can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

メンヘラがツラいのは言葉の使い方が原因だった!――分析と対策

メンヘラの言葉使いにはいつも不思議なものを感じていました。そこでは〝自分のせい〟か〝他人のせい〟かのどちらかしかないのです。もしかしたら言葉の使い方がメンヘラ状態にあるひとの生きづらさをを生んでいるのかもしれない。そんな観点からまとめてみました。

キーワード:メンヘラ、言葉の使い方、物体化、固着、環境依存性

メンヘラとは何か

メンヘラという状態があります。

 

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ググってみると次のような説明が見つかります。

 

 人間関係で不安にかられやすい人、心に病気を患った人のことを意味する。

2ちゃんねるメンタルヘルス板(略称メンヘル)を利用している人たちの総称をメンへラ(メンへラー)と呼ばれていたのが、一般にも知られ使われるようになった言葉。

出典;「メンヘラ」とは?意味と使い方を知る

うえの説明が載っているサイトには「精神不安定な人を総称する単語」ともまとめられていて、ネガティブな精神状態を指す言葉であることがうかがえます。

 

メンタリストのDaigoは自身の動画*1でメンヘラの特徴を3つ挙げています。私なりにまとめると以下のようなものです。

 

  1. 一人称を多用する。
  2. ネガティブな表現が多い。
  3. 断言口調および根拠のない断言

 

メンヘラの言葉使い

物体化する言葉

Daigoの分析だと言葉の使い方がメンヘラかどうか判断する基準として挙げられています。

 

さしあたり、言葉の使用はコミュニケーションに係わってきます。言葉は自分と相手とをつないでくれるわけですが、そのつなぎ方は配達物を送っては届くような郵便的なものではありません。

 

 

コミュニケーションにおいて言葉は、自分と相手との〝あいだ〟に、水面に波紋を走らせるような効果をもたらすことによって〝やりとり〟を成立させます。自分の声が空気の振動によって相手の耳へと届くようにして。いわば、演奏が空気を震わせるようにして、〝通じ合っている感じ〟をつくるのですね。

 

しかしメンヘラは、言葉の持つ、様々に解釈のできる余地を、物体的なものに還元してしまうのです。

  

私は、メンヘラの思考と言動に興味があります。もっと詳しく言えば、メンヘラの、〝言葉が物体化してしまっているところ〟に興味があるのです。

 

物体的な言葉

解釈の次元

物体的なものは他のものではありません。言葉は「意味を持つ言葉」と「言葉が語る事物」との2つの次元があって、そのうえで言葉の使用者に使われることになります。そこには2つの次元をつなぐ〈解釈の次元〉があります。しかし物体的となれば、それは解釈の次元を抜きにしたやりとりになってしまいます。

 

言葉の意味のグラデーションを単調なものへと変換することは、物事の受け止め方を単純なものにしてしまいます。

 

単純なものになった物体的な言葉は、メンヘラな人物にとって、情動そのものとして受け取られることになります。すると、言葉はメンヘラ状態にあるひとを不安にさせるものとして振る舞いだすのです。

 

気分と情動

私たちはまずある気分を持っていて、その気分に則って言葉を使います。

 

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気分と情動はおおよそ「持続的もの」と「一時的なもの」という違いがありますが、どちらも気持ちに関わるものであることは同じです。

 

気持ちから発せられる言葉は、気持ちを代弁するものとして振る舞います。この点で話す自分と話し相手とのあいだには「代弁してくれる言葉」があります。一方には自分の気持ちがあって、もう一方にはその気持ちを代弁してくれる言葉がある。そしてその向こうに話し相手がいる。このようなかたちになっています。

 

気持ちに合っているのか、いないのか

しかしここで言葉が物体的になってしまうと、言葉の持つ代弁者としての性格がお役を奪われてしまいます。なぜなら言葉そのものが解釈の次元をなくして、気持ちそのものになってしまうからです。

 

言葉が気持ちそのものとして振る舞いだすと、自分の気持ちと相反する言葉に傷ついてしまうようになります。さらには「それはどういう意味なんだろうか?」と立ち止まる余地さえなくなり、ただ、自分の気持ちに〝合っているか、合っていないのか〟の2択になってしまうのです。

 

