can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

映画『モリのいる場所』:ある無一物な芸術家の肖像

モリのいる場所』という芸術家の日常を扱った映画を観て考えさせられたこと。芸術家というものを言い表すのに主体という言葉では役不足だという観点から、デカルトやカントを経由して、自然を反映する媒体としての芸術家像を探ります。そこでは自由という言い方さえ相応しくない。(2018/11/28-12/9)

 キーワード:芸術家、無一物、宇宙のここさ、媒体、ファルス、反映、定言命法、自然、現実、映画

 

  

モリのいる場所について

沖田修一監督の映画『モリのいる場所』を観ました。鑑賞した直後の感想としては、いち芸術家の日常であり、芸術家であることの現場を描いた映画――という印象。

 

f:id:dragmagique123:20181208145654j:plain

映画『モリのいる場所』公式サイトより

モリのいる場所』の解説は映画.comでの当該ページでは以下のように書かれています。

昭和49年の東京・池袋。守一が暮らす家の庭には草木が生い茂り、たくさんの虫や猫が住み着いていた。それら生き物たちは守一の描く絵のモデルであり、じっと庭の生命たちを眺めることが、30年以上にわたる守一の日課であった。そして妻の秀子との2人で暮らす家には毎日のように来客が訪れる。守一を撮影することに情熱を傾ける若い写真家、守一に看板を描いてもらいたい温泉旅館の主人、隣に暮らす佐伯さん夫婦、近所の人々、さらには得体の知れない男まで。老若男女が集う熊谷家の茶の間はその日も、いつものようににぎやかだった。

eiga.com

 「モリ」というのは実在の画家である熊谷守一*1(以後、モリ)のことで、彼は30年間もの間、ほとんど家の外へ出ることなく庭の生命を見つめ描き続けた人物です。映画『モリのいる場所』は、熊谷家の庭で起こった〝動き〟を深掘る作品とも言えるでしょう。

〝動き〟と書いたのは、一見してモリが過ごす庭には何か出来事が見られるのではないからです。作中でカメラマンアシスタントが庭を訪れた際に言っていたように、モリの暮らしは「何をしているかがわからない」のです。作中作であるドキュメンタリー番組でモリに付された「超俗の人」のキャッチコピーが示すように、世俗の人々とはかけ離れた感じを醸しています。

 

超俗の人であるモリの暮らしを描く本作品は必然に、異界を描く風情があると言えるでしょう。

モリのいる場所――すなわち異界。

そこがいったいどのような〈場〉であるのか。

そして映画で映されるただ1日で――〝その日〟が、熊谷夫婦にとってどんな1日だったのか。

わたしの眼にうつったことを踏まえ、書き描いていこうと思います。

 

モリの性格――無一物な暮らし

モリの日常

序盤、モリの一日がはじまります。朝食。そして身支度。それから妻であるところの秀子が洗濯物を干しながら見送るなか、モリの庭散策がはじまります。往く道に這いつくばるヤモリ、見慣れたはすの庭に伸びる見知らぬ草、働く蟻、顔をこする蝿、植物に止まる蝶、水瓶のふちを歩くイモリ。夏の日差しが庭の景観を緑鮮やかに照らすなか、モリが30年間続けている日課を、鑑賞者はまず、目撃することとなります。

 

そんななか、モリの人となりを表すエピソードが起こります。

熊谷家には様々なひとがやってきます。郵便屋はもとより便所を借りに訪れる者まで。彼らは勝手に上がり込んでいるという始末。そうした来客のうちに雲水館という名の旅館の主人がやってきて、看板に「雲水館」と書いてくれと頼みます。秀子がモリにその由を伝えると、モリはメダカや虫を見ることに忙しいと言って一度は断ります。しかし信州からやってきたという話を旅館の主人が話すと、そのことを秀子から聞いたモリは書くことを承知するのです。「わざわざ、信州から…」という労いさえ言添えて。

しかし、雲水館のエピソードは、書きたいものしか書かないモリの方針によって、看板には「雲水館」ではなく「無一物」と書かれ、依頼は受けて貰えども本願叶わずといった運びとなりました。

 

またはこんなこともあります。

文化勲章の授与が決まったという話が舞い込んできた折りにも、モリはそれを断るのです。その理由として秀子に伝えたのは、文化勲章なんか受けてしまっては大勢のひとが押しかけてきて、「モリのいる場所」の平和が脅かされてしまう――というようなことでした。

 

f:id:dragmagique123:20181208150241j:plain

同上、『映画ナタリー』より

無一物

モリの価値判断をうかがうと、虫を観察することに忙しいからと来客を拒む一点を取っても、明らかに世俗の論理とは違った尺度で以て生きていることがわかります。

わたしはモリの価値判断の基準すなわち格率を理解するのに、雲水館の主人の件が示唆するところ大であるように思われるのです。それというのも、看板に字を書いてほしいという頼みを、モリは一度断ったのにもかかわらず、直後に応じでみせたのですから。しかもモリが書いてみせた字が「無一物」だというのも象徴的です。

「無一物」はモリの好きな言葉です。

無一物という言葉は、そのまま「何ももっていない状態」を意味します。

〝一物〟というのはデジタル大辞泉を参照すると以下のような意味があります。

 一つの品物。また、ほんの少しのもの。
 心中に秘めたたくらみや、わだかまり。「胸に一物がある」
 金銭のこと。
 男根のこと。

参照;一物(イチブツ)とは - コトバンク

 わたしは上記の4つの意味を持つ〝一物〟を、意味の4番目に列記されてもいる、男性器の意味を含むと同時に権威的なものの意を含んだ「ファルス」の語でまとめて表現することにします。〈ファルス〉はギリシャ語で「ふくらんだもの」を指す言葉でもあります。*2よって、「無一物」という言葉が好きなモリの性格は、「ファルスを持たない」という言い方で表せるでしょう。

わたしたちは〈ファルス〉を考えはじめます。 

非ファルスの的ふくらみ

〈ファルス〉を持たない、いや厳密に言えばファルスを持とうとする志向性を持たないモリは、勝ち負けの可能性を内包した話には耳を貸さないのです。欲も得もない。なので旅館の主人がカネの話をして書いてくれるかどうかのの話を持ちかけて来ても耳を貸しはしませんでした。旅館の主人の話には損得勘定があります。損か得かの話に乗ってしまえば、「ファルスを持たないでいようとすることのファルス性」が損なわれてしまうのです。なので、モリは耳を貸さなかった。旅館の、商売のためにやってきた姿勢では、彼を動かす動機には至らなかったのです。 

ファルスを持たないでいようとすることのファルス性を仮に「非ファルス的ふくらみ」と言うことにしましょう。

むろんのこと、ファルスはふくらんでいた方が良いわけです。機能面においても、審美的においても。*3しかし非ファルス的であることは、そのふくらみに独特な様相を帯びさせることになります。

通常のファルス的なふくらみは魅惑的な他者を前にして、自己が誘惑者となり、そして自己がその魅惑に乗じるというかたちで他者を誘惑する、または他者と自己とが逆の役を以て演じられること、すなわち、他者に対する効果として魅惑的かつ誘惑的であるような関係が生成される根拠なのです。ところが非ファルス的である場合、(魅惑的でこそあれど)そのふくらみからは誘惑者的な質が脱色されるのです。誘惑者的ではないファルスは、とはいえそれがふくらむことを指向している点でやはり権威性を帯びることになる。

〈ファルス〉が権威的であるというときに、仮に他者の側に権威を見立ててみるなら、他者は自己の外に腕組みした存在として立っていて、それが圧迫面接的状況をこしらえることになります。圧迫的である点で他者はうざったいのですが、面接的であることで目の前の他者にへりくだる必要があり、その状況を拒めない。圧迫面接が厄介なのは、嫌なのに応じなければならない場面へと、結果として誘惑されてしまわざるを得ないでいるということです。そして誘惑者としての他者は圧迫面接の後でも権威的であり続けることになります。そこには先導者である面接官が、面接通過後にさえ絶対視されもすることもあります。

他方で、非ファルス的である場合の他者の権威性は、誘惑し誘惑されることのゲームを展開しても、絶対的にはならない。「誘惑」という表現を脇に置くなら、他者は助産なのです。助産的な存在。助産師は誘惑者とは違います。助産以降に、忘れられてしまうようなかそけき存在です。しかし子どもは助産師のおかげで生まれることができます。このような、明らかに大恩があるにもかかわらず忘れられていく助産師の存在が踏まえられていながら、自己の権威を起ち上げることができること。自分が自分であることへの権威性をふくらませることができる、いわば卓越性の発揮が生きられるようになること。このとき、他者の権威は自己の場面で制度的には持続せず、あらゆる権威は現前したことの事実だけを残して象徴的には中折れてしまう。権威に感染されきらず特異的であること。それが非ファルス的であるということなのです。

