can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

映画『ナポリの隣人』:通訳者は弁護士をウソつきと解釈する

2019年3月12日に映画『ナポリの隣人』を観ました。ジャンニ・アメリオ監督の映画です。ひとつの家族のすれ違いを、移民問題を抱えるナポリを背景にして映した作品。実の家族でうまくいっていなかった関係を、移民である隣人家族との関係ではうまくいきそうになってしまう父親とその娘の関係について書きました。

キーワード:真理と事実、解釈と通訳、家族と移民

f:id:dragmagique123:20190324014843j:plain

ナポリの隣人』を観る前のイメージ 

 『ナポリの隣人』を事前に調べていったところでは「家族の物語」だとのことでした。さらにそこにイタリアに押し迫っている移民問題が背景にあるのです。
 他の誰よりも親密であるはずの家族関係で実現できなかった親密さがある。けれども、一種のはぐれものでさえある移民の家族との付き合いのなかで、〝家族のような〟親密さが実現できる、……かもしれない。
 そういった〝かもしれなさ〟を描きつつ、家族関係は親密であるという価値観が当たり前〝ではない〟という現実を描いた作品なんだろうな。
 ――そういった期待を以て、わたしは鑑賞に臨んだのでした。

 

 簡潔に言えば、ナポリの隣人』は血の繋がりがあるだけで家族でいられることの難しさと、血の繋がりのない者たちと思いがけず家族になってしまえもする偶然さを描いた作品だろうと考えていました。つまりは、他者であることの事実と他者であるがゆえの交流の可能性を映したもの――なんてことをぼんやりとイメージしながら。

 

ナポリの隣人』のあらすじ

 とりあえず、まずはどんな映画かってことを確認してみましょう。あらすじの引用は映画紹介ブログ『MIHOシネマ』に掲載されているものを使わせてもらってます。

イタリア、ナポリ。元弁護士のロレンツォは、かつて家族で暮らしていたアパートに独りで暮らしていた。妻が亡くなってから子供達と関係も悪化し、会話することもままならなかった。娘のエレナは父に愛人がいたから母が亡くなったと思い、恨んでいた。息子のサヴェリオはクラブの経営が悪化し、金をせびりに父に会いに行っていた。

そんなある日、ロレンツォの隣に若い夫婦(ミケーラとファビオ)と幼い子供達が引っ越してきた。ロレンツォはミケーラ達家族と交流を深め、自分の子供や孫とでは得ることができなかった穏やかで幸せな時間を過ごすことになる。

だが、そんな幸せな時間が突然幕を閉じる。ロレンツォが家に帰ると、救急車やパトカーが止まっていた。隣家である事件が起こっていた。エレナ達は父を心配するが、ロレンツォは子供達を拒み隣人の家族のことを心配していた。エレナ達は血が繋がっている家族よりも隣人の家族に心を砕くロレンツォのことが受け入れられなかった。

mihocinema.com

 

 さしあたっては、メインの視点は元弁護士のロレンツォになっています。サブの視点に通訳の仕事をしている娘のエレナの視点がある、そういうふうに観ることができます。とはいえ実質的にはこの父と娘の2人が主人公であると観るべきでしょう。

 

 

血の繋がりだけで、心は繋げない。

 まず気がつくのは父子ともどもが言葉に関連した仕事に就いている(た)という点です。このことはとても重要です。

 

 『ナポリの隣人』のキャッチコピーは「の繋がりだけで、は繋げない。」になっています。人と人とを繋ぐのは素朴な考えをすればコミュニケーション、つまりは言葉によるものだと言えます。

 結婚を例にとれば夫婦同士には(近親でもない限りは)血の繋がりは保証されてはいません。そこを繋ぐのが言葉による約縁というわけです。結婚や夫婦はひとつの例ですが、心を繋ぐためには意思疎通が必要です。

 

 『ナポリの隣人』で焦点が当てられるのは親子関係です。血縁ですね。けれども血縁だからと言っても良好な関係だとは限らない。たとえばこの映画のロレンツォとエレナ父子のように。彼らのあいだには、まともな会話がありません。互いに相手のほうが自分を避けているのだとさえ思い込み、意思疎通のための言葉もないのです。

 冷えた親子関係を反映するように、エレナの息子も祖父であるロレンツォに対してあまり懐いていません。冷たい娘と可愛げのない孫。ロレンツォは自身を孤独な老人だと自嘲します。

 

映画冒頭で暗示される核心

 ナポリの街のほうに目を向けてみれば移民たちが安住の地、そして法的な保護を求めて押し寄せています。移民たちはどうにかして、法的な保護下に入ろうと裁判所で虚偽の訴えさえする。それを通訳する仕事をしているのがエレナです。

 

