can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【トラウマとの格闘】奈落との付き合い【人生を使用する】

人生はうまくいかない。何かが自由をせき止めている。その何かとはトラウマのことだ。そのトラウマを見て見ぬふりはできない。付き合わねばならない。おそらく、わたしたちが何気なく使っている「個性」という言葉も、トラウマとの付き合い方への名状に違いないのだ。トラウマと個性は、人生の現場において相反するものではない。ーーでは、考え込もう。
キーワード:トラウマ、個性、経済性、遵法性、独創性、カネの運用、言葉の適用、人生の使用

 

トラウマという奈落 

生きることは経験を積むことだ。
経験のなかで自分の個性に気づく。
それはときに障害となる。
 
自分の「したいこと」と「できること」のあいだの吊り合いに気を配る。
生きることは他人に晒されることでもある。
経験は他人がかたち作った世間のなかで作られる。
そこにはいろいろな人がいる。
 
日常的な付き合いが生じる場所。
障害はそうしたいろいろな人たちのなかで、不特定多数を想定しあった基準を参照しながらでの特定の数人との関係のなかで構成される。
出会いは偶然に。
そうした生活の場で不意に、トラウマとなる出来事が起こりもする。
 
トラウマ――それは意味を見いだせなかった過去の出来事のこと。その不気味さを図らずも抱えることになったひとを、大いに困惑せしめる経験。

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奈落のように、ぽっかりと経験に開く穴。
 
トラウマは経験を穿ち、結果として個性を跡付ける。
どんな些細な出来事も、人格への深甚な影響力を行使しえる可能性を持っている。
わたしたちは個別の現実を生きている。
現実のなかに個性が収まり、そこにトラウマという名の穴が開いている。
その穴は転落の危険を孕みながらも、わたしたちの欲望の源泉にもなりえる。
その意味で人生を豊かに修飾するテーマ性をも有する。
 
潜在性と言ってもいい。
潜在性というのはその人の現実がただひとつのものであることを保証し、同時にその人の人生がありふれたものであることをも保証する。 
 

個性との格闘としての自己経営

小林秀雄という人が個性との格闘が大事なのだと、語ったことがある。*1
個性との格闘とは、その人の現実の偶有的な性質や偶然的な出来事によって、確然と決まっていってしまいそうに見える現実を、いかにして自分らしく引き受けるのかを問う、自分の自分自身との取っ組み合いのことだ。
 

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運命のようにして立ちはだかる偶有的な性質や偶然的な出来事も、個性。
宿命のようにして立ち向かう自分らしい現実の引き受けを賭けさせるのも、個性。
 
「取っ組み合い」と言ったが、それもまた付き合いのうちだ。
憎まれ口を叩きながら、それでも続く腐れ縁。
個性は今ここが自分以外であった試しではないという事実からして、切れない縁である。
切れない縁をマネージすること。
経営するものとしての自己――自己経営。
そこにはコスト感覚とコンプライアンス意識もあって、ビジネスがそうであるようにそれらは大いに重要な位置づけを受ける。
しかしコスト感覚とコンプライアンス意識は、それだけではよろしくない。
大切なのはクリエイティビティだ。
クリエイティビティを体験できること――クリエイティブ体験。
 
少し言い換えてみる。
ただ、経済的な感覚に基づいたリスク計算ができるだけではなく、ただ、唯々諾々とルールに対するイエスマンになるだけではなく。
経済性と遵法性だけあっても、使う主体が抽象的な〈会社〉や〈社会〉であるような、使われることに特化した隷属人間になってしまうだろう。
それを自分の個性と調停するための鍵が独創性だということになる。
 
個性は上述したように自分の取っ組み合わねばならない相手である。
ひとはそれと格闘しなければならない。
しかしその取っ組み合いは個性を倒すためになされるのではない。
むしろ和解をするためになされる。
夕陽を背景にして河川敷で殴り合う二人が、その後で手を取り合うことが約束されたドラマツルギーのうちにあるように。 
 

カネ・言葉・人生

脇道に逸れるようだが、「経済性/遵法性/独創性」をパラフレーズしてみる。
  • 経済性はカネに象徴される計量可能性を有した価値の次元を示す。
  • 遵法性は言葉に象徴される照応可能性を有した意味の次元を示す。
  • 独創性は人生に象徴される応答可能性を有した主体の次元を示す。
ひとは、何も制限がないところで遊んでも楽しめない。
ルールや障害物があることで、その場の個別性を楽しむことができる。
遊ぶことも楽しむこともルールを疎外するものではない。
むしろ、ルールは遊びや楽しみの基礎にさえ据えられる。
 
抽象的に君臨する〈会社〉および〈社会〉は、差し当たってはルールとして立ち現われてくる。それが要求してくるのはカネの運用言葉の適用だ。
 
しかし、それだけでは、それだけではダメなのだ。
 
そこに主体を立ち上げること。それが賭けられている。
要するに、「自分が自分であること」を充実させなければならないのである。
〈人生〉という言葉は結局のところ、何をしたって、どう生きたって付いて回る墓碑銘なのだ。
〈自由〉がフランス革命よろしく歴史上、人間にとって追及されがちなのも、「あなたはあなたであるのか?」という屈託が、〈人生〉には付き纏うからに他ならない。
「運命の奴隷」という言葉はおそらく、遊ぶことからも楽しむことからも疎外された〈人生〉のことを語るのだ。
つまり、 成員は抽象的に君臨する〈会社〉および〈社会〉に対して応答しなければならない。
応答の仕方は人生の専用ではなく、多用であり異用であり応用なのだ。
特定の生き方――たとえば会社人間的な生き方――だけを自分専用の人生として落ち着かせないこと。
そうではなく、多くの生き方があることを知り、異なる生き方があることを見つけ、それらの多様な生き方へと自分の生き方を応用していく好奇心を持つことが、成員としての〈社会〉のほうからではなく自分としての〈個人〉であることにおいて要求されているのだ。
まとめると、カネは運用、言葉は適用が賭けられているとすれば、わたしたちにとって人生はその使用が問われている――人生の使用――のである。 
 

