【MIHOシネマ】映画鑑賞にとってネタバレとは何か【映画ブログ紹介】
映画のあらすじ解説の総合メディア《MIHOシネマ | 映画ネタバレあらすじ結末》の紹介をします。同時に映画のネタバレとは何かを考え、映画を見るときにわたしたちが映画に対して期待していることとは何かをまとめました。記事の方向としては映画にネタバレはない!――です。
キーワード:映画、映画の観方、ネタバレ、エモさ
- 身近になった映画鑑賞
- MIHOシネマという映画情報サイト
- MIHOシネマはネタバレを......してる
- 映画鑑賞とネタバレ
- 〝わかる〟以前に映画は〝見る〟ものである
- 「MIHOシネマが教える情報」と「あなた自身が発見する意味」
- まとめ
身近になった映画鑑賞
あなたは映画を見ますか?
わたしは映画が好きです。
劇場でもDVDレンタルでも、動画配信サービスも利用して、映画を楽しんでいます。
いまは、ふだん映画館に足を運ばないひとでも、TSUTAYAでレンタルするばかりではなく、AmazonプライムビデオやNetflix (ネットフリックス)などの、ネット上での動画配信サービスから気軽に映画作品を見ることができます。
だからこそ、映画鑑賞のかたちも多様です。現に Filmarks という映画の鑑賞記録アプリでは、鑑賞記録を付けるときに「鑑賞方法」を選ぶ項目があり、そこには〝映画館〟〝試写会〟〝DVD / ブルーレイ / VHS〟〝動画配信サービス〟〝TV地上波〟〝BS / CS〟〝飛行機〟〝その他〟――以上、合計8つの選択項目が設定されています。
鑑賞方法が多様であることは、映画が誰にとっても身近なものになっていることを示しています。
とはいえ、作品の数は膨大です。
映画を見ようと思っても、どの作品を見ようか決めることにも時間が掛かってしまうこともあるでしょう。それはひとつのコストです。
〝どれを見ればいいのだろう......?〟
「好きなものを見ればいいじゃない!」
好きなものを見ればいいと言ったって、どれが自分の好きな作品かわからなければ好きも嫌いもありません。
欲しいのは、参考になる情報です。
せっかく映画を見るのにツマらない作品は見たくはありません。
求めるのは、コストパフォーマンスです。
お金も、時間も使うわけですから......。
映画作品を見る前にAmazonのサイトの商品レビューでも、Filmarksの映画感想でも覗いて参考にしたいのが人情というものです。
なにか......映画を見るひとのお金と時間の効率化と、それから映画への愛をバックアップしてくれる情報サイトがあればいいのに......。
――というニーズに、本記事ではひとつの回答を提案させてもらいます。
MIHOシネマという映画情報サイト
《MIHOシネマ | 映画ネタバレあらすじ結末》(以下《MIHOシネマ》)という映画情報サイトがあります。
副題には「暮らしに彩り 映画が身近になるサイト」とあります。見たい映画に迷子になっているあなたは「むむっ!」となられることでしょう。
さらに、すでに映画通なひとにとっても、《MIHOシネマ》が6000本もの紹介記事を持っていることは驚かずにはいられないのではないでしょうか。
紹介されている映画もミーハーな娯楽作品ばかりではなく、思いがけないマイナーな作品も押さえられていたりするので、やはり「むむっ!」とさせられます。
たとえばデヴィッド・リンチ監督の作品などもいくつか紹介されているのですが、リンチ作品がどのようにまとめられているのかということも興味をそそられるポイントです。
《MIHOシネマ》はまた、作品の基本情報もそうですし、公式サイトやパンフレットにも劣らぬ登場人物紹介も掲載されています。上映中の作品も押さえられていて、予告動画も記事から閲覧できる仕様。はたまた役者や監督にまで紹介が及ぶのです!