 「助産師」「子ども」という言葉のイメージから「産む」「生まる」という言い方を書きつけてもいいでしょう。ファルス的であることは、産むことに産むことをさせた誰かを見立てられる。それは制度的・象徴的には父親のことであって、その事実を断ち切ることはできません。一方では、非ファルス的であることに(他動詞ではなく自動詞としての)〝生まる〟の言葉を当ててみると、助産的な介助者こそあれど、身勝手に生まれることとなり、制度的な誰かに権威を与える必要もない。なにせ、生まれる自己自身としてはおのずから生まれていたのでしかなく、可逆的な変身であるどころか非可逆的な翻身の態で以て生まってしまうのですから。この後者の線には制度的な権威性ではなく、特異的で個人的な権威が宿る。それこそ非ファルス的であるということなのです。

 

ファルスの自体享楽

非ファルス的ふくらみは、媒介を必要とする順ゲーム的でも逆ゲーム的でもないのです。勝ち負けではない。価値のあるなしではない。価値はおのずと降って湧いてくるものであって、誰かに差し出されるものではない。ファルスは他者の権威性を前提にするものですが、非ファルス的であることはふくらみをそのものにおいて享楽することになります。これを〈ファルスの自体享楽〉と言ってもいいでしょう。 

旅館の主人が「せっかく信州から新幹線で来たのに」という事情を伝えることで、モリは彼の要求を受けます。モリは新幹線を知らず、それゆえに信州から池袋にある熊谷家にまで来たということの地理的距離感はその物理的懸隔のイメージそのままに受け取られ、「わざわざ遠くから来てくれた」という想いをモリに抱かせます。

「わざわざ遠くから来てくれた」という感慨は重要で、それは不合理な判断によってここまで足を運んでくれた人物として、旅館の主人を見立てさせます。わたしには、モリは旅館の主人のその不合理な判断に、モリ自身が属している〈ファルスの自体享楽〉的な質を感じ取ったように思われます。超俗の人として俗世の合理を避けているモリにとって、わざわざ来てくれた旅館の主人へと一筆書くことを決めた根拠です。つまり「わざわざ」がモリ自身の〈無一物的性格〉に反応したのですね。

 

f:id:dragmagique123:20181208145817j:plain

同上、『映画ナタリー』より

以上を踏まえ、モリの性格として仮置いた、「超俗の人」「無一物」そして「非ファルス的ふくらみ」などの補助線から、モリの非俗人的なイメージをつかむことができるでしょう。

 

モリの場所

飽きないモリ

一見して、モリの暮らしぶりは平板で単調で、日々の変化に乏しく感じられます。日課として時間になれば庭を徘徊するように探索する姿は、とりわけSNSが生活のインフラとなり行動すること・体験することに重きの置かれる現在からすれば退屈に見えてしまうかもしれません。

しかし、モリは飽きていないのです。30年ものあいだ同じ探索を行っている。そこには速度や変化を大事とする、たとえばブロガーやフリーランスなどのネットビジネスに代表される加速度的なライフスタイルとは別な時間が流れていることを予感させます。

 

f:id:dragmagique123:20181208151949j:plain

HP『Real Sound 映画部』の記事《山崎努樹木希林、あうんの呼吸見せる 加瀬亮三上博史も登場『モリのいる場所』予告編》より

世界であって宇宙ではない

ひとはしばしば欲得を念頭に置いた追いつけ追い越せのゲームの勝者のイメージに、〝世界〟という言葉を当てます。「世界を取れ」だとか「世界を変えろ」だとか、はたまた「世界を相手に闘え」などなど。――ここでの世界はあくまで「人‐人」における駆け引きの延長にあります。政治や経済の地平です。欲得を念頭に置いた追いつけ追い越せのゲームには世界の観念がつきまとう。それは〝宇宙〟ではない。たとえ「宇宙開発ビジネス」などのジャンルが登場しても、それは結局のところで「世界を変えること」に回収されてしまいます。つまりそこには〈世界を見渡す眼〉が想定されているのです。

 

少欲知足

他方で、ビジネスシーンにおいて流通しがちな「動き続けろ!」とひとを煽る言説とは真逆の言説を掲げるのが仏教です。わかりやすいのは「少欲知足」の教えでしょう。読んで字のごとく「欲を少なくし、足ることを知る」という意味です。2011年の《サンガジャパン》vol.7*4ネルケ無方が述べているところを参照すると、わたしたちは通常、動作の主語に一人称が置かれていることを当たり前のことと感じて過ごしていますが、それはしかし「私は」「俺が」「僕の」という我執の温床となっていもいるのです。ネルケの言葉を借りれば、わたしたちは何かの不足に苦しむ「欲望の奴隷」になってしまっている。そうした現状に「少欲知足」は解放のための理念になるような言説とされるのです。

《サンガジャパン》のvol.7にはまた、初期仏教の長老であるアルボムッレ・スマナサーラの話が掲載されています。彼はそこで「少欲知足」を「ニーズが少ないこと」「不満を感じないで生きること」と言い換えています。こうした話題は世界を狭めてしまうという批判ができますが、とはいえそこにある充実は叶わない願望にやきもきすることの不足よりかは遥かに充実した生活を営む可能性がある。そうした点から、たとえば欲望を絞り、そして活動する場所さえ絞って知足している者として、わたしはモリの生き方の充実を読むことができるのではないかと考えます。

 

凝視するモリ

庭でのモリは動植物が庭にあること、あるいは庭にやってくることを逐一意識の俎上に乗せ、凝視します。とにかく、見る、いや、〝乗っかってくる〟と言った方がいいかもしれない。見るべきものは無尽蔵だとでも言うかのようにして、意識に乗っかってくるものを凝視する。先程例に挙げた、動作の主語につきまとう主語などさえ、あたかも、そこにはないかのように。実際に劇中、カメラマンがモリの庭での姿を撮影している様子は、人物を撮っているというよりかは動物を撮っているかのような風情もあります。そこでのモリの動作に敢えて主語を置くとすれば、「精霊」や「自然」などの非人称的な表現が妥当するでしょう。

モリはまた多くの画家がそうであるように「見ること」に重きを置きます。あるときモリを撮影にカメラマンが来ますが、〝超俗の人〟であるモリは意に介しません。撮られているいるという緊張も見せず、いつも通りに庭での時間を過ごしている。そんななか、モリは彼を撮影しにきたカメラマンに対して、自分が観察している蟻たちを見るように言います。モリは蟻たちの六本ある足さばきの順序がわかるらしいのですが、カメラマンにはそれが見えない。カメラマンが正直に自分には見えないと答えると、「もっとよく見て」とモリは言います。――ここでも、モリに見えているものは多くのひとが見ているものとは違っていることを予感させます。 

f:id:dragmagique123:20181208150503j:plain

同上、『映画ナタリー』より

 

「世界の場所」から「宇宙の場所」へ

わたしはすでに、欲得を念頭に置いた追いつけ追い越せのゲームには〝世界〟という観念がつきまとうことに触れました。この場合の世界というのは多くのロックミュージックが歌う「ここではないどこか」のニュアンスがあります。「世界を股に掛ける」ような人物を思い浮かべるときも、その人物はこの場所にいながら他所の場所へと影響力を波及させることができるようなイメージを持つことができます。要するに〝世界〟という言い方には、ここにいながらにして別の場所へと想いを馳せる精神が込められているのです。ここにおいてここ以外が遠望できるような〈場〉。そのような〈場〉が「世界の場所」なのです。

モリのいる場所は以上のごとき〈場〉とは違っている。それはモリの言動が仙人じみているという印象から導き出すことができるでしょう。カメラマンアシスタントも「見た目、完全に仙人ですね」と言うくらいですから。モリはどのような場所に属しているのか。その場所を記述するのに、上述の〝世界〟の言い方では役不足です。なので、もう少し広い意味を担う言い方として、すでに〝世界〟と対比させるために用いた〝宇宙〟の語を当てることにします。

 宇宙は世界とは違います。「世界」がここにいることでどこかが立ち現われることの概念化だとすれば、宇宙は部分が全体をうつし、全体が部分に宿ること――すなわち、ここにいながらどこにでもいることの概念化なのです。世界ではここにいることの退屈さが意識の前景と化しますが、宇宙ではここにいることへの夢中しかなくなります。これは仏教での悟りの言い方と重なることになります。「世界の場所」の言い方に被せれば、そこは「宇宙の場所」だと言えるでしょう。

