can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

眼差す主体と生の実感――わたしたちが幽霊であるとすれば。

2018年12月の後半。石井七歩さんのツイートを目撃したことから、ハイデガーの存在への問い、幽霊のような自己、そして眼差す主体としてのわたしたちについての思考を書き出してみた記事。ロジカルなデッサンというよりアイデアのスクリブルかもしれない。800字にするつもりが25000字になってしまった……。(2018/12/24-2019/01/17)

参照人物:ハイデガー木村敏内田樹三浦雅士フランクル、大原扁裡

キーワード:存在、他者、死者、幽霊、眼差し

 

f:id:dragmagique123:20190117024014j:plain

ある朝、Twitterにて

ある朝、クリスマスイブの日。わたしは牙城で眠たげな意識をTwitterのタイムラインを眺めることで覚ましていこうとしていたのでした。

 

そこで、わたしは次のようなツイートを見つけます。 美術家である石井七歩(敬称省きます)の、以下のつぶやき。

 

 

その言葉の並びに目を留めていると、自分のここ最近の関心とどこかで噛み合う感じを覚えたのでした。考えることに誘われる感じ。

 

「死者」「の側から」「眼差す」

「生の意味」「が実感される」

「生の実感が稀薄な」「鬱病患者は時に死を希求する」

「そこには」「薄くうつくしい」「両義性の膜が」「ピンと張りつめて」「震動している」

 

――う~む、おもしろい。

しかし、何がおもしろいというのだ?

わたしは何をおもしろがっているのだろうか?

 

わたしは思いました。

 

石井のツイートのメッセージから出発することで、ここ最近の自分の関心をまとめることができるのではないか、と。

 

存在論的差異

〈有るもの〉と〈有ること〉

まず、わたしは哲学者ハイデガー(1889‐1976)を連想したことを告白しましょう。わけあって、ハイデガーはわたしが2018年12月に少々格闘してみた相手なのでした。

 

わたしが石井のくだんのツイートとハイデガーとをなぜ関連すると直感したのかを、追って紹介していきます。

 

ハイデガーは『存在と時間』(1927‐)において「存在論的差異」なる考え方を披露します。それは〈存在者〉と〈存在〉の違いと言われるニュアンスですが、もう少し砕けた言い方をするなら〈有るもの〉と〈有ること〉――くらいの意味です。

 

しばらく、この「存在論的差異」というハイデガー流の存在すること(有ること)への驚きに寄り添っていくことにします。

 

副詞的で、観念的なナニカ

副詞的なもの

〈有るもの〉と〈有ること〉との区別、と言われても少々とっつきにくさがあるかもしれません。その違いをイメージするための地均しをしましょう。少し、文法界隈への寄り道をお許しください。

 

昨今、どこでとは言いませんが、「とりあえず動け!」「行動第一!」「即断即決!」――的なノリを見かけることがあります。そこでは名詞的な私たちと動詞を媒介にした「手段-目的-結果」連関が直接に、直通に繋がれているのです。

良かれ悪しかれまずは結果を出すことが大事で、その結果を次の身の振り方(要するに〝動詞的なもの〟のことですね)への糧とする。つまりフィードバックしていくことが大切なのだと説く考え方、というか生き方ですね。

 

名詞的なものと動詞的なものとを繋げてしまうとき、そこではある短絡があります。それは何か?――それは副詞的なものを通していないということです。

 

副詞的なものというのは、私たちが〝もの〟(=存在者、有るもの)として有るときに被っている気分だと言っていいでしょう。今現在、どんな状態にあるかどうかを表現するときに用いる、「ダルい」とか「ちょーツマんないんだけど」とか「ウザすぎ、マジで」などが、副詞的なものの例です。

 

副詞はおよそ3種の効果を持っていて、①動詞の修飾、②形容詞の修飾、③副詞の修飾の3つがあります。 それらは名詞と動詞との、主語と述語とのあいだに横たわるものナニカであり、わたしたちはそれをなんとなく享受しつつ、ときに否応なしに動作を限定されてしまいます。

 

なぜ名詞的や副詞的などの話題を出したのかというと、ハイデガーが〈有るもの〉を言うときには名詞的なものだと理解して構わないのですが、〈有ること〉と言うときには単に名詞的なものだとは言えないニュアンスがあるからです。

 

ハイデガーは「気分(情状性)」という概念を重視します。それはおそらく名詞と動詞とが実存上で、すなわち、実生活で実際に生きられる場面において統辞的に繋がるときには、やる気とか気怠さといった〝気分〟の状態(情状性)を抜きにはできないと考えていたのです。

 

観念的な存在

たとえば、そう、そうだな、たとえば次の文章があります。木村敏(1931‐)という精神病理学者の文章です。

 

ドイツ語で、英語の there is やフランス語の il y a と一見よく似た意味で、なにかが「ある」「存在する」ことを表現する言いまわしとして、es gibt (語義通りには「エスが与える」)がある。ただし「ある」とか「存在する」とかいっても、es gibt は there is や il y a と違って、なにかが具体的に目の前に存在するという意味ではなく、そもそもこの世の中に、あるいは自然界に、そういったものがある、存在しているといった、むしろ観念的な存在を含意している。

木村敏『あいだと生命』,創元社,2014,p129)

 

木村の文章から一組の対比を取り出すなら、「具体的/観念的」の対比を手に取ってみせることができるでしょう。どちらも〝有る〟の言葉で表現できる事柄ですが、しかし、その〝有り方〟は同様ではありません。こうした、一概には言えない〝有る〟の内実に区切りを与えるために、ハイデガーの「存在論的差異」の見立てはあるわけです。

 

差し当たり、「観念的な存在*1は名詞的には捉えられません。

 

英語を勉強すると「仮主語」なる言葉を知ることになります。天候を言い表すときなどに言われる It rains tomorrow に付く〝 It 〟のことですね。あれなどはあくまでも主語の仮置きに過ぎません。It は権利上名詞的に振る舞ってはいますが、よくよく考えれば実体を持たない空虚な名詞であることがわかります。――これが、わたしの言う〝副詞的なもの〟なのです。

 

ハイデガーが用いる〈存在〉すなわち〈有ること〉もまた、(〈有るもの〉が実体あるドレカであるのに対して)実体なきナニカとして描かれています。それが「観念的な存在」に対応し、〈存在者〉すなわち〈有るもの〉は「具体的な存在」に対応することになるというわけですね。

 

ハイデガーの前期と後期

ひとりの主体からひとつの〈場〉へ

一般に、ハイデガーの思想は『存在と時間』の刊行を機に前期と後期とで区切られます。大雑把に、かつ図式的に示せば、前期では〈有ること〉は〈有るもの〉のが自己を了解している情状性のなかにおいてのみ、たとえば「観念」という言い方で以て表されるものとして描かれるのです。言い換えれば人間の「おれはここにいるんだなぁ」といった気分のなかだけで感得されるのだと、ハイデガーは考えます。