〝たったひとつだけ〟と〝たくさんあるうちのひとつ〟の二重性 

いわば、自分ルールを持つことなのかもしれない。
それは単純明解であるがゆえに陳腐な言い方でさえある。
しかし自分ルールは複雑なものでさえある。
なにせ、それはまず社会のルールを通過することによって、その過程のなかで自分が自分であることの個性が輪郭付けられることで、後成的に成立するものだからだ。
さながら、ひとが自分はこの家族の一員なのだと感じるためには、ただ戸籍上の操作や同じ家に住んでいるだけでは不足するように。
自分ルールとは、そのままそのひとの人間性に帰結する。
性格であったり、障害であったり。
なかにはトラウマ的な出来事のせいで固着した〝自分らしさ〟もあるだろう。
いずれにせよ、遊べないことは問題だ。
ひとつのルールにひとつの解釈だけが許されているのではないように、ひとつの人生には無数の生き方が潜在している。
〝たったひとつだけ〟であれば遊びがないが、ひとつひとつそれぞれが互いに参照可能で移行可能であるようなハイパーリンクを張り合っているとすれば、そこでのひとつは〝たくさんあるうちのひとつ〟なのであり、遊ぶことも楽しむこともできる。
そして、実のところはそうなっているのだ。
 
ただ、ひとは得てして虫瞰的に視野を狭めてしまいやすく、鳥瞰的になれるという真相からは疎外されてしまっている。
選択肢は、大抵の場合にそれが可視的であること過視的であることとが同時に起こってしまうのである。
それらの事情は日々の〝いつも通り〟を繰り返すことのうちにおいて忘却あるいは埋却されている。

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言い換えれば、人間の現実はそのような繰り返しのなかにおいてしか立ち上がらない。
現実の成立を「ルールの成立したゲーム」として捉えてみれば、ルールはある程度の繰り返しの後で、事後的に把握される。
社会のルールのなかで自分のクセがわかり、その結果、当人の自覚無自覚に関わらず自分のルールが出来上がってくる。
社会のルールで遊ぶにしても、自分のルールで遊ぶにしても、いずれにしても、現実は繰り返されたことの後で地ならしされた轍のうえに窺えるゲーム盤を使用することとなる。
独創性は、ひとがその現実で遊べることに掛かってくる。
遊べているとき、ひとはコスト感覚(経済性)もコンプライアンス意識(遵法性)も念頭には及ばない。
夢中であることで、あらゆるルールから、そして繰り返しの現実から――解放される。
屈託のない瞬間の連続が、そこにはある。
その点から、人生に対して楽しむことを賭け金にした場合には、職人であるか遊び人であるかの二択こそが最重要であると言える。あるいは、その二重性こそが秘鑰だ、と。 
 

自らをエンジョイするために、奈落と付き合う 

現実はときに生きづらい。もしくは多くの場合。「いや絶えず、そうある」と答えることさえもその回答者を既知外にはしない。
トラウマは相変わらず奈落として構えている。
わたしたちは、トラウマをいつだって与えられてしまっていた者の地位に自らを置こうとする。
つまり、奈落に対して、受身的な身分に自分を置こうとする。
そうした地位に自らを固定させられてしまっているという現実は痛く、辛いものになる。
どうしようもなさが支配する、途方に暮れた、倦怠の黄昏。
寄る辺なさが醸すあきらめの風情。
 
格闘。
 
葛藤。
 
焦燥。
 
しかしそこに勝敗はない。
ただ、付き合いだけがある。
 
付き合いはコミュニケーションだ。
自他間対話のダイアローグもあれば、自己内対話のモノローグもある。
その付き合いのなかにおいて感得される己れとの、くりかえされる出会い直し、くりかえされる問い返し。
 

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個性との格闘は、見えないものを見ようとする努力である。
奈落としてのトラウマは、見えるはずのものをあたかも見えるはずのないものとして演出する。
そこに対するコミュ力は、人生の使用のためのテクノロジーに関わってくるだろう。
テクがあればどうにかなる。センスが付けばなおのこと。
要するに、勝ち負けではない。
自らをエンジョイすることなのだ。*2
きっと、「個性」はそういう付き合いのなかで見えてきたもののことなのだ。
 

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_了

*1:小林秀雄「個性と戦う」 - YouTube

*2:"enjoy"は、"en"-「その状態にする」と "joy"「喜び」とで「喜ぶ状態にする」ことである。

なので、わたしが「自らをエンジョイする」というときは、「自らを楽しんでいる状態にする」の意味を込めている。(英単語 enjoy の語源と意味 - Gogengo! - 英単語は語源でたのしく)
あらゆる人生はエンジョイを目掛けて生きられるべきである。ときに身勝手と見なされてしまってさえ、だ。