 

f:id:dragmagique123:20181208151120p:plain

「我考える」と「胡蝶の夢

意識すなわち自我が前提にある世界像には、先述した「少欲知足」によって展望される世界像よりも狭いものになる。「少欲知足」の言い方になぞらえれば「多欲知不足」となるわけです。「少欲知足」によって開かれる世界像は宇宙へと接近するものです。ここにいながらここではない、ではなく、ここにいながらどこででもある。部分的であるはずの〝ここ〟に全体的である宇宙が織り込まれていることへの気づき。むしろ宇宙そのものとしての自覚。「部分-全体」という図式を成り立たせなくさせる風景。

 

たとえば「コギト(我考える)」というデカルトによって立ち上げられた概念がありますが、それは特異点としての〈我〉を前提とします、あるいは要請することになります。その特異点における現象の観測が自然科学のイデオロギーとなるわけです。他方、デカルトのコギトでは内面に向かって閉じているかたちでの特異点として結ばれましたが、宇宙へ向かって開いている次元もあります。たとえば荘子の「胡蝶の夢*5などがそうです。自分が蝶だったのか、蝶が自分なのか。そこにはいずれにしても〝いまここ〟しかない。ただ、物想う我考えるコギトだけがある。その点で言えば胡蝶の夢もまたコギトがコギトであることのイメージを語るものだと言えます。デカルト荘子も唯一絶対の〝いまここ〟の世界像への導きの糸となる概念を謳っているのです。

以上の理屈に「世界-宇宙」の対比をかざしますと、自然科学に向かったデカルト的コギトは〝世界〟に対応し、形而上学として扱われがちな胡蝶の夢は〝宇宙〟に対応するでしょう。わたしが〝宇宙〟という言葉に見込むのは、そのような宇宙へと開かれている胡蝶の夢のごときいまここにいることへの夢中です。

f:id:dragmagique123:20181208150920j:plain

夢から醒めたいまも夢を見ているのかもしれない。その〝かもしれなさ〟がつねにつきまとうのであれば、いま見ている夢が同時にいま生きている現でもある。〝世界〟で生きる者は、問題があるなら答えもまたどこかにあるという認識があります――ここではないどこか、ですね――が、しかし〝宇宙〟を生きている者にとってには問いには答えがないのです。胡蝶の夢がそうであるように、今現在が夢か現かわからない。そこで開かれるのが、そもそも問うことそれ自体が答えだったのではないか――ここにいることがどこででもある――という認識です。問題というのは、それが立てられること自体に、問題を問題として立てられる〈場〉がある。〈場〉がなければ問題もない。それは他者であって、言語であって、精神であって、身体であって、環境であって――つまりは宇宙があるという事実そのことであると言えてしまう。そんな〈場〉があるという認識を得られるのですね。

 

 「世界のどこかさ」と「宇宙のここさ」

モリは自分の庭で退屈でもなく、何かを辛抱しているのでもない。それどころか、まったき充足をしているようでさえある。子どものようにどころか、野生の動物のような生の充実。動物では自身に適応的な環境さえあれば人間のように飽きもせず生きていけますから。しかしそれは皮肉ではないのです。仏教には〝じねん〟と読ませる「自然」という概念があります。*6おのずからそうあること。原因となる何かがあるのではなくて、万物万象は、おのずから、しぜんにそうあるという自然認識です。モリが見ていたのはそうした原因のない無因的な宇宙の様相だったのではないでしょうか。要するに、部分が全体をうつし、全体が部分に宿るその現場としての庭を。

以上のようなモリの生き方は、ブロガーやフリーランスなどの強い個人が、世界を股に掛けてあちこちを飛び回ることに自由な人生を見出す、いわば〈世界の何処性〉とでも言うべき姿勢に対するアンチテーゼになっているようでさえあります。モリの姿勢――〈宇宙の此処性〉は、此処以外の世界さえも包括していて、世界の何処性を追い求める人々を笑うことさえ意に介さないといった恬淡とした構えを見せているのです。

世界の何処性と宇宙の此処性は、言い換えますと、世界のどこかさ( Whereaboutsness )と宇宙のここさ( Hereaboutsness )です。

モリは〝どこか〟を必要とはしていませんでした。ただ、〝ここ〟さえあればよかったのです。

 

にぎやかだった一日:出来事としての〝その日〟について

 映画は、いや映画ならずとも、あらゆる物語媒体にとって、そこで語られる物語はたいてい、いつもとは違ったことがあった時間を内包しています。つまり報告価値のあるイベント(出来事)ですね。いつもと違うことがあったので、そのいつもとは違った今日の対照性を焦点化することによって、いつもと違う今日の特異性から、いつもの日々を批判的に眺める視線が生まれてくる。「今日も平和だねぇ」という感慨は、平和でなくなった今日を迎えることによって、深い意味を保てなくなりクリシェ(常套句・決まり文句)と化したそのセリフの深みを活性化させるためにあり、そうしたクリシェの意味の賦活を担っているものが物語なのです。重ねて言えば、非日常的な出来事を媒介にして自らがいつも享受している日常性の意味の活性化を描くことが物語全般の主要な機能であると言っても間違いではないでしょう。

 

モリのいる場所』でも〝いつも〟のなかに、いつもとは違うことがあるはずです。

 

映画.comでの当該ページの解説には、「老若男女が集う熊谷家の茶の間はその日も、いつものようににぎやかだった。」とあります。

「その日」

その日が〝いつものように〟にぎやかだった。これが『モリのいる場所』の基礎に置かれていて、そのうえで何かが起こるわけです。

それは何か?

たとえば旅館の主人が看板に旅館の名前を書いてくれませんかと訪ねてきますし、文化勲章の受賞の知らせが電話で掛かってきたりしますし、カメラマンがモリを撮影に来たりしますし、テレビでモリについてのドキュメンタリー番組が制作されますし、家の側にマンション建設に関して工事関係者が訪ねてきたりします。――とはいえ、それらはみなモリの日常を逸脱するものではないのです。モリはいつものように庭で日課の探索を行います。それを見守り、外界との渡し役を務める妻秀子によって夫であるモリの日常を守っている。これが「モリのいる場所」の〝いつも〟なのです。

 

しかし、2点、非常に重要な出来事があったことも確かです。それはわたしの感動から粗描しますと以下のことです。

  1. 旅館の主人に頼まれてモリの筆運びを見守ろうと集まったひとのなかに、知らない男がまぎれていたこと。
  2. 庭から出ないことを妻にからかわれ、モリがおよそ30年ぶりに敷地外に出て、小学生女児と遭遇すること。

以下、追って記述していきます。

 

知らない男

あるメモ書きから

1.から見てみましょう。

家人も客人もモリが旅館の主人のために筆を執る姿を見守るなかで、知らない男が紛れている。彼はモリがいざ書こうとするのを前に、「とてもじゃないが見てられない!こんな見ず知らずの人に書いちゃいけない!申し訳ないが私は失礼する!」と言い、ぷりぷり怒ったふうに出ていく。残された者たちは彼が誰なのか知らず、モリは「知らない人あげちゃダメだよ、あんたたち!」と、自分が知らないひとに向けて言い含めます。

f:id:dragmagique123:20181208151230j:plain

同上、『映画ナタリー』より

 

わたしはこのシーンを観て、知らない男の演技に違和感を覚えました。明らかに彼は浮いていたのです。この時点でのわたしは短絡ながら以下のようにメモを書いていました。

申し訳ないが見ていられない――って言った人の演技がヘタ、そぐわない、舞台と映画の違い?舞台は浮く必要があり、映画は嵌る必要がある(それとも融ける?)

(2018.11.28.11:56のメモ書きより)

わたしのメモ書きでは拙速にも「演技がヘタ」などと書かれていますが、知らない男を演じる三上博史の経歴から言って役者としての演技の巧拙をわたしが評価できるわけではないのです。むしろ、あえて、あえての演技だったと観るべきでしたが、くだんのシーンを観ていた時点でのわたしはそこまで意識を及ぼすことができなかったのですね。

 

映画的と舞台的の入れ子構造

知らない男は冒頭のシーン以降ほぼほぼ登場することがありません。ようやく登場するのは終盤で、しかしモリに「モリのいる場所」の意義をしゃべらせる、とても重要な人物へと変身するかたちで登場するのです。

 