ひとつ実際の記事を参照してみますと、橋本光二郎監督の『雪の華』なる映画を紹介した記事があります。
映画『雪の華』のあらすじ・感想・評判・口コミ(ネタバレなし) | MIHOシネマ
この映画は2019年2月1日から公開された作品で、本記事を書いている2月5日時点では公開中の作品となります。つまり、これから映画館で見るかどうか悩んでいるひとに向けて、旧作の紹介よりもチカラの入った記事になっているはずなのです。
映画の内容はさておいて、『雪の華』の記事のチカラの入りようを、旧作と目次を比べることで実際に見てみることにしましょう。
まず、さきほど挙げたデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(2001)の目次をご覧ください。
目次
1 マルホランド・ドライブの作品情報
2 マルホランド・ドライブの登場人物(キャスト)
3 マルホランド・ドライブのネタバレあらすじ(ストーリー解説)
3.1 マルホランド・ドライブのあらすじ【起】
3.2 マルホランド・ドライブのあらすじ【承】
3.3 マルホランド・ドライブのあらすじ【転】
3.4 マルホランド・ドライブの結末・ラスト(ネタバレ)
次に『雪の華』の紹介記事の目次を見てみましょう。
目次
1 雪の華の作品情報
2 雪の華の作品概要
3 雪の華の予告動画
4 雪の華の登場人物(キャスト)
5 雪の華のあらすじ(ネタバレなし)
6 雪の華の感想・評価6.1 両親の思い出の地、フィンランド
6.2 主題歌はもちろん中島美嘉「雪の華」
6.3 大切な人に「雪の華」を贈ろう
7 雪の華の公開前に見ておきたい映画7.1 Orange オレンジ
7.2 いま、会いにゆきます
7.3 世界から猫が消えたなら
8 雪の華の評判・口コミ・レビュー
9 雪の華のまとめ
――はい。あきらかに違います(笑)
『マルホランド・ドライブ』では作品情報・登場人物・あらすじの3セットで収められています。
それに比べて『雪の華』では3セットのうちのあらすじのくだりに「ネタバレなし」の補足がされていますし、予告動画や映画の公式キャンペーンの紹介、更には「公開前に見ておきたい映画」なるくだりもあって、映画紹介記事としての至れり尽くせり度がぐぐんと上がっていることがわかります。
いかがでしょう!《MIHOシネマ》!
あなたの映画生活のお供に!
……え? 《MIHOシネマ》は良さそうだってのはわかったけど、「ネタバレ」しちゃってるじゃないかですって?
はい、その通りです。《MIHOシネマ》はネタバレします。
MIHOシネマはネタバレを......してる
《MIHOシネマ》では基本的に、映画紹介記事では(一部上映中の作品を覗いて)作品のネタバレをします。
サイト自体の紹介文にも次のように書かれています。
映画のあらすじ解説の総合メディア。ネタバレを含めてストーリーを結末までわかりやすく簡単に解説。公開予定の最新映画の感想・評判・口コミも紹介しています。
紹介されているように、サイトの運営理念としてネタバレ込みでの紹介であることが宣言されているのです。
「ちょいちょいちょい、ネタバレはマズいんじゃないの?」
――なんてお考えのかたもいるでしょう。
わたし個人の思い出からも『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の公開されていたとき、知人が映画館に見にいくまでにヘッドホンで音楽を流し、座席に座って映画がはじまるまで耳を塞いでいたのがいました。そのひといわく「どこで誰にネタバレをされるかわからない。何も知らないまっさらな状態で作品を見たかった」とのこと。
そこまでいくと極端ですが、多くの場合に〝ネタバレをするひと〟は悪者として語られる傾向があります。先に挙げた Filmarks のアプリでもユーザーが映画の感想を投稿するフォームには、この感想がネタバレを含んでいるのかどうかをチェックする箇所もあります。
だからこそ、《MIHOシネマ》がネタバレをしながら映画の紹介記事を掲載していることは、そのこと自体で反発を覚えるかたもいるかと思います。
とはいえ、とはいえ、です。
映画にとってネタバレとはなんでしょうか?
映画鑑賞とネタバレ
2種類の映画の楽しみ方
わたしたちは映画の何を見ようとしていて、何をバラされたら「ネタバレされた!」と思うのでしょうか?
誰かにネタバレされたことに怒りを覚えるとして、これから見ようとしていた映画の何がバラされることで、本来なら自分が楽しめたはずの映画鑑賞の体験が台無しにされると言うのでしょうか?
おそらくは「ストーリーの展開をバラされることによってだ!」と怒る方がいることでしょう。
ですが、ここで疑問が起こります。
はたして、映画はストーリーを見るためだけにあるのだろうか?