 映画の冒頭、エレナは聴取されている移民が自分に都合のいい言葉を発しているのに耐えられず、「彼の言っていることはウソです」と裁判官に向けて言わずにはおれません。エレナの移民に対するこうした潔癖な態度は、父であるロレンツォとの確執が反映されているのです

 

 あらすじで確認したようにロレンツォにはかつて愛人がいました。エレナは母が死んだことをロレンツォの家族への裏切り、ひいては夫婦の約縁関係への裏切りによるものだと信じています。つまりエレナにとってロレンツォは彼女の母に対して、愛人を作っていたウソつきなのです。エレナはそのことを許せずにいるのです。

 

  また映画の冒頭、エレナが移民の発言を受けて、裁判官に向けて自分の解釈を言いますが、このときにエレナは裁判官から「通訳は余計なことを言わなくていい。被告の言葉だけを訳しなさい」と言われます。このシーン、そしてその言葉は映画『ナポリの隣人』の核心を暗示しているのです。 

 

 どういうことか?

 

 追って確認していきましょう。

 

ロレンツォと隣人

 ロレンツォは昔家族で住んでいたアパートにひとりで住んでいます。ある日、貸しに出していた隣の部屋に若い夫婦とその子どもたちとが越してきます。彼らは移民です。

 ロレンツォは隣に越してきた若い夫婦の妻であり母であるミケーラと親しくなります。移民の家族とロレンツォには血縁関係はありません。しかし隣あって暮らしていることで地縁関係があります。ロレンツォは彼らと交流を深めていくなかで、自分の血縁の家族の冷え切った関係よりも遥かに血の通った地縁関係を作ります。

 

 ミケーラは、ロレンツォにとって自分の娘のように映っていました

 

 実の娘であるエレナは、本当の家族との関係を差し置いて隣人家族に心を通わせている父に納得がいきません。苛立ちさえ感じます。

  エレナは父親のことを恨んでいますが、その感情は逆を言えば、父親のことを〝どーでもいい〟とは思えないことを表しています。ロレンツォの息子でエレナにとっては弟であるサヴェリオが自分たちを突き放す父親のことを見限るのに対して、エレナは弟のようには割り切ることができないのです。

 

 

 ロレンツォと隣人との交流は穏やかなものであるように見えました。

 しかし、ある晩ロレンツォがアパートに帰ると、警察が立ち入りを禁じている。

 不吉な予感を胸にロレンツォは遮る警官を押しのけて自分の部屋に向かうと、隣人の部屋から次々と運ばれていく――遺体、遺体、遺体。 

 

 唯一植物状態として入院したミケーラに、彼女の父親だと偽って付きそうロレンツォの生活がはじまります。

 事件のことを知ったエレナとサヴェリオが病院にやって来ますが、ロレンツォは彼らを部外者だとして追い返してしまいます。

「この病院は部外者は立ち入り禁止だ」

 エレナの不満は募ります。

 

2つの象徴的なセリフから

「子どもはなぜ成長などする?」

2つのセリフがあります。

 一方がロレンツォの、もう一方はエレナが言われたものです。

 

 ロレンツォは弁護士時代の知人に興味深いことを言います。

子どもはなぜ成長などする?

 ロレンツォが自分自身の子どもとの〝うまくいかなさ〟を、ここでは漏らしています。

 ロレンツォにとって子どもの成長は好ましいものに映ってはいないのです。

 それはなぜなのでしょうか?

 

 ロレンツォの家族関係のうまくいかなさ、とりわけ子どもとのうまくいかなさを眺めてみましょう。

  まずエレナとの関係がよくない。なぜかと言うとロレンツォが愛人を作ったことによって、母親は自殺したのだとエレナは思い込んでいて、恨まれているから。さらには映画を観ると、エレナはロレンツォの弁護士時代の仕事のやりかたに対しても反感を覚えていることがわかります。ロレンツォは現役時代に金を積まれれば違法であることをも押しのけるような弁護士だったのだと語られているのです。

 次にミケーラとの関係。こちらは良好です。ミケーラは実の娘ではありませんが、重篤な状態で病院に運ばれたときに、ロレンツォはミケーラの父親を名乗っています。明らかに、ロレンツォは隣人一家に対して家族的な関係を見ているのです。そして、こちらの家族とは、少なくとも隣人としてはうまくいっていたのでした。

 隣人であるミケーラとの関係に的を絞れば、関係がうまくいっている娘のようなミケーラと、実の娘だけれどうまくいっていないエレナとの違いが気になってくるところです。

 

 おそらくそれはエレナの父親への姿勢にヒントがあります。

 