知らない男が重要な役柄で登場したことで、わたしはある確信を得ました。それはこの映画、『モリのいる場所』が、モリの人生を描く映画というよりもモリの人生を語る舞台として演出されているのだと。映画で舞台をやる。いや、それでも映画だ――もっと別な言い方ができるかもしれない。たとえば、「入れ子構造」なんて言い方がいいかもしれません。映画として開始される映画、と見せかけて、鑑賞者は舞台的な観客へと浮き立ってくるが如き演技が知らない男を通して観せられることとなり、舞台として中途発進するかのような映画にさえなる。ところが基本の劇の流れは映画としてのそれなのです。そこに不意に入ってくる舞台的な性格。そうした舞台的性格は鑑賞者の映画を映画として観る姿勢にブレを生じさせることとなります。鑑賞者は映画作品として『モリのいる場所』を観ていたのが、不意に映画的なリアリティから醒めることになる。夢から醒めた現の名をわたしたちは舞台的なリアリティと呼ぶことにしましょう。しかしこの舞台的なリアリティという現は、映画の、飛び石的に散在しているはずのコマとコマとが編集的に上映されることで呈する特殊なリアリティの生成によって、生成の後すぐさまに、コインの表としての夢へと転化することになります。要するに、映画がまず舞台的となり、舞台的となったその映画が再び映画的となる――この点に映画でありながら映画的と舞台的とを往還し合い、参照し合う、双方を内側に繰り込んでいく入れ子の構造を呈することになるのです。都合上、作品の展開は終局に向かって締めくくっていくことになりますから、この入れ子構造は映画の上映時間の経過とともに、人間関係やプロットの複雑さという網の目の密度を高めていくことになります。つまり「夢か現か」ではなく、「夢でしかなくなる」という認識へと映画の風景が醒めていくのです。

 

知らない男とタライの落下

ゆえに、わたしが違和を感じた知らない男の、映画的ではなくどこか舞台的な演技は、この『モリのいる場所』のスクリーンが、ただ映画的であるばかりではないぞ、というメッセージだっと受け取ることができます。言い換えれば、映画的であることがひとつの夢として、別な夢へと転換する可能性を示唆していたのだと見ることができるのです。

以上の知らない男のくだりだけではなく、『モリのいる場所』にはそこだけ切り取ると不自然なシーンや演出が幾つかあります。代表的なところでは、文化勲章を辞退するくだりで食卓を囲んでいた家人および客人の頭上にタライが降ってくるという、劇中何度か言及されているドリフのネタ*7が唐突に入ってくるというくだりです。これには少なからず面食らってしまいます。というのも『モリのいる場所』の映画としての文脈はヒューマンドラマの範疇として、すなわち途中で鑑賞者をくすりとさせるところはあれど、最後は真顔にさせるような作品だと思われたからです。別な言葉で言えば、山田洋次監督が喜劇映画を撮れども、劇中、頭上にタライを降らせることなどないように、『モリのいる場所』もまたコント的な演出は取らないと思われたので、わたしだけのことではなく鑑賞者としてこの作品を観る者に多かれ少なかれ驚きを与えるのです。

しかしドリフのタライネタもまた、映画という現にある種夢のごとき舞台としての様相を醸すためのギミックであると理解すれば納得がいきます。

 

モリのいる場所

映画的で舞台的な相互嵌入の様相を呈する入れ子構造のスクリーンは、知らない男が宇宙人としてモリの前に現れることでピークに達します。このシーンは知らない男のあたまにアンコウの頭のようなランタン状の器官が垂れ下がり、モリがスポットライトに照らされ、そして足元には旅行鞄が置かれる。あたかも庭自体がひとつのステージになり換わったかのように。

知らない男は熊谷家の庭にある池が宇宙に通じたのだと言います。このことはわたしたちが、モリが飽きないで庭を探索し観察していた様子を、〈宇宙の此処性〉すなわち〈宇宙のここさ〉( Hereaboutsness )の言い方で以て説明したことと重ねられます。モリがここを宇宙だと見立てて過ごしてきたいわば信仰姿勢が、結果、ここが宇宙であることを真実へと変えてしまったというのですね。知らない男すなわち宇宙人はモリに「この庭から広い宇宙へ行きたいと思いませんか?行きましょう!」と言います。この誘いはモリが30年間面倒を見てきた庭こそが「モリのいる場所」であったならば、モリは喜んで応じたことでしょう。しかし、モリは断ります。

知らない男こと宇宙人は何故かと訊きます。モリは次のように答えます。

この庭には私が必要なんです、ここで十分、それに旅立つことになったらまた母ちゃんが疲れちゃうから…、それが一番困る…

要するに、モリはただ自分の庭だけを自分のいる場所だとは考えていなかったのです。「モリのいる場所」はただ宇宙へと通じることになった庭のことだけなのではなく、長年連れ添ってくれたモリの妻秀子のことでもあったのです。つまり、「モリのいる場所」は庭であり、妻であり、それらが不足なく揃っている〈場〉としての熊谷家のことだったのです。

 

f:id:dragmagique123:20181208151320j:plain

同上、『映画ナタリー』より

小学生女児

モリと共に小学生女児に驚く

2.の方、すなわち、モリのその日にとって、いつもと違っていた重要なことの2つ目としてわたしが挙げたいのは、小学生女児にモリが見つめられるシーンです。

 

テレビのドキュメンタリー番組でモリが取り上げられていて、番組なかでだったか、モリが敷地内から外に出ないことが茶の間の家人客人のあいだで話題に上ることになったのでした。そのなかでモリが外で自転車に乗っているのを見たことがあると言う者があり、妻秀子がそれに乗じて、外に出歩かないだけでこんなにちやほやされるんだったら、あなた庭から外に出ないでくださいね――などということをモリに言ったのだった。モリはなにくそと思ったか思わぬか、席を立ち、敷地の外へと通じる門の前に行き、逡巡の後、外に出るのです。熊谷家を囲周する壁には、隣に建設されようとしているマンション工事への反対声明を掲げる学生たちの立て看板がされていますが、モリは気に留めません。家から出て道をまっすぐ歩き、角のところまで来て、ふと見ますと、小学生女児が赤いランドセルを背負い、手には花をいじいじしながらこちらを見ているのです。するとモリは慌てて元来た道を引き返し家に戻るのでした。(わたしの記憶に拠っているため、若干、実際の映画内容とは異なっているかもしれません。)

f:id:dragmagique123:20181208151431j:plain

おそらく、モリが動転してみたのは『モリのいる場所』の劇中、唯一この場面だけです。しかいなぜ恬淡たる態度を終始見せているかのようであった超俗の人である彼が、たかだか小学生女児の視線を喰らった程度で驚き引き下がったのかは、鑑賞者にとってはつまびらかではありません。わたしもまた、面喰ってしまいました。

映画を観ていきますと、どうやら熊谷夫妻のあいだには子どもがいたようで、しかしすでに亡くなっているらしいことが終盤で示唆されはしまうが、そうした事情が絡んでくるのかしらとも考えましたが、やはりすっきりしない。とはいえ何か、何かあのシーンには重要な、象徴的な意味合いが読み取れるのではないか、あるいは読み込めるのではないかと思い、わたしは鑑賞後の数日、いや一週間を経った後でさえ、間歇的に考えました。本記事はわたしが『モリのいる場所』を観たその日に書き始められているので、劇中の小学生女児の意味合いを考えることは記事執筆とともにあったと併走していたのです。

 

媒体であることを巡って――芸術家は表現主体ではない

執筆の過程で、わたしはモリの好きな言葉である「無一物」を導きの糸とし、〈非ファルス的ふくらみ〉などという言葉を手にすることになりました。〈非ファルス的ふくらみ〉は他者を誘惑すると同時に束縛することになる権威性を抜きにして、ある種身勝手にひとりきりで充実するという在り方を指す言葉でした。モリが〝超俗の人〟と世間から思われていることと、彼の実際の熊谷家での生活習慣とを照らし合わせてみますと、〈非ファルス的ふくらみ〉の呼び表しに不足はないように思われます。

モリは芸術家なのです。そして芸術家がその特殊性から一般人と分け隔てられることがあるとすれば、芸術家は表現主体ではないという言い方で以て言い表すことができるかもしれません。〝主体ではない〟という点を強調しつつ。

主体というのは点であることです。訴訟の争点がひとつの点であるように、被告席に立たされる主体は、責任を負うことが可能なひとつの点なのです。自由意志の話題にも当の人物がくっきりとした責任能力を認められうる、ひとつの点であることが前提に措かれます。

芸術家がそうした点としての在り方ではないとされるときの芸術家の在り方は、つまりは媒体であるということなのです。媒体はくっきりとした点のようには存在しません。それは「強さや速さ、傾きやずれのようなものに過ぎない」(三浦雅士*8のです。媒体はたとえばSNSやブログなどといった情報の窓口の差異としてあり、銘々がメッセージを発信・受信するためのメディアとなっていますが、同じメッセージでもメディアが違えばメッセージの質が変わってしまうということがあります。それは単に送り方の問題でも受け取り方の問題でもなく、情報の窓口そのものが別なコンテクストを付与するものであるからです。そのような「コンテクストを与えるもの」としてのSNSやブログは、ひとつの点のようには存在せず、やはり「強さや速さ、傾きやずれのようなものに過ぎない」と言えます。

 

媒体であることを巡って――メディアは存在しない

存在するのかしないのか

媒体という言葉をくっきりさせる試みをしてみます。くっきりというのは手触りを与える、取っ掛かりを付ける、使いやすく下ごしらえする、意味の肉付けをする――というような意味です。以下、言葉の動き方を追っていくことにします。

