can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【創作とは何か】マッチュの描いた芸術家の精神構造【詩へいたる病】

こんにちはザムザです。東京都美術館で開催されている『クリムト展 ウィーンと日本 1900』に行ってきました。そこでクリムトについて感じたことを書いてみようと思い、いざ書きだしてみたらマッチュが主役になってしまいました。というのもクリムト展にはクリムトと同じくウィーン分離派であるマッチュの作品もあったのです。

予定を逸れて今回書きあげてしまった記事は、クリムトではなくマッチュの作品である「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」を前にぼくが感じたことのエッセイになりました。

キーワード:フランツ・マッチュ、キェルケゴール、創作、詩へいたる病

 【書いてあること】

  • 芸術家は創作活動をする際に自身のミューズにまなざされることになる。
  • あらゆる創作活動は人間の意識を〈ひとりであること〉へと差し向ける。
  • 創作とは創作者と作品の関係、さらには創作者とミューズとの関係に限ったものなのではなく、関係自身へとまなざしを向けるそのまなざしさえも作品化できるようなまなざしのことである。

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Franz von Matsch 「Leonardo da Vinci playing chess with his muse」(1889)

 

 ぼくの詩や小説、絵画に映画に――ひいては芸術への関心は、うえのフランツ・マッチュの作品に結晶されている。マッチュの「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」にぼくが見るものは、人間のあらゆる創作行為に共通する精神構造なのだ。

 

 ミューズは美の女神、もしくは詩の女神とされている。そんなミューズが創作にふけるダ・ヴィンチを見つめている。チェスの盤上は創作者が関与できる世界だ。そしてそこ以外に目を向けられない世界でもある。

 ダ・ヴィンチは盤上に目をやる。ミューズはそんなダ・ヴィンチの瞳をまっすぐ見つめている。そしておそらく、彼女のほうでは盤上に目をやることはない。ミューズが読むのは駒の動きではなくダ・ヴィンチのまなざしだからだ。

 

 この二人の人物は、ひとりの創作者が創作する最中に立ち上がる関係性を表している。あらゆる創作活動は人間の意識を〈ひとりであること〉へと差し向ける。その事情は共同制作においてさえ変わらない。肝心なのは〈ひとりであること〉においてさえ、創作者はひとりきりなのではないということである。

 哲学者のキェルケゴールは『死へいたる病』のなかで人間を以下のように定義している。

 

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

 

 

 わかりにくい文であるが、ようするに自分が自分であることのうちには、自己と他者との関係自体をまなざすまなざしがあるということである。そしてそのまなざしは自分自身をもまなざすようなまなざしでもあるというわけだ。

 

 創作者の話に戻そう。創作活動にあっても創作者は自分自身をまなざすまなざしを手放すことはないのである。さながら「詩へいたる病」を抱えた創作者たちの精神も、〈ひとりであること〉の最中になんらかの関係を含みこんでいるのだ。

 「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」はひとりの芸術家(=創作者)が作品作りをしている際の精神構造を表している。ダ・ヴィンチはチェスの駒をどのように動かすかに心を折る。自身を創作へと駆り立てる内なるミューズのまなざしを覚えつつ。そこには関係がある。すなわち創作者が自らの作品へのまなざしがあり、そしてそのまなざしを見守るミューズのまなざしとが。

 

 創作はひとりで行うものである。誰かの協力があったとしても、その誰かと分担が違うという点ではやはり創作行為はひとりきりでで行われる。ひとりで創作する最中にも関係は生じている。つまり、作品をまなざす創作者と創作者をまなざす彼のミューズとが。マッチュの絵画がいみじくも描出しているのは〝「作品をまなざす創作者と創作者をまなざす彼のミューズ」をまなざす創作者のまなざし〟なのである。

 

 「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」はつまり、キェルケゴールが定義した人間精神を、創作する創作者の精神に適用したものなのだ。

 キェルケゴールが「自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」と書くなら、マッチュは〝創作とは創作者と作品の関係、さらには創作者とミューズとの関係に限ったものなのではなく、関係自身へとまなざしを向けるそのまなざしさえも作品化できるようなまなざしのことなのだ〟といった風景を描いてみせたのである。

 

 余談だが、「女神(ミューズ)とチェスをするレオナルド・ダ・ヴィンチ」のミューズとヴィンチの二人は指輪をはめている。ミューズは左手の薬指に、ダ・ヴィンチは右手の薬指に。この、さながら婚姻関係にも絵解きできる指輪は、創作者=芸術家の「詩へいたる病」を証すものであるように思えてならない。つまりは約束された芸術家の証しであるかのように。

 

                                     _了