 

それに対して後期では〈有ること〉が〈有るもの〉を存在させているのだという立場を取ります。こちらはいわば主体というよりも、ひとつの〈場〉として〈有るもの〉を描いていて、その〈場〉から/へと〈有ること〉を問う姿勢を見せ、実在から観念に向かっていた方向性を、観念から実在へと逆向きに転換しているのです。

 

まとめると、前期では観念を所有してしまっている存在者から出発して観念としての存在を問うのに対し、後期では観念によって存在してしまっている存在者をひとつの〈場〉に見立て、その〈場〉とは何であるかを問うのです。

 

明るんだドコカとしての存在者

後期のハイデガー思想では、先の木村の引用文にもあったように「es gibt(存在する=エスが与える・贈る)」の観点に居付きます。

 

たとえば『ヒューマニズムについて』(1947)では次のように書いています。

 

――《存在と時間》は、《ただ現存在が存在する限りでのみ、存在がある(エス・ギプト・ザイン)》とはいわれていないのでしょうか。もちろんそういわれています。それは、存在の明るみが生ずる限りでのみ、存在が人間に委ねられていることを意味します。だが、《Da(現)》、すなわち存在そのものの真理としての明るみが生ずるということは、存在そのものを贈ること(シックング)なのである。

※筆者注:現存在=人間

マルティン・ハイデッガーヒューマニズムについて」『選集』23巻,佐々木義一訳,理想社,1974,p53-54)

 

贈り物としての副詞的な〈有ること〉(存在)を受け取っている〈有るもの〉(存在者)ではなくて、「明るみ」という言い方を用いているように、ハイデガーは存在を語るために〈場〉のようなイメージを提示しているのです。「明るみ」は〝明るんだドコカ〟を示唆していて、それをわたしは〈〉と読みます。

 

中動態はひとつの経験の場所を提示する

そういえば中動態もまたあるひとつの〈場〉をイメージします。

 

中動態とは能動態と受動態のどちらでもない状況を語るための文法用語で、多くの場合に能動態との対比で以て説明される言葉です。たとえば言語学者バンヴェニストは次のような言い方で解説しています。「主語が過程の外にあるか内にあるかに従って過程に対する主語の立場を位置づけ、主語が単に事を行うか(能動態の場合)、みずからもその影響を被りつつ事を行うか(中動態の場合)に従って動作主としての資格を定める。」*2すなわちある状況があって、その外側の視点から成文化する場合が能動態であって、内側の視点から成文化する場合が中動態だということになります。*3

 

中動態から〈場〉がイメージできるのは、ある事態にとって〝ダレカ〟としての主語の位置があるというよりも、〝ドコカ〟としての述語の位置の方が強調されている事情に拠ります。

 

ふつう「AがBをする(誰かが何かをする)」という能動態の規則でもって表された文があれば、行為主体をそのまま責任主体として徴発することができるわけですが、中動態的な記述の仕方ではそうは問屋が卸さないのです。なにせ中動態的な状況の書き方だと「AがBをする」はひとつの経験の場所へと還元されてしまうのですから。

 

イメージは外部から〈場〉へと働きかけるのではなく、〈場〉の内部において動いている、といったものになるでしょう。なので、記述・成文化した場合に事柄の特記的な重点が置かれるのも、主語というよりかは述語の方なのだという認識を得られるのです。

 

いわば「ダレカの働き」から「ドコカでの動き」へと視点が移っているのです。

  

《存在者-存在》の転倒

《主語-述語》の関係をハイデガー存在論の方に差し向けますと、《存在者-存在》と表すことができます。そして中動態に触れて確認したところを踏まえれば、重点はむしろ後者の方、すなわち「述語・存在」にあると読めます。

 

ところがドイツ語での「es gibt(存在する)」の表現に目を向けますと、何か違和感を覚えるわけです。意味としては〝存在する〟という状況を指しているのに、〝存在する〟の意味を担う語がない。

 

ハイデガーは「存在がある( es gibt sein )」と書きます。「sein(存在)」を書き足すことで、「es gibt」の語義に近い「エスが与える」というニュアンスを取り戻し、〝贈られているもの〟である「存在・有ること」を浮き立たせます。そうすることによって具体的ではないナニカ、観念的であるようなナニカとしての〝es(エス)〟を、「エスというもの( das Es )」として名詞化し、強調してみせるのです。 「 das Es gibt sein 」は「エスが存在を与える・贈る」という意味を担うことは押さえておきましょう。

 

木村が指摘していたように、ハイデガー流の操作は「観念的な存在」を召喚することになります。ハイデガーが描く「存在・有ること」は具体的に存在する何者か、すなわち「存在者・有るもの」ではないので、本来、主語的な振る舞いはできない。しかしハイデガーはそれを「エスというもの」として名詞化するのです。

 

「es gibt(存在する)」を「存在がある( es gibt sein )」と書き換えてみせ、エスの〝おかげで〟存在しているというニュアンスを作ったのです。そうなってくると、畢竟、「es gibt」の文では《存在者-存在》すなわち「存在者が存在している」の図式は転倒することになり、後者の〝存在〟が成文化の手続きにおいて前者の方に置かれることになります。つまり《存在-存在者》すなわち「存在が存在者している」というふうに。

 

ハイデガーは存在者へと存在を贈り与える〝ナニカ〟である「エス」を、「存在そのもの」であると述べてもいます。*4木村が指摘するところでは、ハイデガーが「存在そのもの」と述べるとき、それは存在と存在者との「存在論的差異*5それ自体をこそ、真の意味での存在なのだという含意があると言うのです。*6ハイデガーはこの真の意味での存在を表現するのに、存在を意味する Sein の語に抹消記号である×を被せて表記したりもします。本ブログでの表記機能を用いれば「Sein (存在)」となるでしょうか。

 

存在・死者・他者

「存在」から「死者」へ

石井ツイートとハイデガー存在論とを繋ぐもの

以上がハイデガーの「存在論的差異」の概要なのですが、わたしが本稿の冒頭に挙げた石井のつぶやきと繋げるためには、そのあいだに哲学者の内田樹(1950-)の思考を経由する必要があります。

 

石井のツイート文を再び確認してみましょう。

 

 

以上のツイートで、わたしがハイデガーへと想像の翼を広げる運びとなったのは、引用ツイート中での冒頭の一文でした。すなわち「死者の側から眼差すことによりはじめて生の意味や意義が実感される。」のくだりです。

 

