can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【「実証済みのノウハウ」の胡散臭さ】実証と実験の現場を検める

「実証」と「実験」とでは言い方として効果が違っています。「実証実験」などとまとめられていたりすることもありますが、それらはわたしたちの生活の実際と一致することが賭けられているようでありながら、どこか〈別の世界〉の話題のようにも感じられます。差し当たって、わたしは「実験」の方に〈この世界〉性を見るつもりです。

キーワード:実証、実験、実際

 

ある日、わたしがSNSを見ていると、コンサル系のビジネスをしているらしきユーザーが「実証済みのノウハウ」と自らの商品を紹介していました。それを見てわたしは胡散臭さを覚えたのです。――はて、なぜだろうか? 本稿はその疑問から起動した記述によって書かれました。

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わたしはひとつの仮説として、「実証」という言葉が良くないのではないかと考えます。

たとえば「実証」ではなく「実験」と言えば〈好奇心とその結果〉のマインドセットを提示できるように思われます。しかし「実証」の場合では〝誰がやってもそうなる〟と言うニュアンスがありますが、それはしかし返って人称性を剥奪しているように感じられます。つまり〝誰がやってもそうなる〟ということの保証がいったい誰によってなされているのかが不明瞭なのです。

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ひとが誰かを信頼するときには差し向かいでの感情的交流や意思の疎通が重要になります。これは二人称的な関係です。「感じのいいひとだなぁ」と目の前の人物を評価したなら、そこには信頼関係が認められます。そのような信頼関係を結べた人物による保証があれば、ひとはアドバイスにしろノウハウにしろ信じることができるわけです。

「実証」の言い方では、科学が科学の名を冠する限りで一定の信頼を請け合うことができるように、検証の手続きありきであることが含みこまれ、その品質が保証されていることが提示されます。とはいえひとは必ずしも科学的な裏付けによって動機付けられるものではありません。むしろ誰がそれを発信しているのかという人物の人間性=信憑性を問います。著名人がSNSで行った何気ないつぶやきから、ある商品が爆発的に売れたり、逆に不買運動がはじまったりすることは、もはや見慣れた風景です。なので、「実証」は〝血統書付き〟であり、〝お墨付き〟であり、〝公認〟であるというニュアンスを醸していると言えましょう。むろん、それは必ずしも商品の品質のことではなく、発信者の影響力に依存するような質ではあるのですが。

他方で、「実験」という言葉を使用する場合では、必ずしも発信者の影響力は問われません。消費者は影響力にではなく、発信者の行動の方に関心が向いてしまうのです。そこではあくまで行動へと関心が向かうことによって、発信者の人間性の是非が不問に附されるのです。そうした次元での関心――それが「実験」の言い方の効果です。

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わたしが「実証済みのノウハウ」という文言に感じた違和感は、その言葉を発信している発信者の影響力を知らないがゆえであったと言えます。その人物の影響力が如何ほどであろうとも、たまたま端末の画面で表示させた程度の関係性では、彼の影響力の累が及ぶところではなかったというわけです。

しかし以上の無関心は、どうすれば自分はその「実証済みのノウハウ」というキャッチコピーへと注意を向けることができるだろうかということへの興味のトリガーとなってくれました。そしてわたしは以下のようにまとめることにします。

発信者が、信頼に足るかわからないと見做されている場合、その人間性の是非は横に置き、その行動に興味を持ってもらうことで顧客の歓心を買うことができるのではないか。その観点で言えば、「実証済みのノウハウ」は「実験済みのノウハウ」とした方が良いのではないか、と。

さほど詳しいわけではありませんが、ユーチューバーの動画を見ますと、やり方を厳密に取り決めて企画動画を作っているというより、ゆるく企画枠を設けて、そのなかで偶然の一回性によって出来上がった動画を適宜編集により微調整することで投稿しているように思われます。そこには実証性というべき性質は見られず、むしろ実験精神と呼ぶべき姿勢があります。そして視聴者はその実験的性質におもしろみを感じ、結果として投稿者に関心を覚え、チャンネル登録へと進むのではないでしょうか。――ここでも秘鑰は「実証」ではなく、「実験」なのです。

心が動くと書いて「感動」。そう、〝実証済み〟と〝実験済み〟だったらどちらが心が動くのか。言い換えれば、おもしろそうなのか。これは言葉のニュアンスの話ですが、人間のあり方の話でもあります。

実証と実験とは、証明と体験のことです。感動は〝動き〟にまつわり、〝動き〟は身体にまつわります。身体の〈場〉で実際に起こることが体験ですから、「実証する」という体験でさえ、実のところは実験の範疇に収まります。実証のおもしろさも否定できませんが、しかしそれは限局的なものです。体験にまつわる「実験」こそが、ひとの生きる現場にもっとも近しい「実際」と一致するのです。

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_了