 

媒体はメディアです。SNSやブログをメディアと言うように、メディアは存在します。ところが精神科医の齋藤環は、「メディアは存在しない」という主張を、まさにそのままのタイトルの著書において展開しています。SNSやブログは確かに存在している。なのにそれらが存在しないと言えるのはどういった理屈なのか。

齋藤の理屈をわたしなりに言い換えますと次のようになります。

 

しばしば、文学作品の解釈はそれを読んだひとそれぞれに生じます。良い文学作品はそれに接した者の解釈の多様さにおいて表れるとさえ言われます。この場合の、読者の数に応じて多様な解釈可能性があるということはどういった意味でしょうか。それは読者それぞれがそれぞれの来歴を持ち、経験の異なりを有し、知識の多寡を前提にして、当該の文学作品を読むことになるという前提となる事情の違い、言い換えますと、読者それぞれの持つコンテクストの違いによるのです。ですが、文学作品自体の文章はあくまでも変わらずにある。その意味では読者ごとに異なる文章を読むのではない。しかし読まれることが共通であるはずの文章からは別様な解釈が生じる。

以上のイメージを前提にすれば、読者それぞれが読むメッセージそのものとしての文学作品は「存在する」のです。しかし、読者それぞれの解釈を可能にするメディアとしての文学作品は、メッセージとして読まれることを可能にする文学作品が存在するのと同じ意味で「存在する」とは言えないのです。もちろん「存在する」という言葉を用いることはできるのですが、言葉が同じでも異なる論理階型で使用されているのです。

 

論理階型――感覚と実在

異なる論理階型というのは、段差の高低のイメージを思い浮かべればいいでしょう。

次の文をご覧ください。

  • 変化は存在する、ゆえに変化は存在する*9

この文の〝変化〟を前後ともに同じ論理階型で以て読もうとすると、何を言っているのかわからない文になります。なのでちゃんと読もうとするなら高低を含んだ論理階型が要請されるのです。

「変化は存在する、ゆえに変化は存在する」を読解するなら、前のくだりの〝変化は存在する〟を内部的なもの――すなわち変化と変化だと感じる内部感覚があるということを示唆していると読み、後の〝変化は存在する〟を外部的なもの――すなわち変化を変化だと感じさせた変化そのものの実在を示唆している、と読めば意味が通ります。

要するに、何か変化があったという感覚が、前者の〝変化は存在する〟なのであって、後者の〝変化は存在する〟は感覚として変化を感じさせた何かが感覚の外に確かにあるという、何かの実在の有無を押さえているのです。

もっとシンプルに言えば――感覚の有無がわかる、ゆえに実在の有無がわかる、となるでしょうか。

論理階型とは、話していること(語り)の次元のことなのです。次元には高低があります。高次元と低次元ですね。「感覚のあるなし」と「実在のあるなし」で言えば、前者は後者よりも低い次元の話だとわかります。なにせ後者の次元の〝あるなし〟によって前者の〝あるなし〟が左右されてしまうのですから。

 

メディアは存在しない

齋藤の「メディアは存在しない」の方に話を戻します。

メッセージとしての文学作品そのものの実在は、誰もがそれを読み、そして各人なりの解釈を持つことができるという点で、確かです。つまり、存在します。

しかしメディアとしての文学作品を考えてみますと、それは読者にコンテクストを授けるものでしかなく、万古不易な実在としてででんと構えているわけにはいきません。

 

文学作品を読むことによって読者がその読書行為の際に、つねにすでに働きかけられてしまっているもの――行為の枠組み(フレーム)、構成要素(コンポーネント)、そして文脈情況(コンテクスト)等々があります。媒体を記述するのに用いた「強さや速さ、傾きやずれのようなものに過ぎない」という言い方を参照すれば、メディアとしての文学作品は、読者との関係上、本文は読者によって唯一の読まれ方で以て正確に伝達されることは叶わず、その点から読む者全体に均質に読まれることはなく、均質ではないことによって偏りが、まさに「強さや速さ、傾きやずれ」として生み出されることになるのです。つまり、点と点とを結び合わせるまっすぐな線分は引けないということになります。それゆえに、文学作品が点的に存在するレベルを認めることはできますが、それとは別の次元では点的には「存在しない」ことも本当なのです。量子力学における物質がゆらぎを持つというイメージを借りれば、そのゆらぎに対して働きかける観測行為とを媒介するもの――メディアですね――の次元において不確定な要素が生じてしまうことの必然。不確定要素が「存在する」とは言えても、それが不確定であるがゆえに〝何が〟「存在する」のかを確定的に記述できない。確定的でないがゆえに論理空間において扱えない。であるからこそ、存在させられない。つまり、「存在しない」ことになるのです。

  

媒体であることを巡って――カテゴリーではなくスペクトラム

点と線:可積分系としての主体

要するに、メッセージはコンテクストごとに別な意味を立ち上げるわけです。そしてコンテクストはメディアによって決定される。読む行為に伴うメディアの介在。読む行為自体がつねにコンテクスト性を帯びてしまう以上、読まれる文章としてのメッセージもまた、つねにその意味にブレを伴っている可能性を含まずにはいられないのです。あたかも観測対象が観測者の観測行為から乖離しては観測されないように。

たとえば、数学者であるイーヴァル・エクランドは世界のランダム性を説明するのに次のようなことを述べています。――世界は互いに無関係な因果列には分解できない。どの出来事も原因がたった一つということはない。事情さえ許せば、わたしに対して陰謀があったとして全世界を相手取って訴訟を起こすことだってできるくらいだ、と。

エクランドは続けます――

現実は、可積分系(原因と結果が順序よく並び、原因の規模に見合った結果が出る)と、非可積分系(どの出来事もそれ以外のすべてと関係があり、どんなに小さな出来事も考慮に入れなければならない)の中間にある。中間のどの辺にあるかはたいていの場合、時間の範囲をどこまでとるかによって変わってくる。長期的には、世界は可積分系だ。短期的には明日の天気の予測や未来の月の位置についてのすばらしい近似を提供してくれるのが可積分系

(イーヴァル・エクランド『数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ』南條郁子訳,みすず書房,2009,p138-139)

わたしたちが、点として振る舞っているがごとき主体を想定するとき、エクランドが述べるような意味で、現実は可積分系と言えるでしょう。訴訟を受け、被告席に立たされる主体とその事件とは無関連とされる主体との差異は、まさに「原因と結果が順序よく並び、原因の規模に見合った結果が出る」ような可積分系の現実観が前提になっています。点はまた、動くことでその軌跡を線として浮かび上がらせるのですから。

 

浮動と程度:可積分系と非可積分系の狭間にゆれる媒体

他方で媒体の場合はどうでしょうか。それは、エクランドが「どの出来事もそれ以外のすべてと関係があり、どんなに小さな出来事も考慮に入れなければならない」という非可積分系の現実観の側にあるのではなく、「強さや速さ、傾きやずれのようなもの」である媒体は、可積分系と非可積分系とのあいだに位置付けられることになるでしょう。なにせエクランドが示唆する非可積分系の位置に点を打つようにして媒体(たとえば霊感に打たれることを事とする芸術家であったり降霊を事とするシャーマンであったり)を位置付ければ、認知与件として上ってくる情報の多さに発狂してしまうでしょうから。少なくとも、そこに成立するような自分なるものは人間ではありません。

エクランドが描くように、現実は「中間のどの辺にあるかはたいていの場合、時間の範囲をどこまでとるかによって変わってくる」のです。このことは現実が点のイメージを採用してみるにしても彼我のあいだのどこかで静止しているのではなく、そのあいだをゆらりゆらりと浮動しているものだと理解できます。エクランドの言う〝現実〟は、「人間の現実」あるいは「人間そのもの」を表す言葉としても扱うことができるでしょう。言い換えますと、人間を人間としてカテゴライズする言葉として。しかしエクランドはそのカテゴリーの内実は可積分系と非可積分系との中間において浮動的であると言っている。そのようなカテゴリーは記述はできても定義はできない。わたしが言い直しますと、それはカテゴリーではなくスペクトラムなのです。位置ではなく程度、というわけですね。それらの消息を踏まえれば、主体はカテゴリーの観点で記述され、媒体はスペクトラムの観点において記述された表現であると理解することができるでしょう。

媒体が媒体としてあるその在り方をイメージすると、上述のような中間で浮動するスペクトラム状のものである――という理解を結べるかと思います。

 