それのどこがこれまでくだくだと書いてきた「存在論的差異」と繋がるのか。その理由は内田のHPである『内田樹の研究室』内の2004年の3月30日の記事《フッサール幽霊学とハイデガー死者論》を読むことによって納得できることでしょう。

 

「存在」を「死者」へとリライトする

内田は当該記事のなかで、次のように読者を煽ります。「死者は死んでもう存在しないから、私たちに何の関係もない、などというお気楽なことを言う人間には文学も哲学もわかりはしない。」その直後に、おもむろにハイデガーの「存在論的差異」について触れ、読者にある提案をするのです。

 

存在 (Sein) は存在者 (Seiende) ではない。存在を存在者としてとらえることはできない。存在者としてとらえられた存在は無である。それゆえ人々は存在を忘却する。
これはご存じハイデガーだが、この「存在者」を「生者」、「存在」を「死者」と書き換えて読んでみるとどうなるか。
「死者は生者ではない。死者を生者としてとらえることはできない。生者としてとらえられた死者は無である。それゆえ人々は死者を忘却する」
あら、ちゃんと意味が通っている・・・
おひまな方は『存在と時間』を取り出して、その中の任意の一頁をひらいて「存在」を「死者」に書き換えて読んでみてください。これがね、驚くべきことに「全部」意味が通るのだよ。
嘘だと思う?

blog.tatsuru.com

 

以上のように、内田はハイデガーの「存在者・有るもの/存在・有ること」の図式を大胆にも「生者/死者」と書き換えてみたらどうかと提案するのです。しかもそれがまた意味が通ってしまうのだからおもしろい。

 

ハイデガー形而上学入門』でリライトしてみた

内田の例ではハイデガーの『存在と時間』から引かれて書き換え(リライト)の比較がされていますが、わたしは試しに『形而上学入門』の方から検証してみることにします。

 

まず、元の文を――。

 

存在を捉えようとすると、いつでもまるで空をつかむようなことになる。われわれがそこで問い求めている存在はほどんと無のごときものである。そうはいうものの、一方ではわれわれは、もし誰かが存在者はすべて〝あるのではない〟のだなどと無理なことを言いだしたら、いつもその人に抵抗しようとしたし、お前はそう考えているのだろうと誰かに言われたら、われわれはその人に抗議するだろう。

※筆者注;表記の都合上、一部強調の仕方を変更。

*7

 

そして以下が「生者/死者」にリライトしたものを――。

 

死者を捉えようとすると、いつでもまるで空をつかむようなことになる。われわれがそこで問い求めている死者はほとんと無のごときものである。そうはいうものの、一方ではわれわれは、もし誰かが生者はすべて〝あるのではない〟のだなどと無理なことを言いだしたら、いつもその人に抵抗しようとしたし、お前はそう考えているのだろうと誰かに言われたら、われわれはその人に抗議するだろう。

 

ふむふむ。たしかに意味が通じます。

 

適当に頁を繰り、もう一節いじってみることにしましょう。当てずっぽうに見つけたニヒリズムについて語られた以下の節などは、「存在」と書いてあるより「死者」と書き換えた方が、文意がよりくっきりとしたものになりさえします。

 

存在を忘却してただ存在者だけを扱うこと――これがニヒリズムである。[……]

反対に、存在についての問いにおいて明らかに無という限界にまで進み、この無を存在の問いの中へと引き入れること、これがニヒリズムを真に克服するための第一の、そして唯一の歩みである。

*8

 

以上を書き換えますと――。

 

死者を忘却してただ生者だけを扱うこと――これがニヒリズムである。[……]

反対に、死者についての問いにおいて明らかに無という限界にまで進み、この無を死者の問いの中へと引き入れること、これがニヒリズムを真に克服するための第一の、そして唯一の歩みである。

 

――となります。「存在」も「死者」も哲学の文脈だと抽象度の高い、日常語とは異なった意味を宿しがちであるにしても、文としての意味は通じますし、元の表記よりどこか馴染みのある感じが醸されている気さえします。

 

石井ツイートをリライトしてみた

石井のツイートの前半部へと再び目を向けますと、「死者の側から眼差すことによりはじめて生の意味や意義が実感される。」という文言に、内田的なリライトの逆の操作をすれば次のように書き換えることができます。すなわち「存在の側から眼差すことによりはじめて〝あること〟の意味や意義が実感される。」――というふうに。

 

石井ツイートを書き換えてみても、内田がハイデガーをリライトすることによって展望した、元の表記とは別なニュアンスが垣間見えそうです。ハイデガーが「存在」について語るところは、「死者」についての語りへと互換できるというわけです。 

 

以上から、わたしに到来した石井ツイートとハイデガーとの関係性は汲み取っていただけたのではないでしょうか。

 

 「存在」から「他者」へ

「存在」を「他者」へとリライトする

ところで内田の記事の冒頭は哲学者レヴィナスの他者論からはじまっています。「他者とは死者のことである。」そのように、内田は言います。つまり、ハイデガーを読み換えるために用いた「死者」という語は「他者」の語からの言い換えられたものだったのです。しかし逆を言えば、ハイデガーの「存在」の語が「死者」でも構わないように、「他者」と書いても構わない向きもあるということです。内田がそうしたような、書き換えることのできる互換性が。

 

試しに先のニヒリズムに関する引用箇所を、「死者」から「他者」へと書き換えてみることにします。それに応じて、「生者」を「自己」と書き換える蛮行をお許しいただきたく存じます。

 

他者を忘却してただ自己だけを扱うこと――これがニヒリズムである。[……]

反対に、他者についての問いにおいて明らかに無という限界にまで進み、この無を他者の問いの中へと引き入れること、これがニヒリズムを真に克服するための第一の、そして唯一の歩みである。

 

いかがでしょう。なかなか哲学的に含蓄のありそうな雰囲気を醸していますよね。それだけでなく、石井のツイートの前半部を読むことにどこか示唆するところさえあるように思えませんでしょうか?