ストーリーを見るためだけに〈映画鑑賞〉があるのだとすれば、ストーリーの展開、つまり映画のあらすじをバラされることは、たしかに「台無しだッ!」と怒る気持ちには共感できます。
他方で、別の意見もあります。
TBSラジオの『荒川強啓 デイ・キャッチ!』という番組のなかに、社会学者の宮台真司というひとが上映中の映画作品についてコメントをするコーナーがあります。そこで2018年に是枝裕和監督の『万引き家族』が取り上げられたときの放送のなかで、2つの映画鑑賞への姿勢が見られるのでご紹介します。
番組のパーソナリティである荒川とコメンテーターである宮台とのあいだに以下のやりとりがあります。
荒川「とにかく宮台さんは映画を紹介するとなると......あの、ネタバレをしてしまうんじゃないかってことがいつも気になるところでありまして......」
宮台「いい映画はネタバレしてもぜんぜん価値が下がりませんので、私は、絶対にやめません!」
※0:47~1:08あたり
荒川と宮台とのあいだにあるやりとりは、そのまま〝映画を見ること〟に対するふたつの鑑賞姿勢の違いを表しています。わたしなりに翻訳をすれば次のようになります。
- ①ネタバレをされたら映画が楽しめなくなってしまうという映画の観方
- ②ネタバレをされたら映画が楽しめないなんてことはないという映画の観方
荒川の①の姿勢はストーリーを見るという姿勢だと言えます。こちらはあらすじをバラされると、映画が台無しになってしまうので、ネタバレには反対だというわけです。
宮台の②の姿勢は、映画をストーリーとして見るだけではありません。あらすじ以上のナニカを表現しているものが映画なのだという認識があります。なので、②の姿勢では、あくまでもあらすじのネタバレは映画への興味を起こさせるためのダシでしかありません。〝バレ〟と言うほどのものではなく、せいぜいその映画について語るネタのひとつにしか過ぎないのです。
内容と本質:あるいは言葉でバラせるものと、バラせないもの
ようするに、2種類の映画の楽しみ方があるのですね。
以上の『荒川強啓 デイ・キャッチ!』での〝映画のネタバレ〟に関する話題(特に荒川の①のネタバレ観)では、ネタバレは言葉によってされうるものだという前提が読み取れます。
〝言葉〟という基準を置けば次のように整理することができます。①は言葉によって台無しになってしまう映画の楽しみ方で、②は言葉によって台無しになることのない映画の楽しみ方、と。
《MIHOシネマ》もまた文章記事で映画を紹介するサイトである以上、ネタバレは言葉によって表現されていることになるでしょう。だからこそ、〝言葉によって台無しになってしまう映画の楽しみ方〟をしているひとにとっては、 《MIHOシネマ》の「ネタバレもしてます!」――という運営方針はひとつの難点になってしまうのです。
しかし、ちょっと待ってください。
あなたは映画を見るのに、ホントに言葉で言い切れてしまうものだけを期待しているのでしょうか?
映画を見て、言葉で言い難いナニカを体験してしまうのではないでしょうか?
たとえ、それを期待してはいなくとも、です。
①と②の違いを〝言葉でバラせるかどうか〟で整理するとしたら、〝言葉で言い難いナニカ〟は、こう言ってよければ〝エモいもの〟です。
得も言われぬもの、その〈エモさ〉を、〝思いがけず〟体験してしまうところに、映画の楽しみ方のひとつはあるのではないでしょうか?
