ができることだ。
以上に挙がったこと――合理性・理性・リテラシー――はいずれも社会生活のうえで重要な位置を占めることになる。
仮に、以上で挙げた3要素をリテラシーの言葉でまとめてしまうことにしよう。

リテラシーと場リテラシー

リテラシー」でまとめられるというのは、その言葉が合理的であることと、理性的であることとを含んだかたちで機能しえるからだ。
しかも、必ずしも心のなかでは同意していなくても、規範に準じているという外面的な態度によって、その人物が合理的な判断を理性的に取りうるという保証が得られる。
この意味で、リテラシーは読み、そして書くというだけではなく、遵法を理解し、そして表明できるという能力に関わってくることを指摘できる。
以上を受けて、ひとは、リテラシーを持っていると見做されるためには、必ずしも頭で規範をわかっている必要はないことに頷ける。
新人アルバイターが、先輩から業務を教わっても、見よう見まねで案外うまくいくようなものだ。
あるいはもっとざっくりとした例を挙げれば、「どれだけ頭が悪くても、車の免許は取れる」という言い方などがそうだ。
リテラシーは読み書きのことだけではなく、場の振る舞いに関わってくる。
いわゆる空気が読めるかどうかが、社会生活のうえで重要な位置を占めるのも、そうした点から納得がいく。
いや、むしろ場の振る舞いは根本的な問題だろう。
「郷に入っては郷に従え」とも言う。
それぞれの郷で、それぞれに適した振る舞いがある。
仮に、読み書きのリテラシーを「リテラシー」( literal literacy )とし、振る舞いのリテラシーを「リテラシー」( spot literacy )とまとめておく。

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リテラシーのヤバさ

リテラシーというものは結構ヤバイものだ。
なにせ、ある特定の業界で有効なリテラシーを習得してたとき、ひとはその規範を基準として物事を評価するようになる。
つまり、娯楽小説ばかり読むひとが前衛小説を読んだときに、「意味がわからない」「共感できない」と切り捨ててしまうのも、娯楽小説を評価するリテラシーから前衛小説を評価しようとしたために生じた「わからなさ=評価できなさ」に由来するのだ。
これは多く、ひとが他人を評価する態度にも見られる。
自分の仲良くしている人間関係から構築した対人規範に漏れるひとを、「変なひと」や「理解できないひと」などと判断してしまう。
そうした判断をさせるものこそリテラシーなのだ。
これは、教条的な断定や差別的な発言も、そこから導かれる態度だということを示唆する。
リテラシーのヤバさである。 

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合理主義的プラグマティストと非合理的プラグマティス

プラグマティストという言い方がある。
実用的なものにこだわるひとたちのこと、と言われるが、的確には実験精神の言い方から捉えた方が良い。
プラグマティズムは規範的な事柄を真に受けるのではなく、その正しさの基礎づけのためには実際に〝やってみること〟が大事という立場だ。
なので、実用的なものへのこだわりというより、実用的なことかどうか実験してみることへのこだわりと言った方がいいかもしれない。
なぜプラグマティズムの立場にあるひと――プラグマティストのことを挙げたのかというと、リテラシーを基に行動するプラグマティストにも2つの分類があるように思われるからだ。
一方は、「合理主義的プラグマティス」。
合理主義的プラグマティストは、自分の〝やってみる際のやり方〟にこだわりがある。
実験をするのにはこの観点でやってみるのが確実だと信じている。
しかしそれは先述の通り、「ある特定の業界で有効なリテラシー」である場合が多い。
自分の採用しているリテラシーが特殊なものだという自覚もなしに、自分の採用している「理想型=判断基準」を恃んでいる。
ときには、自分のやり方が絶対確実だからと信じて、物事や他人を評価する際に無批判にもそれを対象の側に押し付けることさえする。

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学問において、方法論への批判的視点が要請される根拠である。
もう一方は「非合理的プラグマティス」。
非合理的プラグマティストはイズム(立場)にこだわりがない。
なので〝非合理主義的〟ではないのだ。
こちらは、あるリテラシーで対象が評価できない場合に、別のリテラシーへとハイパーリンクを張ることができる。
方法へのこだわりがないぶん、〝どのような取り組み方で評価できるか〟への実験精神が強い。
経験的に、自分の採用する関心の持ち方如何によって対象が見せてくれる表情が異なっていることを知っているのだ。