 

石井はくだんのツイートの前半部にて、「死者の側から眼差すことによりはじめて生の意味や意義が実感される。」と述べたのでした。〝眼差す〟という行為は〝眼差される〟経験を抜きには成立しません。さしあたり、その経験は他者とのあいだで起こります。

 

うえに書き換えてみたハイデガーニヒリズムに関する文章を次のように押さえましょう。ニヒリズムは、〝眼差される対象〟としての自己意識を抜きにした〝眼差す自己〟であるときにこうむるものなのだ、と。そしてニヒリズムの克服をハイデガーの文法では、他者についての問いを無、すなわち意味が無くなってしまうという、限界にぶつかるまで考えぬいたそのニヒリズムそのものの結論を、他者の問いのなかに引き入れることだと述べます。

 

わたしは前者の「他者についての問い」は抽象的な他者を〝考えること〟で、後者の「他者の問い」は具体的な他者と〝付き合うこと〟だと理解します。

 

つまり書き換えたハイデガーの言い方は次のように理解できます。小難しく考えたことを親しく付き合う他人との関係のなかから眺めてみると、小難しく考えていたことの結論である意味の無さそのものが意味を失ってしまう。――と。

 

石井の言う「死者の側から眼差す」という構制は、他者とのあいだで自己が〝眼差される〟ことによって「眼差す主体」を発見することから可能になります。

 

石井ツイートの後半部は次のように書かれています。「生の実感が稀薄な鬱病患者は時に死を希求するが、そこには薄くうつくしい両義性の膜がピンと張りつめて震動している。」

 

書き換えたハイデガーの言い方では、ニヒリズムは「他者を忘却してただ自分だけを扱うこと」によって陥るものなのでした。これは石井の言い方での「生の実感が稀薄な鬱病患者」に重ねられます。この重ね合わせから、鬱病患者は眼差す自己の弱化なのではなく、眼差される対象としての自己の弱化だとは言えませんでしょうか。

 

生の実感とニヒリズム

奇しくも、わたしがたまたま開いた『形而上学入門』の頁にはニヒリズムに関する言及がありました。石井のツイートにある生きることの意味や意義に関するくだりは、わたしが偶然にも引用する運びとなったニヒリズムのくだりをあてがってみると、自然と石井のツイートの後半部を読むことの手引きとなってくれるようです。

 

再びとなりますが、石井のツイートの後半部は次のように書かれています。「生の実感が稀薄な鬱病患者は時に死を希求するが、そこには薄くうつくしい両義性の膜がピンと張りつめて震動している。」

 

石井が述べるように、大抵の鬱病患者は意味や意義と言い表すことができる〝生の実感〟が稀薄となります。ニヒリズムもまた〝生きること〟への無意味感に自分が支配される感覚です。

 

すでに触れたように、ハイデガーは「気分(情状性)」を重視しました。「気分」を重視するハイデガーが、やはり〝ある種の気分〟としての無意味感を被ることになるニヒリズムを問題として扱うことには必然性があります。

 

ニヒリズムが、生の実感の欠如した状態であると理解するなら、それを鬱病患者の情状性を語る言葉のひとつとして納得することができます。ニヒリストも鬱病患者も、さながら、今生をさまよう幽霊の如き様態を示唆します。

 

「存在」から「幽霊」へ 

わたしたちは幽霊であるか?

わたしは「幽霊」という言葉を使いました。

 

もし、わたしたちがもともと「幽霊」なのだとしたら?――そのように問うことは、「存在」について語ることが「死者」についての語りになることを見てきたわたしたちにとって、多少スピっている嫌いこそありますが、トンデモな話ではないのかもしれません。

 

ハイデガーは「存在論的差異」の言い方で以て〈有るもの〉と〈有ること〉とを分けました。そして、木村が「具体的/観念的」の区別を用いたところに倣えば、ハイデガー存在論では観念的なもの(存在)がまずあって、それに存在を与えられるという態で以て具体的なもの(存在者)が存在することになるのでした。

 

わたしたちが〝幽霊〟という言葉でイメージするのは、霊魂と肉体とが二元的に存在しているというものでしょう。肉体を持たない霊魂だけの状態を、わたしたちは「幽霊」だと認識します。

 

ハイデガー風に言えば、わたしたちは「存在者」すなわち〈有るもの〉です。具体的に存在しているもののことですね。しかしハイデガーは「存在」すなわち〈有ること〉の方を、わたしたちが「存在していること」の基礎部分に置くわけです。つまり木村が言うところの「観念的なもの」が基礎に位置づけられるのですね。となると、観念的なものが礎石となり、そのうえに具体的なものがあることになります。これは次のように言い換えられはしないでしょうか?――すなわち、わたしたちはまず以て幽霊的であることによって今生を生者として謳歌できるのではないか、と。

 

生の実感と幽体離脱

ひとまずわたしたち存在者が幽霊かどうかはさておくにしても、石井が、生者である鬱病患者の実感を「両義性の膜」と言った表現で以て語っていることは感興を誘います。

 

再び、石井のツイートを引用しましょう。 

 

 

鬱病患者の実感として描かれている両義性とは何のことでしょう。

 

それはツイート冒頭部にある〝死者の側から眼差すこと〟に掛かるはずです。 

 

鬱病患者は〝時に死を希求する〟。しかし生の実感は〝死者の側から眼差すこと〟によって享受できるとあり、それを享受していることがわたしたち「存在者」のデフォルトなのだとすれば、わたしたちは基本的に幽霊なのだとは言えませんでしょうか。

もう少し穏当な(?)言い方をすれば、わたしたち人間の在り方(存在する仕方)は幽体離脱していることが基本なのだとは言えないでしょうか。

 

わたしたちが幽霊であるとすれば如何に?

幽体離脱していること(死者の側から眼差すこと)によって生の実感が供給されるなら、そのときの自己は、「生きてもいて、死んでもいる」という、まさに〝両義的な〟状態にあるわけです。わたしたちはそうした両義性を意識し、「幽霊」の概念を生者でも死者でもない状態として把握することにします。

 

幽霊とは生者でも死者でもない。しかし幽霊は、生者的であり死者的でもある。

 

鬱病患者は生きてもいて死んでもいる中間状態において死を希求します。彼もまた幽体離脱をしているならば、彼が死を希求することは死ぬことを願う幽霊という奇妙な存在となります。しかし一般に生者だとされている人々でさえ、石井が述べるように生の実感の受給を死者の側から眼差すことに頼っているとすれば、今生に存在するのは死を希求する幽霊であるか、そうではない幽霊であるかのどちらかだということになります。

 

幽霊であることのニヒリズムと生の実感の生成

存在者が存在するように、幽霊もまた存在しています。おそらく「わたしは幽霊である」という自覚は、一個のニヒリズムでしょう。そこには現世に対する懸隔が潜んでいるのですから。

 

その懸隔はしかし、必ずしも否定的なものではありません。なぜなら、その懸隔に依ってこそ、わたしたちは死者の側へと〈視点〉を移して、死者の側からの眼差しで以て自らを眼差すことができるのですから。

 

〝死者の側から眼差すこと〟によって生の実感を得られるとすれば、これはまた〝眼差し〟とは何かという話にもなってくるでしょう。それに眼差されることによって生の実感が生成される、そんな眼差し。それはあたかも、ハイデガー思想にいて〈存在者〉が〈存在〉によって己れ自身をひらく在り方さえ思わせます。。

 