たしかに、映画の内容はネタバレできるかもしれません。しかしそれだけでその映画作品をわかった気になれるとしたら、それは映画をナメ過ぎです。
内容はネタバレできる。それはいいでしょう。しかし、映画の、作品の本質はバラせません。たとえ言葉にしたとしてもバラしたことにはならないのです。なぜなら本質は体験するまで明かされないのですから。体験したとしても、言葉では、その体験を表現できたというレベルには到達することはないのですから。
「エモい」という言葉をひとが使うとき、それは〝言葉では表せないナニカ〟があるのだけれども、それを言い表すことができないもどかしさがあり、もしくは、具体的に言ってしまってはシラけてしまうような事態があるのではないでしょうか。
おそらくは、うまく言い表すことができることもまた無粋なのです。なにせ、それは自分が体験したナニカを越えた感動を言葉によって言い表してしまうことになるのですから。すばらしかったのはあくまでも感動した体験のほうであるはずなのに。これではシラけてしまいます。
ひとが感動するのは〈映画の内容〉を見ることを通してとなるでしょうが、さらに内容から立ち現われてくるものもあるはずです。内容を通して、その〈映画の本質〉がひとに伝わり、ひとはその本質に触れたときに感動するのではないでしょうか。そこにネタバレはありません。*1
エモさにはネタバレがないのです。
たとえ鑑賞者が 〈映画の内容〉に惹かれ、鑑賞し、消費するのだとしても、〈映画の本質〉を消費しきることはできず、鑑賞しきることもできず、飽きがくることもないのです。
とはいえ、先に参照した宮台真司の発言にあるように、〝いい映画だからこそ〟ネタバレしても価値が下がらないだろうというのはあるのかもしれませんが......。*2
〝わかる〟以前に映画は〝見る〟ものである
あなたは映画を観ますか?
わたしは映画が好きです。
では、あなたは映画をどんな観方で見ていますか?
《MIHOシネマ》のネタバレ方針について検討していくなかで、わたしたちは「そもそも映画のネタバレってできるの?」という観点について考えました。
あまり突っ込んだ考察なんてできはしませんでしたが、ただ、ネタバレについて考えてきて、映画についての当たり前の事実に気づくことができた気がします。
それは、映画がどの作品も等しく〝見る〟ことに関わるということです。
キューブリック監督の映画『時計仕掛けのオレンジ』(1971)のなかで、不良少年アレックスが拷問の如き人格矯正プログラムにおいても映画が使用されていました。アレックスは眼球に目薬を差されながら、とことんスクリーンに映される映画を見せられるのです。(ちなみにこのとき、映画には音声はありませんでした。音楽は映画作品とは無関連に流されていたのです。)
そのとき、アレックスはたしかに、スクリーンに映った映画を見ていたのでした。
映画がもっぱら〝見る〟ことに関係する――それはいいでしょう。では、映画を見ることに掛けての専門家と言うべき映画批評家は〝見る〟ことについてどのように考えているのでしょうか。
映画について考えるプロとも言うべき映画批評家が、自身が、どのように映画を見るのかを書いた文章を引いてみましょう。
私は、まだ撮ったことのない映画を撮るようにして、作家と向かい合っていたのではないかと思います。要するに、徹底した観客無視です。見る者を代表するかたちで、一般観客向けに、この作品はこう理解すべきだといったことはいっさい口にしてない。*3
映画批評家は自身の映画の観方を、観客として見るようにではなく、映画監督が映画を撮るようにして見ていたのだと言うのです。
さらに、映画批評家は次のようにも言います。
映画において重要なのは、作者がその題材をいかに見せるかではなく、被写体に向けるキャメラを通して、作者が世界をどう見ているかを明らかにすることにあります。*4
映画とは何であるかを考えるのに、とても重要な文章です。
映画批評家は、こう言っています。〝いかに見せるか〟ではなく〝どう見ているか〟と。
以上の映画批評家の語る映画の本質で注意すべきは、どちらの〝見る〟も、言葉には関わっていないということです。どちらも鑑賞者が〝見る〟という目にまつわる行為に関係しています。
わたしたちは【内容と本質:あるいは言葉でバラせるものと、バラせないもの】の節で、言葉によるネタバレによって台無しになる映画の観方があることを示唆しました。つまり、映画を言語的に見ているひとがいて、そうではないひともいるのだ、と述べたのでした。
映画批評家はしかし、映画の本質的な部分を語るのに、言語的な理解の要素(たとえば作家の哲学やイデオロギーなど)を含ませず、ただ視覚的な〝見る〟という一事において語っているのです。