媒体であることを巡って――媒体としての自覚

では、以上を押さえ、モリが小学生女児に動転したことへと焦点を当ててみます。 

f:id:dragmagique123:20181208151632j:plain

人間には、ある観点からは主体的とされ、別な観点からは媒体的であるとされる見方があります。2つの仕事観を描いてみましょう。

  1. 同じ職場で働いているひと同士でも、ここまでは自分の仕事で、ここからは別の人の仕事だという割り切りをしていることが殆どで、自分の責任を有限化すること。その態度がまともであるとされたりするわけです。
  2. 同じ職場で働いているということから、自分の仕事と他の人の仕事とが「この会社のためになっている」という視点から一致させることもできます。このようなある種高次の視点から言えば、自分の仕事と他人の仕事とのあいだに切れ目はなくなり、どの仕事もこの会社で働いている自分と無関係ではなくなります。

1.の仕事観が、わたしたちが「主体」の言い方を召喚するときのそれです。そして2.の仕事観が「媒体」の言い方で以て言い表す態度ということになります。

〝まとも〟と表現したことには注意を払いましょう。1.の働き方がまともだと言えるのは、ある意味で正気だからです。ある意味でと言うのは主体は自分が会社という組織のなかでの自分の位置付けを、それこそ点的にくっきりと把握している。であるからこそ自分の限界を押さえた業務の引き受けや応対が可能になっているのです。この、まともな1.に比べて、2.はいささか狂気の状態と言うことができます。なぜならその状態において自分というものは会社が主語になっているが如き在り様を呈してしまっているからです。多く、「会社人間」*10と呼ばわれる人種においては、自分の立ち位置が自覚できないという状態にあります。「社畜」などの言い方もそうですが、自分が畜生の如く扱われているという自覚が不足しています。「No!」と言えない彼は極めて没主体的であり、自分というものの輪郭を失しています。一言に附せば、媒体は媒体であること自体を自覚することができない――となりますでしょうか。

 

なぜ2つの仕事観に触れたのかと言えば、モリを言い表す言葉である「超俗の人」が、媒体的な性格を持っていて、その媒体としての在り方に「まともである/まともではない」「正気/狂気」の理解線を敷くためでした。また、モリは「無一物」という言葉を好みます。わたしはその事情から【モリの性格――無一物な暮らし】のくだりにおいて、なぜモリが一度は断った旅館の主人の頼みを聞き入れたのかを考えてみたのでした。そして〈非ファルス的ふくらみ〉というけったいな言葉を本記事に拵えることになったのです。わたしは、その、「無一物-非ファルス的ふくらみ」の展開を踏まえれば、小学生女児がなぜモリを脅かすことになったのかについて、理解線を建設することができるのではないかと考えています。

 

媒体であることを巡って――感性・反映・自然

モリのように小学生女児に驚く

まず、わたしの個人的な経験を書きます。

ある日のことです。わたしは早朝、世間のひとの多くが出勤する時間にあたる頃に、車を運転していました。ふと道沿いにランドセルを背負った小学生が幾人かたむろしています。どうやらスクールバスを待っている様子。わたしはその側を通ることになるかたちで、車を走らせています。すると、小学生たちのうち、女の子2・3人が運転するわたしの方に手を振ってきました。そのときに覚えた強烈な感じの到来――要請、命令、拒否するという選択肢があたかも存在しないかのような感覚は、まだ少し眠たいわたしの顔のうえに微笑みの表情を作らせ、持っていたハンドルから片手を離させ、それからこちらへと手を振る彼女たちに向けて手を振らせたのです。一連の動作には殆ど流れるようにして執り行われる運びとなりました。

 以上の出来事は、わたしに定言命法という言葉を思わせました。定言命法というのは哲学者カントの言葉ですね。

 

カントの定言命法

定言命法に関して、カントは『実践理性批判』と『道徳形而上学原論』とで2つの道徳法則の在り方を記述しています。

  1. 君の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当し得るように行為せよ。
  2. あたかも君の格率が同時に(一切の理性的存在者の)普遍的法則となるかのように行為せよ。

カントが道徳法則と言うとき、それは自然法則と対置されています。自然法則というのは現象が起こる法則のことで、ガリレオが「自然は数学の言葉で書かれている」というように記述的な法則としてあります。しかし道徳法則は記述的ではない。自然法則の記述が、現象としての出来事認識の可能性の範囲を画定しはしますが、その実現を要請しはしません。つまり〝こうするべき〟という命令とは無関係なのです。ですが、道徳法則はひとに〝こうするべき〟を命じてくる。

人間が自由であるというとき、そこには道徳法則の存在根拠が見られています。なにせ〝有るがまま〟もしくは〝成るがまま〟である自然法則のなかには〝自ずと然り〟である「自然」こそあれど、〝自ずを由とす〟「自由」はありません。

〝自らを由とす〟、それこそが精神の規則が格率となる根拠であって、格率が普遍的であることは認識行為のうちに与えられているものだと仮定されたうえにしか成立せず、カントの1.と2.の道徳法則の例を参照すれば、そのどちらともが、道徳法則はそれを存在させる意志を以て行為するべきであるという、立場が窺えます。道徳法則は自由の認識根拠であり、同時に人間の自由こそが道徳法則の存在根拠にもなるという考えがベースにあるのです。それゆえにこそ、カントは「定言」 の言い方を用いるのでしょう。

定言とは、論理学の用語で、「もし」あるいは「または」などの仮定・条件を設けずに、無条件に承認せよという断定的であることを担う言葉のことです。〝こうするべき〟だと命じる定言としての法則――定言命法

 

自由な理性的主体と自然な感性的媒体

わたしが小学生女児に向けて手を振らざるを得なかったことは、どこか定言命法的であるような、象徴的なものを感得させる否応なしの切迫がありました。他の行為の可能性を隠してしまうような強い押し迫り。それをすることで、まともであることが明かされるかのような、法則に駆り立てられる感じ。――しかしそれは正気であることの方へとよそ見しがちな首を、ある定められた方向へと無理矢理に正し向けさせられるという不自由ささえ湛えてはいませんでしょうか。

 

「主体/媒体」という見立てを取るわたしたちからすれば、カントの定言命法はきちんとした理性を有する主体であることを命じる論法です。それは否応なしにそうしなければならないという行為をひとに課すものです。たとえば、わたしが遭遇した小学生女児のようにして。他方で仮言命法という言い方もあり、それは「もし~だったら」などの仮定・条件を設けたうえでの、いわば損得勘定を前提にしての判断行為を指します。

モリのいる場所』の作品で言えば、この仮言命法的なものモリを訪ねてくるひとたちに当て嵌めることができるでしょう。たとえば旅館の主人などのように。モリがまともに相手にするのはそうした損得勘定を前提にしないような人々でした。とはいえモリがそのような非打算的である人々を相手にするときも、旅館の主人の要求である「雲水館」の字とは異なる「無一物」の字を書いてみせたように、定言命法的な、「頼まれたことを引き受けた責任を果たせ」というような、普遍的であることが指向された振る舞いを取りはしないのです。カントが自由な理性的主体を置いたとすれば、モリは自然な感性的媒体として振る舞っているのです。

 

表現主体の自由と反映媒体の自然

媒体としてのモリは自由であることよりも、自然であることに属します。【媒体であることを巡って――芸術家は表現主体ではない】のくだりで、「芸術家は表現主体ではない」と書き表したひそみに倣えば、「芸術家は反映媒体である」という言い方ができるでしょう。モリがもし、自身の自由を求め、それを愛していたとすれば、モリと妻秀子との以下のやり取りはわからないものになるでしょう。

何だか今日はにぎやかだったなとモリが言うと、お茶淹れましょうか?と秀子は答える。

その後、又2人で碁を始めるが、秀子はいつものように強いので、勝つことばかり考えて…とモリが嫌みを言うと、それはあなたが弱すぎるからですと秀子が言い返す。

もう1度人生を繰り返すことができるとしたらどうするかな?とモリが聞くと、それは嫌だわ、だって疲れるもん…、あなたは?と秀子が言うので、俺は何度でも生きるよ、今でももっと生きたいんだと答える。

そうですか…と秀子が言うと、生きるのが好きなんだ…とモリが言うので、また、そうですか…と答えた秀子は、こんなに長く生きちゃって…、うちの子たちはあんなに早く死んじゃって…と呟く。

(サイト『白夜館』「モリのいる場所」のページから引用――誤字と思しき箇所や表記の一部を引用者が適宜直している。)

熊谷夫婦は碁をしている。モリはいつものように秀子に勝てない。モリは秀子の碁の指し方に対して「勝つことばかり考えて…」と言います。そしてモリは「もう1度人生繰り返すことで切るとしたらどうするかな?」と秀子に訊ねます。すると秀子は「それは嫌だわ、だって疲れるもん…」と返す。それに対してモリは「俺は何度でも生きるよ、今でももっと生きたいんだ」と答えるのです。――この展開の流れは、碁の指し方と人生への態度とが隠喩的に結び付けられていると読むことができるでしょう。