ハイデガーが述べた「 das Es gibt sein 」は、「エスが存在を与える・贈る」という意味を担うのでした。幽霊としての自己へと生の実感を供給するナニカを思えば、ハイデガーが「エス」として名指したものを浮かべることは詮無きことではないでしょう。

 

自己の成立と視点の移動可能性

わたしたちが幽霊である。そのように言い切ってしまうにしても、しないにしても、わたしたちが「わたし」と呼ぶもの、すなわち自己が成立するということについて触れておきましょう。いろいろに説明の仕方はあるかと思われますが、〈視点〉の話題が出たので、〈視点〉の語を用いて説明を講じる三浦雅士(1946-)の考え方を借用することにします。

 

三浦は『疑問の網状組織へ』(1988)にて「鏡を覗くことなしにはそれが自分自身の姿であるかどうか分からないのである」(p8)と述べ、直後に「もしもそうであるとすれば、人間には、もともと自分自身の考えもなければ、自分自身の姿もないのだということになる」という疑いを示すのです。これはつまり、鏡を覗くことなしには認識する自己もなくて、なじみのものである一人称の内面としての「わたし」さえもが存在しないのだと言うのです。

 

三浦は鏡を介して生起する現象を、ただ対象としての自分自身を「〈見ること〉のため」にあったのではないと述べます。では、何のために?――鏡という装置は「〈見ること〉を〝見る〟ため」だ、と三浦は言うのです。言い換えますと、鏡は「見るという行為」をするために覗くのではなく、むしろ「見るという行為を見る」ためだったのだというわけです。

 

単に、「見るという行為」をするだけでは対象が対象であるがままに、鏡を覗いた者の目に映るだけです。しかし「見るという行為を見る」場合だと、〝見えているもの〟の側にそれを見ている者の視点が獲得されています。

 

言い換えれば、「見るという行為」ではヴァーチャルリアリティ(以降VR)と知らずに現実を享受していて、「見るという行為を見る」場合では、その現実がVRである自覚する視点を持っているのです。後者には意識に解釈の次元が挿し込まれています。解釈しえるがゆえに、対象を対象のままに享受せず、その裏、その奥、その向こうへと思考を働かせることができるのです。

 

解釈の次元を別の言葉で言えば、「入れ子構造」「再帰構造」「リカーション」などが挙げられます。そのような〈面て〉と〈深み〉の階層構造状的な解釈世界へと世界を刷新していくプロセスが、自己の成立場面へと他者の視点が繰り込まれていくことを可能にするのです。

 

自己の成立と他者の視点

三浦は鏡を前にした者にインプットされている他者の視点を、具体的なシチュエーションとして次のように描いてみせます。

 

鏡を見つめながら、たとえば人はいう。
「ああ、どうして自分はこんなに醜いのだろう。」
どうしてもこうしてもない。それを美しいと思うのも醜いと思うのもその人間の勝手にすぎない。だが、勝手に過ぎないにもかかわらず勝手に判断できないのは、判断そのものが他者に属しているからである。他者の視点から自分を眺めているからだ。
この他者の視点、自分を眺めている他者の視点には姿など存在しない。だからこそ、人間にとって姿は、いつでも、あたかも与えられたもののように登場するのである。姿には自分自身の姿などない。それはつねに向こう側から、しかも有無をいわせずにやってくるのだ。
感じたり考えたりしている自分自身は、したがって、透明人間のようなものである。
三浦雅士『疑問の網状組織へ』,筑摩書房,1988,p13)

 

三浦の描いてみせたシチュエーションでは、鏡を覗いた者に「わたし」と呼べるものがすでにあることが見て取れます。「見るという行為」が「見るという行為を見る」という解釈の次元が成立し、他者に見られる自己が成立しているのです。ここにはまた、見ることと見られることとを同時に見る視点が成立してもいます。

 

なにせ「ああ、どうして自分はこんなに醜いのだろう。」と感じ・考えてしまうことは、鏡に映っている自分の姿をそのように悪しざまに言うであろう何者かの存在(視点)を抜きにしては成立しないはずですから。このことはそのように感じ・考えてしまう何者かの価値観ばかりではなく、そうした価値観の基盤として君臨しているかのように振る舞う自己という観念の成立にも係わります。見られることから見るものの視点を獲得し、それを転倒させ、自己は見るものとして成立し、そのうえで見られるようになるのです。自己という視点は自分を見る相手なしにはありえず、もっと言えば、自分を見ている相手を見る、幽体離脱的な視点なくしてはありえないのです。

 

引用した文の末尾にて三浦が指摘しているように、鏡に映っている自己は、他者の視点を抜きにしては実体を持てないという消息を持つのです。他者の視点は〈見ること〉を通して自己が実在していることを保証するのです。*9

 

実在としての自己、すなわち、幽霊としての自己

自己という観念の成立と、それを保証する他者の視点という図式は、ハイデガーが「存在していること」において、〈有ること〉を〈有るもの〉の基礎に置いた消息と重ねられるように思われます。〈有ること〉は観念的なものであったわけですから。

 

ただ、観念的な存在としての自己は、観念であることによって宙に浮いていますので、むしろ〈有るもの〉の方が観念的であると見立てた方がいいでしょう。そのような宙に浮いた〈有るもの〉を他者の視点は実在化(脱観念化)します。他者の視点の実在化の働きは「存在論的差異」における〈有ること〉の方を思わせます。〈有ること〉によって、明るみとして照らされた〈場〉が〈有るもの〉だったのですから。

 

ハイデガーは『ヒューマニズムについて』(1947)のなかで「言語は存在の家である」という言い方をします。これは言語的な、解釈の次元を抜きにしては、人間は存在者(有るもの)ではありえなかったのだという含みがあります。存在と存在者という言い回しは、『ヒューマニズム』のなかでその関係の中間に言語が置かれ、言語を使用することと、その使用した結果を実感的な効果として了解することによって、存在から存在者への道筋が開かれることを語るのです。

 

また、後期のハイデガーは「言語は存在から生まれ,存在で組み立てられた存在の家」だとも述べます。わたしたちは【ハイデガーの前期と後期】で確認したように、ハイデガーがもともと前期で依拠していたものが存在の次元であったと理解することができます。それは【観念的な存在】の節で引用した木村の言い方を借りれば、観念的であって、具体的な存在者に対して抽象的でしかないものを根拠にする思想でした。

他方、副詞的、仮主語、中動態などに目を向けると、観念的なものは言語的な次元に組み込まれていることがわかります。さらには【自己の成立と視点の移動可能性】以降、三浦を参照して見てきたところでは、見ることと見られることとを同時に見る視点の獲得こそが自己の成立に係わってくるのでした。本稿では言及していませんでしたが、三浦は、こうした幽体離脱的な視点は、人間が言語を使用することに重大な影響を与えるものだとも説きます。