「弁護士で誠実っていう方が無理が……」

 終盤、ロレンツォはミケーラの夢を見ます。ミケーラはロレンツォに自分は大丈夫だと伝えます。けれどもミケーラは家出をした身であり、病室を訪ねてくれる身内もいないのです。移民であることも含めて天涯孤独なのです。ロレンツォはそのことをわかっているので、自分はミケーラの父を名乗ってまで彼女の側にいたのでした。

 しかし夢のなかのミケーラは自分には家族がいると言うのです。だから、大丈夫だ、と。

  その後、ロレンツォは行方不明になります。暮らしていたアパートにも戻りもせず、放浪します。エレナはそれを心配し、ほうぼうを探すのです。忌み嫌っていた父の愛人の家にさえも行きました。

 そんななかエレナは父の弁護士時代の仕事場にも訪れます。父の知人である男に、父は誠実ではなかったという話をすると、次のような言葉を言われたのでした。

弁護士で誠実っていう方が無理が……

 弁護士が誠実であるってことのほうが無理がある、という男の言葉は納得できます。言葉を使ってある立場を弁護をするのが弁護士です。それはつまるところ、雇い主に肩入れをするということです。この〝肩入れ〟の態度がエレナが考えるように誠実ではないのだとすれば、誠実であろうとする弁護士なんて誰も雇いたいとは思えません。特に移民にとっては。

 

 注意しておきたいのはエレナもまた肩入れをしているという点です。しかしそれはロレンツォとは反対陣営への肩入れなのです。エレナが肩入れしているのは当局、つまりは〝〟の側に。

 

 映画冒頭のシーンを思い出してみましょう。エレナは通訳をしています。ひとりの移民男性が聴取に掛けられていて、エレナは彼の訴えを通訳していたのでした。しかしエレナは聴取の前に移民男性がウソをついていることを事前に知っています。なのでその情報を訳のなかに含ませずにはいられなかったのです。この点にエレナの考える誠実さがあるとすれば、彼女の〝自分は正義の側に立っている〟という実感を求めたある種の執着を読み取れます。言い換えれば〝正しさ〟への執着が。

 

 さて、話を折り返しましょう。

 

2つのセリフを折り返す

子どもの成長は、正しさに目覚めること

  ロレンツォは子どもの成長が好ましくなかったのでした。そして自分の子どもであるエレナとはうまくいっていなくて、ある日できた隣人のミケーラとはうまくやれている。この対比を考えるのに〝うまくいっていない〟ほうの娘であるエレナのほうに目を向けてみます。冒頭のシーンでそうだったように、エレナは誠実さや正義、つまりは正しさへのこだわりを持っているのでした。この点にロレンツォが思い浮かべる「子どもの成長」を見て取ることができます。つまり分別がつき、正しいこととそうでないこととを見分けられるようになること。そのことがエレナからロレンツォを遠ざけるのです。ゆえに――

 

「子どもはなぜ成長などする?」

 

 ――という嘆息も出てくるのです。

 

 ロレンツォにとっての〝成長した子ども〟としてのエレナのマズさをもう少し掘り下げてみましょう。

 

成長した子どもは、真理へと解釈する

 成長した子どもであるエレナがしたことは父親の糾弾でした。ダメ出しですね。家庭を省みずに(職務上での)不正を積み重ね、その果てに外に愛人を作り、母親を死に追いやったのだ――と。ここでエレナに働いている価値意識には、大きく解釈の操作が見て取れます。

 実際のところでは、父親の不倫と母親の自殺のあいだはっきりとした因果関係はありません。しかし出来事としては前後の関係にあった。その前後関係から、エレナはあるひとつの物語が組み立てることができたのです。夫に裏切られて傷心の妻が思い余って死を選んだのだ――そんな物語が。

 以上はひとつの例ではありますが、重要なのはある物語を信じたときに、ひとはその物語に当てはまるように事実を解釈していってしまうということです。つまり物語があるところに真理もできあがるのです。真理はまた正義の観念も召喚します。

 極端な言い方をすれば、エレナは父親を不正なものだと位置づけ、彼を糾弾する正義の側に自らを位置づけたのです。

 おそらくは父親であるロレンツォが法に関する仕事をしていたことは、エレナにとって正義の側にいるものだと理解されていたのでしょう。正義であるはずの弁護士ロレンツォが愛人を作り、家族であることにとって明らかな不正を働いたという事実はエレナには容認し難かったのだろうと思われます。だからこそ家族であること治安の外側に位置づける解釈の操作が必要だったのです。

 

 そうしたエレナの姿勢は、父親であるロレンツォにとっては、さながら〝子どもの成長〟として理解されたのではないでしょうか。

(ロレンツォは幼い子どもに対してはやさしさを見せます。自分の孫、隣人の子ども、バスで乗り合わせた子ども。いずれも社会というものを知らない幼い存在でした。〝成長した子ども〟であるエレナと、そうした幼い子どもたちとの違いを言い表すのにも、真理への態度に由来する正義の観念は有効でしょう。幼い子どもたちは真理のために解釈はしない存在なのです。)