結果、メンヘラ的なコミュニケーションにおいては、言葉の意味のおだやかな汲み合いという面は死に、情動のぶつけ合いであるかのような状況を呈することになります。そこでは自分の情動に合っていれば100になっても、合っていなければ(嫌なことだったら)簡単に0になってしまうという、不安定なメンタル状態となってしまうのです。

 

固着した言葉

気持ちと意味

100か0か、あるいは白か黒かは、断定的に色分けされてしまいます。

 

そこに解釈の次元があれば、灰色の判定がされる余地があるわけですが、メンヘラの状態ではそれは叶わないのです。

 

なぜ、メンヘラは断定してしまうのか。解釈ができないのか。――それは言葉を、自分の気持ちからしか見聞きすることしかできないからでしょう。

 

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言葉には、ひとの気持ちがどういう状態なのかどうかとは無関連に保証されている意味があります。

 

固着した言葉

哲学者の千葉雅也は「言語の環境依存性」を説きました。いわく、現実そのものなんてないので、ひとは言語によって構成された現実を享受することしかできないと述べるのです。そこにはある環境があって、その環境の外に出たとしてもまた別な言語が待ち受けている。そんな現実を生きているというのです。*2

 

千葉の言う「言語」は「言葉」だと読んで構いません。

 

千葉の考え方をメンヘラの言葉使いに適応させれば、メンヘラは言葉を物体化することによって、自分が言葉を使う環境に意味を固めてしまうのです。――このことを「固着」と言いましょう。

 

固着した言葉」は物体化と同じ状況を語りますが、加えて、環境と癒着しているという事情をも語ってくれる言い方となります。

 

メンヘラにとって、物体化した言葉は気持ちそのものとして振る舞うのでした。「固着した言葉」は気持ちを言葉へ、言葉を環境へと接着してしまいます。そうなると、千葉の言い方に合わせれば、現実の享受の仕方の固着してしまうことになります。

 

メンヘラ対策

Daigo的な処方

では、以上の言葉の使い方に注意を向けたメンヘラ分析を踏まえて、メンヘラにならないためにはどうしたらいいのでしょうか?

 

Daigoは、言葉を問題はボキャブラリーの貧困さにあると言います。

 

ボキャブラリーが少ないことで、自分が直面している状況を受け止めるための振れ幅が狭まってしまう。そこで豊かなボキャブラリーに基づく言い換えが利くようになれば、直面している状況は別の面を持つものへと変換することができます。

 

だからこそ、Daigoは小説を読むことを勧めるのです。

 

千葉雅也的な処方

千葉の観点だと、言葉は環境に依存しているのでした。

 

メンヘラは具体的な環境のなかで、自分の気持ちと言葉と環境とを同じ面に並べてしまうことによって不安定になってしまう。それはつまりメンヘラ的な言葉使いに依存しているから、言い換えれば、囚われてしまっているからこそツラいのですね。

 

ならば、千葉が他の言語を学ぶことで目の前の言語の外に抜け出ろとアジテートするように、メンヘラも他の言葉使いを学べばいい、というわけす。

 

もう少しツッコんだかたちで言えば、ひとつの環境にひとつの言葉使いだけを使うのでなく、その環境を裏切るような仕方で使うことも大事なのです。

 

つまり、ひとつひとつのメンヘラ的な言葉使いに対して、「他の言い方もありえるよね、これ?」――なんていう醒めた視点を持つことを、勉強するという態度によってススメているのです。

 

誰がメンヘラか

いかがでしたでしょうか?

 

言葉使いに注目してメンヘラを見てきましたが、実のところ、メンヘラな状態というのは当人が自覚していないだけで多くのひとが経験していることのように思えませんでしょうか?

 

メンヘラという感じは他人に対して感じるものです。

 

他人の言動に対して、メンヘラだなぁと感じるわけですね。

 

とはいえ、自分の言葉使いがメンヘラっぽくなっているときは、他人の言動の受け止め方も変わってきます。

 

最近、なんか他人の言動にイライラしてしまう。そういうときは他人の言動のせいにするよりも、まず、自分の言葉使いを点検してみるのもアリかもしれません。

 

他人に対するイライラは、もしかしたら自分のメンヘラを警告してくれるサインだったりするのかも?

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もしそうだったら他人の〝せい〟じゃなくて、〝おかげ〟だと言わなくてはいけないかもしれません。

 

_了

 

 

*1:

youtu.be

*2:千葉雅也『勉強の哲学 来るべきバカのために』,文藝春秋,2017