 

ここまでのことを踏まえてハイデガーの「言語は存在の家である」という言い方のほうへと立ち戻ってみると、存在は、解釈の次元、つまりは言語を通して存在者として具体化していくものだと見ることができます。存在の次元がいまや、言語の、解釈の次元として了解できるのです。それらはみな、「存在していること」のなかの営みだと、わたしたちは読むことができます。

 

「存在していること」において、観念としての自己は〈有るもの〉すなわち存在者へと徴発されることになります。言い換えれば、それは自身を眼差す視点を自分の眼差しとして(有無をいわせずに)与えられてしまうということです。あたかもそこでは実在としての自己は「透明人間」のようでさえあります。

 

いや、むしろ開き直って幽霊だと言っていいでしょう。身体の場面で活動している意識は具体的な視点ではありますが、同時に観念的でもあります。この点で実在的ではないと判断するなら、「実在としての自己」は幽体離脱的に視点と視点とのあいだを行き交うメタ視点のほうに対して名付けることができます。

 

しかし、それが幽霊的であることによって「これが本当のわたしである」というふうには指摘することはできないのです。なので「実在としての自己」を表すには、抹消記号を付したり、取り消し線を引いて「実在としての自己」と表記するなどした方が適当でしょう。

 

かくして、実在としての自己は鏡という装置によって解釈の次元へと降りていくことによって抹消されるのです。あったかもしれない確かめようのない起源として措かれるもの。それが実在としての自己なのです。いつの間にか、つねにすでに、そこにあったものとして、観念としての自己が〝あった〟という態で以て〝ある〟。それがわたしたちにとっての「わたし」であり、(幽霊としての)自己なのです。

 

自己は、以上のような態で幽霊であることによって、他者の視点に立つことができますし、さらには〝自己を眼差す他者〟を眼差すことさえできる他者の視点に立つことさえも可能になるのです。(地縛霊的であったり、浮遊霊的であったりすることを語ることさえできるでしょう。)

 

 幽霊として幽霊に眼差されるということ

 リ・ツイート

石井は次のようにツイートしていたのでした。(二番目のツイートは本稿では初出。)

 

 

さしあたっては、本稿はここまで、以上のツイートに依拠して述べられるところを書き連ねてきました。

 

ところが本稿のそうしたモチーフにとって、無視することができないツイートがされました。石井のツイートを見てみましょう。

 

f:id:dragmagique123:20190117030832p:plain

*10

 

以上の石井の訂正は、死者の眼差しに立つことが生の意味の実感を促すという点から、死者の眼差しから眺められる生の全体観が、むしろ、生の無意味であることの実感を促すものへと手直しされています。後者では、無意味であることが〝意味がないという意味〟としての生の実感をもたらすのだとし、それこそが「日々を安定させる」と締めくくるのです。

 

要するに意味から無意味へと、考え方の基本が変更されているのですね。 

 

わたしは仮に、前者の〈生の実感〉に根差した石井を「アンテ石井」と呼び、〈無意味なもの〉の大切さを説く後者の石井を「ポスト石井」と呼ぶことにし、以下、書き進むことにします。(アンテ anteもポスト postもラテン語です。英語でいえば before と after のことです。わたしは〝前の〟と〝後の〟という意味合いで使っています。)

 

〝死者の側〟からの〝眼差し〟

アンテ石井にせよポスト石井にせよ、そこには〝死者の側〟からの〝眼差し〟への意識があります。生者ではなく、死者からの。そちらから眼差されることによって、生(者)の世界はなにかしらの意味が実現されることになるというのです。

 

アンテ石井では死者の側から眼差されなくては、意味は成立しない。これは虫瞰的な視点だと対象が全体のなかでどのように位置づけられるのかがわからないからこそ、対象が無意味であると感じられるからでしょう。死者の視点は対象を鳥瞰的に見ることを可能にし、対象を意味づける象徴体系として作用する。たとえば言語のように、歴史のように、物語のように。――おそらくは、そのようなものとして〝生の実感〟の根拠が思い描かれています。

 

ポスト石井では、無意味の意味に重きを置いています。虫瞰的な視点では意味ありげに見え、だけれども、それゆえにどこか虚しさがある。

 

たとえば、釈迦を思い出しましょう。釈迦は王子として生まれ、華美な生活を送るさなか、王城の四方の門から出掛けた際に目にした老人、病人、死人、修行者から生老病死を気づき出家を決めました。釈迦の決心はこの世の儚さを見る視点に立つことによって獲得されています。それはこの世の全体の意味を儚いものへと還元する視点、すなわち死者の側からの眼差しです。

ポスト石井は、あらゆる象徴体系を超えた不条理な虚無の領域を想定します。〈この世〉の価値をすべて〈この世〉の内部へと圧してしまうような〈あの世〉。〈あの世〉はイメージすることはできても、それは〈この世〉〝からの〟イメージでしかなく、その点で〈この世〉から意味づけることができません。つまり生者の現実には決して及ばず、ただ虚構として触れることができるだけなのです。

 

しかし、ポスト石井はそのような圧倒的に無意味な領域から生の世界を眼差すことによって、虫瞰的な風景をすべて無意味なものへと還元することが日々に安定をもたらすと言うのです。

おそらくそれは、意味からの解放を促すからでしょう。意味は、意味することそれ自体によってある種のオブセストな、強迫的な振る舞いを見せます。それはつまり、意味そのものが生の実感を疎外するということです。この点で、虫瞰的には意味ありげなものに縛られているところを、鳥瞰的な視点、すなわち死者の側からの眼差しによって無意味さへと還元してくれることは解放の意味合いを持つことになります。――このような解放感こそ、安定を意味付ける〝意味がないという意味〟なのです。

 

死者の側の眼差しとはどのようなものか

では、実際に死者の側からの眼差しを生きた人物とはどのような実感を持ち得るのでしょうか。ここでは2人の作家の文章を参照することによって具体化を試みることにします。一方はシリアスな、もう一方はユーモラスな体験を記述したものです。

 

〈どうでもよさ〉へと至る眼差し

まずシリアスな方としては心理学者であるフランクル(1905-1997)の記述を参照します。

 

フランクル第二次世界大戦の折にナチス強制収容所に送られ、過酷な時期を過ごしました。そのときの経験を踏まえて、収容されていたあいだに体験した自身の感想および人々の状況を分析し、人生の意味とは何かという観点で書き上げたのが『夜と霧』(1946)です。

 

ある日、フランクルら収容者は朝早くから工事現場へと歩かされていました。「日の出前の風は氷のように冷たく、口をきかないほうが得策なのだ。」というくだりを読んでも、その過酷さは想像に難くありません。護衛の監視兵が銃を持って追い立ててくるのですから、なおのこと。

