【800字】労働への恐怖――能力源は労力高へと縮減される【デッサン#7】
指の赴くままにエッセイ調で字数を決めて書いてみるシリーズの7回目。字数は800字。ふわふわと書いてみました。ひとりの7歳児の経済活動への嫌悪感についてを後付け的に説明してみる試み。それでは、以下より。
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私は経済活動に対して抵抗感があります。長い消費者生活のなかで〝カネを使う〟ことには多少の慣れが出てきはしましたが、今でも〝カネを稼ぐ〟ことに関してはどうにも苦手意識があるのです。
7歳頃、その年齢になってさえ、私はひとりで買い物をすることができませんでした。自分で買うくらいだったら欲しい物も諦めるような子どもだったのです。ある日。タコ焼き屋があり、親に食べたいかと訊ねられた私は頷きました。渡されたカネで、このとき私は、屋台のおじさんに注文することにしたのです。このときの声の震え、喉のこわばり、挙動の不自然を、当事者である私以外の誰が語れましょうか。
あのときのカネを使うことへの恐怖はいったい何だったのか。今でもわかりません。
ここで、マルクスの話へと跳躍することをお許しください。
マルクスが労働力と労働能力とで言葉を使い分けるときには、労働者が労働することのうちに発揮する/されているものが労働力で、発揮しえる/させえうるものが労働能力だと捉えられています。言い換えますと、労働力は労働者が働くことのうちに発現しつつ消耗される、働くことを可能にするような労力高を指します。他方、労働能力の場合では、労働者が働いて労力を発揮することを潜在的に保証するような能力源のことを指します。
能力源としての労働能力の方が労力高としての労働力よりも根本的です。つまりは象的なのです。労働の現場では、前者が後者へと縮減させられます。いわば、人格の物化が起こるのです。このことは人間の労働が数量化されてカネに変換されていくという消息を思えば良いでしょう。
再び、タコ焼き屋に戻りますと、私が恐れたのは、カネを使うことによって自分が使おうとしているものが、ひとりの人間を労働者にさせ、ひとりの人間を消費者へと変えてしまうゲームのルールを自分自身に適用することへの承認になってしまうことの予感に対してだったのかもしれません。
_了
参考資料
資本論第一部草稿 直接的生産過程の諸結果 (光文社古典新訳文庫)
- 作者: マルクス,森田成也
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2016/07/12
- メディア: 文庫
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