 

ナポリの街の部外者

 弁護士としてのロレンツォは不法もやむなしの姿勢でいました。その点では法の外側にいます。そのうえで〝成長した子ども〟によって父親は家族という法の外へも追いやられることになったのです。年老いて仕事も辞めた今となっては、長年勤めた職場も家族と暮らしたアパートも、居心地の良い場所ではないのです。ロレンツォは映画の冒頭でもアパートを離れてあてどなく放浪していたようですが、その訳も納得がいきます。彼は居場所のない「部外者」だったのです。

 

 そんなところに現れたのが隣人でした。

 エレナは自分の解釈によって父親との確執を抱えているとはいえ、父親のことを気に掛けています。おそらくその心境は夫と別れてシングルマザーになったという心細さにも掛かってくるでしょう。しかし態度の冷たい父親。娘である自分を「部外者」だとさえ呼ぶ父親。

 

 エレナは父親にとっての隣人がわかりません。

 

 しかし鑑賞者としてのわたしは、エレナに代わって次のように理解します。

 

 弁護士としては社会から、父親としては家族から追いやられたロレンツォにとって、移民である隣人は自分同様に、このナポリの街の部外者だった。だからこそ血の繋がりよりも強くシンパシーを感じることができた。そしてナポリの街の部外者同士であるロレンツォとミケーラの関係にとっては、実の親子関係と言えど、「部外者」なのだった。

 

ナポリの隣人』を観た後のイメージ

 話を映画の終盤の話に移します。ミケーラがロレンツォの夢に登場して「自分には家族がいる」と彼に伝えたのでした。この夢の後で、ミケーラが植物状態で横たわっていた病室に行くと、そこには空のベッドがあるだけでした。この後にロレンツォは姿を消すのです。

 行方不明になったロレンツォには安らぎをくれたミケーラという隣人を失っています。ただでさえ「ナポリの隣人」と出会う前のロレンツォには居場所がなく、手に入れたと思った血の通った人間関係でさえも、失ってしまった。

 

 ………………。

 

 その後に、どのような結末を迎えたのかは書きません。

 

  しかし、究極なところでは冒頭の裁判官の言葉に掛かってくるように思われます。 

通訳は余計なことを言わなくていい。被告の言葉だけを訳しなさい

 〝余計なこと〟というのは解釈のことです。事実を解釈によって物語化して、真実を作り上げることです。真実はときに事実の意味を改変してしまいます。そこには容易く誤解や思い込みが入り込む余地があります。なにせ言葉を解釈する主体はあくまでも〝解釈する側〟なのですから

 しかし〝被告の言葉〟は事実です。通訳者がそうするように、事実としての言葉は文法的な規則やイディオムなどによって誤解することがありません。通訳の場面では言葉の主体は〝通訳する側〟ではありません。通訳では言葉の主体はあくまでも〝通訳される側〟なのです。

  以上の見立てをロレンツォとエレナとの関係に適用すれば、エレナは解釈をしてしまっていたのでした。父親に愛人がいて、母親は自殺をして――そうして傷ついた自分自身を救うために、父親を糾弾する解釈者になってしまったのです。エレナは当時は通訳者ではなかったにしても、映画冒頭での裁判官の言葉は痛切に響くことは確かです。

通訳は余計なことを言わなくていい。被告の言葉だけを訳しなさい

 通訳者であれたとしたら、エレナは父親に愛人がいた事実と母親が自殺した事実とをひとつの物語にまとめたりはしなかったかもしれません。

 

 この記事の冒頭で、わたしは『ナポリの隣人』を鑑賞する前にしていたイメージを次のように書いていたのでした。

 簡潔に言えば、ナポリの隣人』は血の繋があるだけで家族でいられることの難しさと、血の繋がりのない者たちと思いがけず家族になってしまえもする偶然さを描いた作品だろうと考えていました。つまりは、他者であることの事実と他者であるがゆえの交流の可能性を映したもの――なんてことをぼんやりとイメージしながら。

 以上を、鑑賞した後にこの記事というかたちでまとめたことを踏まえて書きなおすと、次のようになります。

 

 簡潔に言えば、ナポリの隣人』は家族であるという事実関係に解釈を持ち込んでしまうことの愚かさと、心を通わせるためには血の繋がりよりも同じような傷を抱えている者同士であることのほうが大切なのだと説く作品です。つまりは、国や社会、家族などからも部外者にならざるをえなかった者たちが、それでも誰かと家族であることを求めてしまう〈ひとの切なさ〉を映したもの――なんてことを、この記事を書いたあとではイメージしています。

 

                                     _了