行進のさなかに、仲間のひとりが次のように言いました。「ねえ、君、女房たちがおれたちのこのありさまを見たらどう思うだろうね……! 女房たちの収容所暮らしはもっとましだといいんだが。おれたちがどんなことになっているか、知らないでいてくれることを願うよ」――と。

 

するとフランクルは「ごくまっとうな生活では思いもよらなかった」体験をします。それは自らの愛する人の面影に心が満たされ、語り合い、笑い合い、そして眼差されるといったものでした。フランクルはその経験を「たった今昇ってきた太陽よりも明るく」自身を照らしてくれたと回想します。

 

以下は、愛する人の面影に心が満たされたというくだりの直後の叙述からの引用となります。

 

収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐え難い苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した。天使は永久の栄光をかぎりない愛のまなざしにとらえているがゆえに至福である、という言葉の理由を……。

(ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』池田香代子訳,みすず書房,2002,p61)

 

上に引用したフランクルの文章には、〝天使〟という言葉が使われています。天使の至福とは何か。そのことに「生まれてはじめて、たちどころに理解した」と言うそれは、時間の側に立つ〈生者〉に対する、永遠の側が直観されているのです。永遠、つまりは〈死者〉の側です。天使が〝愛のまなざし〟によってとらえているのは、決して時間的・経験的な出来事によってはおとしめられはしない栄光なのです。

 

フランクルはまた、次のように述べます。

 

ほどなく、わたしたちは壕の中にいた。きのうもそこにいた。凍てついた地面につるはしの先から火花が散った。頭はまだぼうっとしており、仲間は押し黙ったままだ。わたしの魂はまだ愛する妻の面影にすがっていた。まだ妻との語らいを続けていた。まだ妻はわたしと語らいつづけていた。そのとき、あることに思い至った。妻がまだ生きているかどうか、まったくわからないではないか!

そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質(ゾーザイン)」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存(ダーザイン)」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。愛する妻がまだ生きているのか、あるいはもう生きてはいないのか、まるでわからなかった。知るすべがなかった。(収容生活をとおして、手紙は書くことも受け取ることもできなかった)。だが、そんなことはこの瞬間、なぜかどうでもよかった。愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。

※太字強調は筆者

フランクル/p62-63)

 

少々引用が長くなってしまいましたが、ここでわたしが読んでおきたいところは次のようなことです。

 

フランクル愛する人の眼差しを発見することによって、言い換えれば、(ここいないことによって、逆に強くここに共にいることを感じるような)死者の側からの眼差しを発見することによって、その視点から生者としての悲惨な現実を眺めることができたのです。アンテ石井的に言えば、そのような死者の側からの眼差しに立つことによって、フランクルは、無意味なものに成り下がっていた収容者としての自分にも意味を、すなわち生の実感を得ることができたのです。

 

他方で、ポスト石井的に言えば、死者のからの眼差しは収容者の過酷な現実を無意味なものだとします。この無意味さはしかしネガティブなものではありません。視点が虫瞰的であれば「愛する人の生死」や「収容所生活の終わり」などに心が揺れ、期待することで裏切られ、返って絶望することになりかねない。そのような意味ありげなものに心が惑わされるなら、過酷な現実を無意味なものだと突き放すことのできる鳥瞰的な視点を持つことの方が精神は安定します。現に、フランクルは愛する妻が生きているのかどうかは「どうでもよかった」とさえ言っています。――この境地を、非人情だと言うことは相応しくないでしょう。むしろそれは人間の「生きる意味」の深みへと到達した、ひとつの悟達なのだと、わたしは考えます。

 

以上が、フランクルの体験を例にしての、死者の側の眼差しの実感の内訳です。

 

〈あの世〉の自分、〈この世〉の自分を笑わせる

次に、ユーモラスな死者の側からの眼差しの例を挙げましょう。それは作家の大原扁理(1985-)です。彼は年収90万円で都内にて生活を送ることは可能であるということを示して、若くして隠居することの意義を提示するパイオニア的存在です。

 

大原のライフスタイルは一言で言えば、大真面目に社会の生真面目っぷりを茶化すものです。

 

以下の大原の記述は、彼のライフスタイルを象徴すると同時に、彼自身の生の実感の描写にもなっています。

 

なんつーか、わたしは自分みたいな人間が生きてるだけでちょっと笑えるっていうか、隠居しちゃっても笑えるし、本が出ちゃっても笑えるし、このまま死んじゃってもなんか面白い、みたいなとこがあるんです。あの世で自分に「プッ」ってなってる気がする。かわいそうがられるより、最期まで笑ってもらえたほうが嬉しいなぁ。どうせ死ぬならおかしく死にたい。

(大原扁理『年収90万円で東京ハッピーライフ』,太田出版,2016,p186)

 

明らかに、大原の視点は〈この世〉とは別なレベルに置かれています。「彼が最期まで笑ってもらえたほうが嬉しいなぁ」と述べるときの、相手というのは自分でありながら自分ではない、そんな自己を示すものになっているのです。その自己は、あたかも死者であるかのように〈あの世〉に位置づいているものなのだと、彼の書き方からは読みとることができます。

 

大原の言う死者は生者としての自己とダブっています。それは生者としての自己が死者の側に立つことの自己同一性のダブりによって、〈この世〉の全体観へのゆとりを確保するような効用をもたらしているように思われます。

 

アンテ石井的な観点から見れば、大原の実感は生者の側である〈この世〉はそのままではあまりに真面目過ぎるので堅苦しく、それゆえにゆとりがないものなのだと理解している、というふうに解釈できます。

生の実感は時間的空間的なゆとりのうちにあそぶことで得られるものです。押し着せのルールが生の実感を奪うのは、ゆとりを奪うからです。生者の側はたえず既製品を引き受けるのか破り捨てるのかの闘争に晒されています。どちらを選ぶにせよ、〈この世〉の視点からはその闘争から逃れることはできません。 

だからこそ死者の側である〈あの世〉があることによって、生者にも他の見え方・別な生き方がありえるということの気づきが得られ、考え方にせよ、生き方にせよ、自己の在り方を刷新できるのです。

たとえ別な生き方と目の前の現実とに必然性がないとしても、そこには何かしらの意味の手触りがあって、その手触りから生者としての自己にも安定がもたらされることになるのです。

 

他方で、ポスト石井の観点からすれば、大原は〈あの世〉の視点から〈この世〉に属する自分の必然性を抹消しているのです。

必然性のない自分が偶然にも生きていて、隠居なんかしちゃってて、本を出しちゃったりもしている。その偶然性に対して「プッ」となるような視点を持っている。そのようなユーモアが〈あの世〉に置いた視点から眺めることによって成立しているのです。

