can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【800字】顔と鏡と世界の印象【デッサン#1】

どうも、ザムザです。試みにエッセイ調で字数をきっかり決めて書いてみるシリーズをはじめたく思います。字数は800字。デッサン的な感覚で書いてみたいなぁというノリです。書くことは即興で、それでは以下より。

 

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車を運転中、車道を横断する自転車の男子高校生2人と出会う。彼らの顔を見た私はまっさきに「なんて幼いんだ!まだ子どもじゃないか!」――と思いました。すると意識はタイムトリップです。

小学生の頃だったでしょうか。通学路でした。向こうから自転車に乗ってくる、やはり男子高校生を、低い目線で以て通り過ぎるのを眺めていました。私は高校生を幼い自分とは違う大人なのだと見ていたのです。

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意識は運転する現在に戻ります。脳髄は自分が男子高校生に幼さを見たことへの不思議さを思考しはじめていました。そういえば同い年の人間に対しては当然そのように思わないにしても、かつては40・50代のひとの顔を見ると強烈に感ぜられたおじさんおばさん感は、今ではさほど意識しなくなっている。なぜだろう。もしかしたら自分の顔との付き合いに関係するのではないか?――と思う。

鏡を覗くと決してNobodyにはさせてくれない、自分がヴァンパイアではないことを証してくれる顔。顔は老ける、秒針を忠実に守って。普段は親戚連中にでも評されない限り自分の老け具合なんて意識に昇らないだろうけれど。とはいえ鏡を覗いて見える自分の顔の影響は、たぶん、自分が他人の顔に出会うその出会い方に大いに影響を与えている。自己意識だって見る自分と見られる自分の成立によっているわけで。鏡を間に立てて見る自分が見られる自分の時々刻々の変化と共にあるのなら、見る自分の眼にだって時々刻々の変化があっても不思議じゃない。だとすれば、すでに彼方に帰り行く2人組の幼さは、私の顔が見せた幻なのか、または「幻こそ現なり」の寓意だったのかしら。

明らかに小学生の頃の世界とは別な世界を生きている感覚。〝世界〟を〝印象〟と読み換えると大仰にならないかもしれません。今やあの頃とは別の印象を生きている。それが現実なのさと嘯いてもいいかもね。

――などと頷き、自分の進行方向に眼を据えたのでした。

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参考資料

 

寺山修司―鏡のなかの言葉

寺山修司―鏡のなかの言葉