「没コンプライアンス意識」と「脱コンプライアンス意識」

ひとは誰しもプラグマティストであると仮定しよう。
プラグマティストは「やってみる精神」である。
プラグマティストは客観的な規範的なものに対して抵抗があるにせよ、そのやってみる精神のうちにも実験方法(方法論)への遵法意識のごときものがある。
いわば客観的規範にではなく、主観的方法へのコンプライアンス意識があるのだ。
客観的規範としての〝いわゆる〟ではなく、主観的方法としての〝いつもの〟――とでも言おうか。
しかしそれはよろしくない。
なにせ、「ある特定の業界で有効なリテラシー」にこだわっていては存在させることができない事物の性質や他人の個性というものがあるからだ。
システムというものは自己を維持するために、いかに既存のシステムでは評価できないものを自身へと取り込んでいけるのかに掛かっている。
人間もまた人格システムを持つ。
哲学の界隈で「他者とは何か」を問う他者論がひとつのジャンルとして確立されているのも、いかにしてシステムの同一性を持続させられるかを問うからだ。
ここまでの話を前提にして、コンプライアンス意識へのリテラシーを説くことにする。
合理主義的プラグマティストはコンプライアンス意識に没している。
つまり、「コンプライアンス意識」なのだ。
対して、非合理的プラグマティストはコンプライアンス意識を脱している。
つまり「コンプライアンス意識」。
遵法精神はもちろん大事だ。
しかし競走馬のように遮眼革のつもりで遵法を遂行するのは如何なものか。
たしかにわたしたちはどの道、銘々のラットレースに準じている。
欲しいものリストはじょじょに増えていき、美味しいものはいつでも食べたい。
レースは走る方角を集中して見据えることが重要だ。
ただ、ときには目移りも、目配せもする必要がある。
それがいわばゆとりなのだ。
魅力のあるひとにはどこか余裕がある。
ゆえに、特定のリテラシーにのみ準じ、没コンプライアンス意識の態を表していてはマズい。
それはイケてない。
だからこそ、様々なリテラシーに触れることを楽しめる脱コンプライアンス意識を構えるのもまた、一興ではないだろうか。

リテラシーからコミュニケーション能力へ

最後に、リテラシーの遮眼革性に関して述べておく。
ある特定のリテラシーを採用していることのネガティブな帰結として、わたしは「コミュ障」を挙げよう。
コミュ障とは発達障害的な、自分の持つある独特なリテラシーへの固執に由来する。
それは融通が利かず、多くの場合、他人とのダイナミック(動的)なコミュニケーションの現場で中折れする。
自分の独自なやり方がインポテンツ(機能不全)に陥るのが、他のリテラシーとの交響が要求されるコミュニケーションの場においてなのだ。
コンプライアンス意識を掲げたわたしたちは、そうした他のリテラシーにさらされる場において他人と交響することが大切だと言おう。
他人と交響すること。
他人との響き合い、交じり合うこと。
なんてことはない、つまりはコミュニケーション能力が大事だと言いたいのだ。

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ひとは誰しも〈自分〉を持つ。
〈自分〉というのはある体系的な言語規範の採用――すなわちリテラシーを有しているということの結果である。
その「自分=リテラシー」を前提にして事物を認識し、他人の個性と向かい合うことができるのだ。
社会生活はある体系的な人格の所持を前提としている。
社会はシステムを有し、個人もまた社会システムを反映したかたちでの人格システムを有す。
既述のように、システムというものは自己を維持するために、いかに既存のシステムでは評価できないものを自身へと取り込んでいけるのかに掛かっている。
つまり、アップデートをすることが大切なのである。
アップデート、それは事物の発見、他人の個性との際会――要するに〝出会い〟と〝交際〟によって得られる〝気づき〟なのだ。
気づいたとき、あなたは自分の持つリテラシーから余所見できている。
言い換えれば、脱コンプライアンス意識を持てている。
――以上が、本稿の成果だ。
_了