can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【800字】別れとその後の感謝について【デッサン#8】

年の瀬に脳裏に去来するままにエッセイ調で字数を決めて書いてみた、800字デッサンのシリーズ第8回目。仕事を辞めたその余韻のなかで考えたことについて。別れることで感謝できるってこと。それでは、以下より。

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たとえば仕事を辞めるとその職場の人間関係とは疎遠になる。そんなことを考えると、私は別れとその後の感謝について想い馳せます。

通例、「過去は変えられない」とされます。あなたがブラック企業に勤めていて、毎日ツラくて悩んでいるとしましょう。ツラいのは〝今〟なのであって、過去でではないはずです。ならその会社を辞めてしまえばいい。そうしてあなたは会社を辞めます。それなのに働いていたときの記憶がフラッシュバックしてきて怒りが湧く。ツラいツラいと感じる。ツラかった〝今〟は過去になったはずなのに。

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以上の例の問題は、変えられないものにこだわって、今を生きることができていない点です。

試しに〝今〟と〝過去〟の対比を恋愛の場面を喚起させるような〈別れた人〉〈好きな人〉という言葉で表してみましょう。

変えられないものは何が変わらないのかと言うと、それは事実です。しかし変えられるものもあり、それが評価なのです。

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〈別れた人〉と別れたことは端的に事実なのであり、変えることはできません。ですが別れたから〈好きな人〉でなくなるというわけではありません。「別れても好きな人」という係り方もあって、私が注意したいのはそういったた付き合い方なのです。

ブラック企業の例では、退職してもそこで働いていたときの記憶が本人をツラい気持ちにさせるのでした。恋愛のイメージを用いれば、さながら「別れても嫌いな人」という様相を呈しています。別れることを決意させる何かがあったはずなので〈別れた人〉は〈嫌いな人〉であることは自然ではあります。しかし、にも拘らず「別れても好きな人」がありえる。――これが事実の評価を変えるということです。

過去になったものは〝今〟において和解するしかないのではないでしょうか?

別れたからこそ好きになることができる。感謝は別れの後に来る。ゆえに別れは、過去となったものに別の意味付け(≒和解)をするための嚆矢なのです

 

_了