can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【800字】学ぶことは真似ること――あるいは使用の意味と意味の備給【デッサン#6】

即興的にエッセイ調で字数を決めて書くシリーズの6回目。字数は800字。この記事では〝学ぶこと〟が〝真似ぶこと〟であると言われる理由を書きました。使用例を使用することの意味について、ですかね。以下より。

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学ぶということはどういうことなのでしょうか。

たとえば外国語を勉強するとき、スポーツが上達していくとき、学問の入門書を読み進めていくとき、あるいは新入社員として仕事を覚えていくときに、そこで学習者は何を〝してしまっていて、学習者の状態に何が〝起こってしまって〟いるのでしょうか。そこでは頭脳的にも身体的にも、わからなかったことがわかっていくこと(認識)、もしくは気づかなかったことに気づけるようになっていくこと(認知)が共通しています。

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Jan Steen 「The Drawing Lesson」(1670)

私が記述しようと試みるのは、学習者がしていることの意味と、学習者が変化していくことの理由です。結論としては使用の意味意味の備給となります。

しばしば頭脳的な能力は、暗記と思考の能力によってなるものだとされます。知識力と論理力とも言い換えられましょう。この能力は〝覚えようとすること〟と実際に頭で〝やり繰りすること〟を抜きにしては上達しません。身体的な能力にしても、「体に叩き込む」という言い方があるように、それは〝動くこと〟を抜きにしては習得を語れないということです。

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Jan Steen 「A School for Boys and Girls」(1670)

学習者が何かを習得することは、学習者が習得したい物事に実際に取り組むことと切り離せないのです。畳水練や机上論が笑われる理由です。外国語は例文の使用、スポーツは型の使用、学問は用語の使用、新入社員は先輩のやり方の使用と――切り離せません。そこには使用することによって培われる勘があり、その勘によって認識力も認知力も強くなっていくという消息があります。つまり、使用することによって意味は備給されるのです。

――であるからこそ、使用例は重要です。自分がなりたい何者か(=なりたい自分)が実際に使用している言動を、実際に真似てみることが習得への方途となります。自分が使用していたい何かへと意味を備給するために、使用するのです。

以上は「まなぶ(学ぶ)」が「まねぶ(真似ぶ)」であることの理由でもあります。

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_了