見ることは、〝わかる〟ことではありません。見えるものは見えた通りに見えるものなのであって、それは見えたもののことをわかることとは、また別のことなのです。言い換えれば、観察力と推理力は違うのです。
映画のストーリーやテーマをわかることのおもしろさはたしかにあります。しかしそれ以前に、映画は〝見る〟ことにおいて映画なのです。
「MIHOシネマが教える情報」と「あなた自身が発見する意味」
わたしたちは、映画とは何かについて当たり前の事実をひとつ押さえておくことにします。
映画はまず、見るものなのであって、わかるものではない――ということを。
さて、改めて、映画を言葉によってネタバレすることはできますでしょうか?――と疑ってみましょう。
少なくとも、映画はストーリーを見るためだけのメディアではないということがわかりました。(この場合の〝見る〟は〝わかる〟と言い換えることができてしまいます。)
もしも言葉によって映画を鑑賞するひとがいるとすれば、それは映画をストーリーを見るためだけのメディアだと思い込んでいるのかもしれません。
以上を踏まえると、《MIHOシネマ》が教えてくれるネタバレ込みの映画紹介も、これから映画を見ようと思っているひとにとって迷惑なものではないと理解することができるのではないでしょうか。
そして、改めて《MIHOシネマ》のネタバレ込みで映画紹介するという運営方針をわかろうとすれば、映画の内容のネタバレは次のような意味を持つように思われます。
これから見る映画を選ぶときに、鑑賞に先だってストーリー(あらすじ)を知ることは、その映画がどんな題材を見ようとしたものなのかを知ることになります。*5ひとによっては映画の内容に、映画作家のまなざしを見ることもあるでしょう。いずれにせよ、映画はただ「題材を見る」のとは違います。映画は「題材の観方を見る」のです。
題材の観方を見るのが映画だとすれば、ストーリー(あらすじ)のネタバレはこれから見る映画を決める参考にはなっても、これから見ようとした映画を台無しにはしません。
《MIHOシネマ》の映画紹介記事で、これから見ようか考えていた映画の鑑賞を台無しにされたと思われる方は、自分が映画に何を期待していたのかを少し考えてみるといいかもしれません。
映画を楽しむことに、かんたんに紹介されてしまうような映画作品の情報を見るだけなのか、それとも、安易に言葉にすることのできない映画作品の意味(より大げさに言えば(自分の?)人生の意味)を見るのか。
もちろん、趣味の問題として、好みのストーリー(あらすじ)の映画作品というものがあるでしょう。自分はこういうジャンルだと感じやすいのだという鑑賞傾向がありもするでしょう。だからこそ見たい映画を絞ることができるし、《MIHOシネマ》のサイト内の記事検索も生きてくるのです。そこで確認するのが作品情報だとすれば、実際にその映画作品を見ることは情報ではなく意味を期待することになるはずです。
〝意味〟と言いましたが、それは辞書を引いて言葉の意味を確かめるようなものではありません。それは〝生きること〟に関係するものです。たとえば、実際に体験することを通じて、経験者になることによってしか味わわれない境地というものがあります。戦争経験者を囲んでそのひとの語りに耳を澄ませることもそうです。そのときに、戦争経験者を囲むひとたちは経験者から情報を聴こうとしているのではありません。情報であればただ記録文献に目を通せばいいはずです。実際に戦争経験者の語りを、対面して聴こうとしているのは、文献には記録できないものと出会おうとしているからです。そのような自分の身体で体験することを通じてわかるものを、わたしは「情報」と対比させて「意味」と言うのです。
映画も同じです。何度も繰り返すようですが、映画が映画であるところでは、ネタバレはありません。情報は理解されるものですが、意味は発見されるものです。いくらストーリー(あらすじ)をバラされても、批評家が作品のテーマを明かしてくれようとも、そしてあなたがそれらを理解してしまったとしても、そのことによって映画自体を鑑賞し、体験することを通じて発見するであろう〝映画作品の意味〟の価値を貶めはしないのです。
つまりは、発見すべき映画の意味とは、誰かに紹介されるのではなくて、鑑賞者であるあなた自身が発見するものなのです。
だからこそ、《MIHOシネマ》のネタバレで映画を鑑賞することの価値を下げられたと感じる必要もないのです。
まとめ
以上は、《MIHOシネマ》の紹介とそれにまつわる「映画を見る」ことについての点検となります。その過程で、映画にネタバレはないという考えを確認することとなりました。