偶然であることは無意味でしかありませんが、偶然が連続していればそれはなんらかの意味あるものだとされます。あるいは、〈この世〉を笑うための〈あの世〉は、〈この世〉がそのような偶然の連続〝ばかりであること〟に気づくことによって授かる視点なのだと、わたしは述べてみたいのです。

 

引用した大原の文章の末文にある「どうせ死ぬならおかしく死にたい」などは、まさに幽体離脱的な発想です。大原は、〈この世〉と「生者としての自分」との関係を対象化することによって、 幽霊を実在させてしまっているのです。

 

以上が、大原の生の実感に含まれる死者の側の視点となります。

 

まとめ

ここまで。

ここまでが、わたしの石井ツイートから感じたおもしろさの消息となります。

 

最初はハイデガーでした。ハイデガーの存在思想の根幹である「存在論的差異」から、〈有ること〉と〈有るもの〉の分類を取り上げました。〈有ること〉は観念的で、〈有るもの〉は具体的。その分類だと、「存在していること」においては前者が後者に先行したのでした。

 

それから、内田の言葉遊び的なリライトをハイデガーの著作に適用することでわかったのは、観念的な「存在」すなわち〈有ること〉をわたしたちがわたしたちであることの基礎に置くなら、実在するのは幽霊の如きものなのではないかという視点です。

 

そして三浦を参照することでわかったことは、鏡という装置が、自分が見られるものであることをだけ学ばせてくれるものなのではなく、「見る者-見られる者」の関係それ自体を、あたかも幽体離脱でもするかのようにして見下ろす視点をもたらしてくれもするということでした。

 

幽体離脱的な、幽霊としての自己は、それなくしてはわたしたちが普段「わたし」と呼び表すものが成立しません。なにせそれは自己の自己への関係として記述されるようなものなのですから。こうした書き方で以て説明されることさえ、幽体離脱的です。

 

以上を踏まえて石井ツイートの方に視線を向けますと、わたしたちが幽体離脱的に死者の立場へと、生者の側から自らを押し出していくような図式を描けます。だからこそ、死者の側からの眼差しを得て、生者の側を眼差すことができるのです。

 

石井は自身のツイートを訂正しましたが、そのことは訂正前のツイートの価値を貶めはしませんでしたし、訂正した後のツイートによってわたしが元のツイートから感じたおもしろさが台無しになることもありませんでした。むしろその訂正はおもしろさに厚みを授けてくれたと言ってもいいでしょう。

 

最後にはフランクルと大原の文章に石井の観点を適応させることで、その有効性を確認しました。その際、石井の訂正前と後とのツイート内容の違いを尊重しつつ、双方からくだんの二者の文章を見た結果、〝死者の側からの眼差し〟と〝生の実感〟との関係を複眼的に眼差すことができたかと思います。

 

至らぬ点、誤解している点、言及不足な点もあるかと存じます*11が、さしあたっては、以上となります。

 

_了

 

参考資料

 

 

 

存在と時間1 (光文社古典新訳文庫)

存在と時間1 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 

あいだと生命:臨床哲学論文集

あいだと生命:臨床哲学論文集

 

 

ハイデッガー選集〈23〉ヒューマニズムについて (1974年)

ハイデッガー選集〈23〉ヒューマニズムについて (1974年)

 

  

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

形而上学入門 (平凡社ライブラリー)

 

 

疑問の網状組織へ

疑問の網状組織へ

 

 

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

 

年収90万円で東京ハッピーライフ

年収90万円で東京ハッピーライフ

 

 

*1:観念的な存在。ここで観念的というのは空想上の生物やアニメのキャラクターなどを思い浮かべるのは間違いです。言葉としてはそのように読めることも承知してはいますが、わたしはここでそのように使用してはいません。では、どういう意味で使っているのかと言いますと、先に挙げた空想上の生物やアニメのキャラクターさえも、ここでは「具体的な存在」なのだということを、まずご理解いただくことで以て話を進めさせてもらいます。具体的であることは形相を持ち、イメージで以て理解できるということです。あるいは理解することが許されていると言ってもいいでしょう。空想上の生物…たとえばユニコーンを浮かべるとして、ユニコーンはイメージで見られるところで以てそれと理解することができます。アニメのキャラクターもまた、それがそれであることを理解するに難儀しません。対して「観念的な存在」の方はその限りではないのです。たとえば暗黙裡に了解されているようなナニカがあるわけです。不文律と呼ばれるようなナニカが。それは成文化しようとした途端に自分たちが合意していた、共通了解していたことが実はよくわからないものだったと判明したりする。民意とか空気とか、世間とか常識とか言ったもののことだと思えば察しが付くのではないでしょうか。わたしが「観念的な存在」と用いるのは、そのような〝有る〟ことはわかっているのに具体的ではないもののことなのです。

*2:バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』河村正夫他訳,みすず書房,1983,p171を参照した、木村敏による訳語修正を経た訳文。『あいだと生命』のp152からの孫引き

*3:バンヴェニストはそのような文法規則の消息から、能動態を「外態」、中動態を「内態」と呼ぶことを提案してもいます。

*4:マルティン・ハイデッガー『道標』辻村公一,創文社,1985年,p423

*5:存在論的差異;〈場〉という概念を用いてきたことを踏まえれば、存在と存在者との差異の生成を可能とする〈場〉こそが「存在そのもの」となるのです。

*6:木村敏『あいだと生命』,創元社,2014,p130

*7:マルティン・ハイデッガー形而上学入門』川原栄峰訳,平凡社,1994,p66-67

*8:同上,p329――原文での「ニヒリスムス」を「ニヒリズム」へと変更。

*9:SNSで、なんら発信を行わないユーザーを想定すれば、そのユーザーはネット上のあらゆるコミュニティー、あらゆる他のユーザーから、その利用を認知されることはありません。そこでも〈見ること>にさらされているかどうかが、当人が〝ナニモノデアルカ〟(存在感・実在性)を担保しているという消息があるのです。

*10:[https://twitter.com/nahoishii_7/status/1077635575916593152:embed#この表現は間違ってたな死者の側から眼差したときに生の全体観が感じられ、その全体観にはまるで意味がないが、しかし意味がないという意味が実感されることが日々を安定させる https://t.co/K1v8Xwn0n]

*11:事実、本稿でのとりわけハイデガーに関する言及は、研究者が扱うような慎重さに欠いたものであることを自認しています。むろんわたしは自らの間違えをさらすつもりで書き上げたのでありません。ただ、完璧に理解するよりも先に、どのように使えるのかどうか、先哲の言葉や思考を動かしてみたかったのです。わたしは本稿において、正誤表よりも使用感のほうを求めます。