 

f:id:dragmagique123:20181208152437j:plain

HP『朝日新聞DIGITAL』内の記事《(評・映画)「モリのいる場所」 畳の上でこそ出せる面白さ》より

碁の指し方において、秀子は勝とうとする。他方で、モリは少なくとも勝つことばかりを考えているのではない。モリはむしろ続けることを、ゲームすることそれ自体に安らいを、楽しみを感じているのです。

あるゲームに対して勝とうとすることはプレイヤーの当然です。負けてもいいという自由を持っているにしても、それは「手段-目的」の系で以て了解されます。モリの碁の指し方はそうではなく、ゲームを遊んでいること自体を楽しんでいるものなのです。なので、勝つことでゲームの目的を早く終わらせてしまおうとする秀子の態度を好ましく感じないのです。*11

また、碁の指し方を人生への態度として適用しますと、秀子の、人生というゲームをプレイすることは疲れるので、人生に〝もう1度〟はいらないと言うのは、さっさと勝ってこのゲームを終わらせたいという碁を指す態度へと重ねることができます。秀子が同じ場面のなかで「うちの子たちはあんなに早く死んじゃって…」とこぼしているように、彼女にとって人生は、徳川家康の言葉として知られるような「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」の観を呈しているのです。他方で、ゲームをプレイすること自体に喜びを感じるモリの方は、人生に対しても、何度だって生きたいんだという態度を表明してみせるのです。さながらハイデガーのように、存在している者は存在を〝贈り与えられている〟という態度で以て、生きている(=存在している)こと自体の幸福を謳っているいるかのようであるのです。*12

 

カントの定言命法】のくだりで触れた、わたしの小学生女児から受けたインプレッションを自由であることという点から押さえておきましょう。

わたしが小学生女児に手を振られたことで課された行為判断、および道徳法則がわたしという〈場〉において実在しようとする圧力は、強烈な威力を以てわたしが自由であるかどうかを問うて来たのでした。カントからすれば人間の自由は道徳法則を存在させることにおいて実現される。なのでわたしの場合で言えば、わたしは小学生女児に対して手を振り返すことで、自らの自由を証明することになったのでした。――しかし、それはあくまでも自由であることの証明です。そこには自由であることを証明することによって、主体であることの表明さえもしていることになっているのです。

ここまで何度も述べ重ねてきたように、モリは媒体なのです。それは象徴的に言って、主体であることとは別な状態であり、別な概念です。

モリが媒体であるということは、カントが描く自由の主体ではなく、自由という概念を免れることによって、自然であるということでもあります。主体は自己を対象へと投影することのうちに、自らが理性的であることを納得することにおいて自由です。他方で、媒体は環境を自体へと反映することのうちに、自らが感性的であることを感得することにおいて自然なのです。

 

小学生女児にまなざれること

さて、モリが小学生女児に動転したこと、より厳密に言えば、モリが小学生女児にまなざれることに驚き逃げ出したことは、カント的な自由とモリ的な自然との対比から浮かび上がるものがあるように思われます。

わたしが小学生女児からの要請によって理性的な主体としての振る舞いのコード(道徳法則)が全身を貫いたように、モリもまた自己の自然な身体のうちに立ち上がりそうになる主体の予感におののいたのではないでしょうか。媒体であらんとし、現に媒体であったモリの自然な身体に、自由への誘惑が。自然の反映媒体として庭先を宇宙とさえ交感させたモリのなかに、自由の萌芽が、それこそ、見抜かれるようにして発見されてしまうこと。ここではないどこかを志向する自由ではなく、ここにいることへの夢中、つまり、そうしたここにいることへの夢中を疎外するものが、モリにとっての小学生女児体験だったのです 。*13

 

f:id:dragmagique123:20181208160003j:plain

 その日の後で――モリのいる場所

その日のことを、モリはこう振り返ります。

なんだか、今日はにぎやかだったなぁ。

モリ自身にとっても、『モリのいる場所』をスクリーン越しに観ることとなる鑑賞者にとっても、その日は特別な調子を帯びるものだった。

鑑賞者たるわたしたちにとって、そこににじむモリの日常と、モリ自身が〝にぎやかだった〟と感じたその日、言い換えれば非日常性とのあいだに想いを馳せてみることができます。

にぎやかだった一日:出来事としての〝その日〟について】で書いたように、あらゆる物語がそうであるように、映画『モリのいる場所』もまた、普通の日の意味を深く身に沁み入らせるフックとなる特別な日を描いたものであると読み込めるのですから。

モリがわたしに考え込ませたことは超俗であることの無一物性だったと言えます。超俗であること。それは俗人ではないということ。俗人は一物があるのでしょうか。そうかもしれません。一物なき者の生態を映画で鑑賞することは、生活することにあくせくせざるを得ないわたしたちにとって、生活の別様さを垣間見せてくれます。むろん「生活」を「人生」と読み換えてみても構わないでしょう。しかしわたしはそれを「現実」と呼びたい。

芸術家はいつだって現実が別様でありえることを別物という作品によって明かしてくれる。クリエイティヴィティ(創造性)というのは、別様でありえる可能性を、現実が現実であることの潜在性のうちより作り明かす芸術家の特質です。芸術家は、ただ単にその人物に可能であったことを他の誰かにも見えるようにすること(実在化)ではなく、他の誰にでもありえることだという事実の露呈を担います。自明な現実には潜在的であった有り様を、誰しもに生きられるようにすること(現実化)が、芸術家が別様な現実を制作するということの意味なのです。

モリもまた芸術家でした。その日以前に彼がそうであったように、その日もまた芸術家だったのです。そしてその日に滲むモリの暮らす〈場〉が、『モリのいる場所』を観るわたしたちにとって(監督の作った映画としての、そして焦点化された人物としての熊谷守一としての)、制作物という結果からモリのイメージを観ることになる。

映画が虚構であるとしても、それは映画という現実体験によって享受されることになります。作り物としてのモリは、鑑賞者の鑑賞によって鑑賞者自身に生きられる依代となるのです。あたかも、ひとつの概念を知るように、ひとつの言葉を覚えるように。モリはまず鑑賞者にとってひとつの何者かでしたが、映画を観ることによって、わたしたちはモリを自己の現実へと招き入れることができます。それはつまり、ある無一物な芸術家を知ることでしかないのかもしれませんが、観ることから、モリはイメージとして現実にうつり込みます。そして、知ることから、モリは概念として作動しはじめるのです。

うつり、そして動く。映画のメディアであるスクリーンにうつり、動く。それを観ることで鑑賞者の現実のメディアであるスクリーンにもうつり、やはり動き出す。

「現実のメディアであるスクリーン」とは何か――それは、映画が映画であるように、現実が現実であることを支えるもの、言い換えれば、ここを〝ここ〟だと規定するものです。あえて現実の単位を感覚だとすれば、無数の小さき感覚器官こそがひとつの大なる現実を成立させる諸メディアだと言えるでしょう。

鑑賞者の現実でモリが動き出した結果、あの無一物な芸術家の態度によって、潜在的な現実を賦活し、発掘することさえできるかもしれません。そしてわたしたちもまた、モリのいるが如き場所に立てるかもしれない。あるいは、もうすでに実は立っているのかもしれない――などと、気づいたりして。

  

f:id:dragmagique123:20181209033735j:plain

HP『cinefil』内の記事《”名優を探せ!”『モリのいる場所』特別映像公開!「日本を代表する名優」山﨑努というイメージを覆す!?“老画家・熊谷守一の世界”になりきる画像も一挙公開!》より


あとがき

 

 

単に映画的なスクリーンとしてではなく、舞台的なスクリーンの様相を見せる『モリのいる場所』は、ある種独特なトーンで以てひとつの人生を浮かび上がらせます。無論のこと、ひとつの人生には無数の人生それぞれが渦のごとき中心を持ち、渦は年輪のように時間を廻し、それらが、決して全てが集まってくるのではないかたちで群れ集まり、多中心的であるようなひとつの森をなしています。ひとつの人生じたいがそうであるように、その森自体さえもが無類となる。たとえば、モリというひとつの人生を仮中心化した作品が、この『モリのいる場所』だと言えます。

わたしの瞳のスクリーンには、芸術家とは何か、芸術家とはどうのようにしてあるのか、そして芸術家とはなぜそのように呼ばれるのか――などの味わいを『モリのいる場所』〝で〟うつすこととなりました。

 

この記事を書いていて改めて気づいたことがあります。それは、わたしが書こうとしているのは、ただ偶然にも発見されることになった文の並び、文字の並び方に過ぎないのかもしれないということです。

何か書きたい主張があるというのではなく、いや、それはないとは言えないのですが、それはむしろ目的ではなく手段の方で、わたしが目的としていることは「あるテーマを表現しようとして自分がどのような内容を書けるのか?」ではなく、「あるテーマを自分が書くときにどのような書き方が可能なのか?」ということなのです。

