can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【共感できないからダメ】評価と投影【ダメなわたしを愛してください】

何かを評価するとき、ひとはときに自らの主観的なものを根拠にして「自分はそれに共感できないからダメなもの」だという評価を下したりします。とはいえ、そのような評価者は、その評価によって何かしらメッセージを込めてしまってはいないでしょうか。

キーワード:評価、主観、共感、モノサシ、投影、信頼

 
しばしば、ひとは何か作品や他人を評価するときに、その対象が自分にとって共感できるか否かで以て良し悪しを判断することがあります。こうしたことは「評価は主観の問題だから」という考えの持ち主であれば当然のことなのかもしれません。ただ、そうした評価を下すときに、評価する自分はその評価する行いによって何を表出してしまっているのかについては、多くの場合に不問に附されています。

  • 共感できない→だからダメ

評価の、そのような判断にはしかし、何かしらの根拠があるはずです。

その根拠に、〝主観〟を持ってきてしまう評価者の精神。これについて、わたしは考えてみたく思います。

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何かを評価するとき、自分の感じたものを表現する面もあります。しかしそれは同時に自分の感じ方のモノサシを露呈することでもあるのです。

評価するという行いは、自分の評価尺度の露呈です。いわば懐に隠し持ったモノサシを人前に出すことです。その点で言えば、「共感できないからダメ」という判断は「評価は主観の問題だから」という、評価者自身の評価のモノサシを差し出していることでもあるのですね。

評価の根拠に主観を掲げることは当然と言えば当然です。それ以上深掘りすることができないくらいのもの。しかし、それゆえに〝主観の問題〟を掲げざるを得ない評価者にはある種の必死さがあります。つまり、自分にはこれしかないんだ――という、不安と隣り合わせの状態が、そこには潜在しているように思われるのですね。

不安。

不安とは、何か得体の知れないわからなさがあるがゆえの気分であって、不安な気分は何かへの依存を誘発します。不安であるからこその依存により、あるひとつの根拠が絶対性を帯びてしまう。そしてその絶対的な根拠にとっての〝それ以外〟を封殺してしまうのです。

なので、「共感できないからダメ」は、何か絶対的なモノサシにすがるしかないという精神を表しています。主観は、ひとが素朴に考えられる限り、もっとも絶対的なものとして召命される概念ですから。

以上から言えることは次のような見解であるように思われます。

「自分にはこれしかないんだ」といった不安に基づいて、絶対的である自分の主観を以て評価してしまうとき、それは評価者自身の自己信頼の低さを評価対象に投影している――と。
しばしば、ひとは何か作品や他人を評価するときに、その対象が自分をうつす鏡のように機能することがあります。こうしたことは「評価は主観の投影だから」という考えの評価者であれば当然のことなのかもしれません。ゆえに、そうした機能を対象に認めるときは、評価する自分はその評価する行いによって何を投影してしまっているのかについてに想いを馳せることができるのです。

軽々に、「共感できないからダメ」だと宣うとき、評価者は自らのダメさを対象にうつしている可能性は、おそらくは信頼に関わってくるでしょう。自分の、自分自身への信頼に。

なぜなら、評価というのは評価者のプライドに裏打ちされているのですから。このことは愛着障害と共感能力の関係をイメージすると良いかもしれません。愛着障害はひとの生育の発達段階において、養育者から適切に愛されているべき時期に十分な愛情を以て接してもらえないことで、〝愛されるべき自分〟を知らないままに育ち、その結果として、自分自身への愛着が不足してした人間になってしまうのです。共感の話題に寄せても、ひとから共感してもらおうという態度で接されなかったことで、ひとに共感するという感じを知らないままでいてしまうわけです。*1
つまり、共感のできなさはもしかすると、評価というより投影の問題なのだという可能性もあるわけですね。
その場合は図らずも、「共感できないからダメ」という評価は、「ダメなわたしを愛してください」というメッセージ性を帯びてしまう向きもあるかもしれません。

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_了

*1:参考:岡田尊司愛着障害』,光文社,2011