とはいえ「映画にネタバレはない!」と言っても、もう見てしまったひとからネタバレをされるのはムッとなります。しかしその感情は《MIHOシネマ》のするネタバレとは関連しません。
見る映画を決めるために、わたしたちが参考にしていることと、実際に映画を見ることとのあいだには違いがあるのです。その違いを埋めるためにも作品の情報がいります。その情報にネタバレの要素があったとしても、わたしたちはバラされることのないものを、映画作品を見ることのなかで発見すればいいのです。
映画の情報をわかることは「ふ~ん」で済ませられますが、映画の意味を見ることは「エモい」のです。*6
感動を他人と共有できるのは自分が感動することになった対象だけであるように、感動している自分自身は誰にもバレることがありません。自分の感動を他人に伝えようとすれば、ただ「ふ~ん」と思われるだけの情報になってしまいます。
「エモい」を見つけるための手段として映画があるのも、しばしば映画の広告に「泣ける!」だの「感動巨編!」だのという文字が躍っていることからも読み取ることができます。実際に映画を見たひとたちを映して「感動しました!」「最高でした!」と言っている広告動画もよくあります。しかしそれらを見るわたしたちは感動だとも最高だとも思えません。たとえ実際に映画を鑑賞して感動したとしても、広告で感想を叫ぶ彼らに対して共感をすることはできません。それらはただ「ふ~ん」としか思えない情報でしかないのですから。
ようするに映画の感想も内容のネタバレも、感動して「エモさ」と感じることの価値には及ばないのです。
頭でわかっても身体でわかっていないとダメだという考え方がありますが、「ふ~ん」と「エモい」の違いもそれと同じです。映画の場合は、ストーリーを追うことは頭の役割で、目で見る行為が身体でわかることに当たります。
仮に、「映画を見ること」が、頭でいいなぁと思った作品を、目に〝見せる〟ことなのだとしたら?
映画と見て感じた「エモさ」が、頭でした映画の期待に対する身体のオーバーリアクションなのだとしたら?
――以上のように、「映画を見ること」と「映画をネタバレすること」について考えると、《MIHOシネマ》の〝ネタバレ込み〟での映画紹介をする運営方針は悪いものではないように思えます。
むしろ、本稿のように鑑賞者が映画を見る観方や楽しみ方についての反省のきっかけになりもするでしょう。なにせ、ネタバレというのは、自分が見ようとしていたものをバラされることですから。それは同時に、自分が何を見ようとしていたのかということが露見することになります。つまり鑑賞者自身の映画との関係の取り方を明かしてくれるのです。
映画との関係の取り方が明かされた後で、わたしたちは映画と別の関係を結ぶことができるかもしれません。
たとえば、ネタバレに対して神経質にならなくなったり、とかね。
ではでは、よい映画ライフを!
_了
*1:映画の本質;映画の本質とは何かを、わたしは具体的な表現で表さない。ただ、曖昧で、ぼんやりとしていて、とりとめのない表現をひとつ挙げたのが「エモい(さ)」である。
*2:〝いい映画だからこそ〟ネタバレしても価値が下がらない;「いい映画」はたとえストーリーをバラされたとしても、それ以上に映像作品として素晴らしいので、作品としての価値が下がることはない。いくら頭でストーリー(あらすじ)を理解したとしても、一度の鑑賞体験に勝るものはない。もしも、ストーリー(あらすじ)で満足できる程度の映画作品があるとしたら、その作品は別に映画でなくても構わなかったということになる。ノベライズ作品だけで事足りたり、それこそ映画紹介記事やWikipediaを読むだけで〝見たつもり〟になれる。そうなると映画は、単にストーリーのメディアであるということになってしまう。ようするにそれは、映画作品が映画であることの敗北なのである。
*3:蓮見重彦『映画論講義』,東京大学出版会,2008,p402
*4:同上,p462
*5:題材;題材とはストーリー(あらすじ)だけではなく、役者も含め、公式サイトに紹介されていること。加えて《MIHOシネマ》においてネタバレとされる諸々も含めたもの。
*6:〝わかる〟と〝見る〟;〝わかる〟は頭でする「理解」のこと。〝見る〟は身体でする「体験」のこと。情報が〝わかる〟ということは、その情報を〈使う〉ことができるようになることだが、意味を〝見る〟ことは、その意味を〈生きる〉ということになる。また、感動するというのは頭で感じることではない。感動は全身で感じることだ。〝見る〟ことで感動することは全身で意味を体験することなのである。