要するに、コンテンツはレトリックによって表現されますが、コンテンツそのものも微分的なレトリックのまとまりとしての、積分的なひとつのレトリックなのです。レトリックの生成拠点としてあるテーマを置き、そのテーマもしくは着想からの出発によって、個々のレトリックが発生し、やがては創発的にコンテンツとしてのまとまりへと成型されていく。

 

わたしもまた、出発は反映的であると言えます。着想はまず、反映されるのです。霊感に打たれると言えばスピッてしまいそうですが、まるで何もない状態に問いが創造されるのではない、すなわち、ゼロよりはじめるのではないのです。そうではなく、ゼロから、あたかも〝おのずから〟そうなるようにしてはじまるということ。ゼロより、ゼロから。

 

映画はまさに観ることによって、問いのテーマを、見抜かれるような態で以て発見させてくれる。その点で本記事でまとめられたことは映画そのものにあったテーマであるようでいて、わたしのなかにあったテーマのようでもある。截然と両者を切り分けることはできません。鑑賞とはひとつの出会いであって、その出会いから、わたし、いや、わたしたちのテーマははじまったと言えます。わたしたちは共同制作者なのです。この記事を制作することへの。それはいったい誰との?――もちろん、役者とであり監督とであり、その他多くのわたしが映画『モリのいる場所』を観るに至るまでの関係者との。

 

要するに、わたしは映画鑑賞を事として、わたしという〈場〉で、どのように言葉が動くのかを探りました。言葉の動き方を観察すること。あたかもモリが庭先で植物や虫たちの動きを凝視したように。

f:id:dragmagique123:20181209032620j:plain

HP『cinefil』内の記事《”名優を探せ!”『モリのいる場所』特別映像公開!「日本を代表する名優」山﨑努というイメージを覆す!?“老画家・熊谷守一の世界”になりきる画像も一挙公開!》より

小林秀雄は「アシルと亀の子Ⅱ」という文章で、批評することは批評している者の自己を語ることだと言っています。*14わたしの書いたものが批評の名に値するかはさておいて、小林の言は一見して主体の権能を批評によって立ち上げるようでさえあり、権威的な自己模倣のように読めます。しかし小林の言う自己語りはただ自己をなぞるというものではありません。

小林は見神の詩人たるランボーに倣ってものを書いています。見神ということは霊感に打たれる、撃ち抜かれる――極言すれば死を迎えることです。旧約聖書では神の顔は見られない。見ると死ぬ。そのような死が見神にはある。死は自己の〈場〉を解体してしまうことでもあり、その更地に何かが創造されることでもあります。そうした〈場〉での自己語りは変容しつつある自己を伴うのです。それは、主体というより媒体としての在り方と言えましょう。

変容しつつある自己が、自分以外の他者によって認識される契機があるとすれば、それは言葉の使用をおいて他にありません。小林の書いたものから、小林の見神の程度を知る。わたしが映画『モリのいる場所』を観て覚えた感覚もまた、他の誰かに認識されるとすれば、ここまでしこしこと書き進めてきた本記事による他ないでしょう。

 

以上が、モリの一日から出発したわたしの鑑賞です。

映画を観終えるとき、劇中に焦点化された〝その日〟も終わります。観終えてもなお、わたしは〝その日〟に立ち止まることになりましたが、ここにその場所から離れる見切りが付けられそうです。

振り返り、わたしが気懸かりだったのはつまり、モリの動き方でした。「ある無一物な芸術家の肖像」と題に附したことが、わたしの気懸かりの名状と言えます。無一物に、自然に、制作に生きること。そうした生活態度を取る人物の動き方。それが問題だったのです。本記事はそれを記述してみる試みだったと、締め括らせてください。

  

 _了

 

 ※記事内で引用した映画『モリのいる場所』の画像の権利は(c)2017「モリのいる場所」製作委員会に帰属する。

 

参考資料

【サイト】

映画『モリのいる場所』公式サイト

モリのいる場所 : 作品情報 - 映画.com

”名優を探せ!”『モリのいる場所』特別映像公開!「日本を代表する名優」山﨑努というイメージを覆す!?“老画家・熊谷守一の世界”になりきる画像も一挙公開! - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン

白夜館;モリのいる場所

三上博史が「モリのいる場所」に出演、山崎努&樹木希林と「ご一緒したかった」(コメントあり) - 映画ナタリー

(評・映画)「モリのいる場所」 畳の上でこそ出せる面白さ:朝日新聞デジタル

山崎努&樹木希林、あうんの呼吸見せる 加瀬亮や三上博史も登場『モリのいる場所』予告編|Real Sound|リアルサウンド 映画部

10+1 web site|「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性|テンプラスワン・ウェブサイト

エスター見ました! | 快適を求めて

 ※順不同

 

【映画】

エスター [Blu-ray]
 

  

【本】

サンガジャパン Vol.7(2011Autumn)

サンガジャパン Vol.7(2011Autumn)

 

 

人生という作品

人生という作品

 

 

疑問の網状組織へ

疑問の網状組織へ

 

 

メディアは存在しない

メディアは存在しない

 

    

精神と自然―生きた世界の認識論

精神と自然―生きた世界の認識論

 

 

この世界を知るための 人類と科学の400万年史

この世界を知るための 人類と科学の400万年史

 

 

数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ

数学は最善世界の夢を見るか?――最小作用の原理から最適化理論へ

 

  

講座=思考の関数 1 ゲームの臨界

講座=思考の関数 1 ゲームの臨界

 

 

あいだと生命:臨床哲学論文集

あいだと生命:臨床哲学論文集

 

  

アール・ブリュット アート 日本

アール・ブリュット アート 日本

 

 

小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠

小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠

 

 

 ※本文に書名が上がっていない本もありますが、本記事の執筆に資するところのあった作品を含めたときに掲載に値するものであれば、載せることにしました。

*1:熊谷守一 - Wikipedia

*2:参照;ファルス - Wikipedia

*3:たとえばジャウム・コレット=セラ監督の映画『エスター』(2009)で、エスターという主要人物が養子として迎えられた家の義兄に向けて次のように言います。「ウソだったらツルツルのチンチンちょん切るよ。まだ本当の使い方を知らないうちにね」(わたしの記憶が曖昧でしたので、エスター見ました! | 快適を求めてからうつさせてもらいました。)エスターが言う〝本当の使い方〟とはエスターの屈託の性質上、性的な行為を目的としたものであることは間違いないわけです。ここで前提にされている価値観が〝ちんちん〟の性的な使用と自己の実現とが一致していることです。わたしたちが『モリのいる場所』を通して考えていることと絡めて言えば、ファルスすなわち権威の象徴である〝ちんちん〟が生殖の機能と自己実現の手段とを担っているのです。二つの目的を叶えるために〝ちんちん〟としてのファルスはやはり、ふくらんでいなければならないのですね。

*4:サンガジャパン Vol.7(2011Autumn)

*5:胡蝶の夢 - Wikipedia

*6:自然(じねん)とは - コトバンク

*7:ドリフ大爆笑 - Wikipedia

*8:三浦雅士疑問の網状組織へ』,筑摩書房,1988)

*9:変化は存在する、ゆえに変化は存在する。この文をわたしはレナード・ムロディナウの『この世界を知るための 人類と科学の400万年史』から借用しています。出典は不明ですが、アリストテレスの言葉である模様。

*10:会社人間(カイシャニンゲン)とは - コトバンク

*11:秀子の碁の指し方の速さに注目してもいいでしょう。秀子はとにかく速い。モリの指した手に対して即座に対応する。そして勝利に向けてゲームを進めていく。勝つことはゲームの終わりとなります。ゲームを終えるということは勝敗をつけ、そのゲームを〝あがる〟ことです。秀子の問題には解決を、試合には勝敗を求めていく態度は、彼女自身が2度目の人生があったらというモリの問いに対して答えた「疲れる」という言葉は象徴的です。彼女はモリとの碁のゲームプレイのように、早くあがりたいのです。人生からあがること。

*12:M・ハイデガーハイデッガー全集 第14巻思索の事柄へ 』,筑摩書房,1973(1969)

*13:ここにいることへの夢中という点から、モリが知らない男こと宇宙人からの誘い――「この庭から広い宇宙へ行きたいと思いませんか?行きましょう!」――を断ったことにも説明が付けられるかもしれません。なにせモリにとって旅立つ必要のある〝どこか〟は熊谷家の庭である〝ここ〟ではないという意味で、ここにいることへの夢中を疎外することになるでしょうから。

*14:小林秀雄「アシルと亀の子Ⅱ」『小林秀雄全作品〈1〉様々なる意匠』新潮社,2002,p216-217