書き手はプラットフォームのなかで機械になりたい:試考日記0001(2019年3月15日)
試考日記なんてものをはじめてみます。なるべくチャラチャラ書くことを目指すという代物です。チャラチャラとは何かってのはまだよくわかっていないのですが……。
今回書いてしまったのは「書くこと」に関することです。何を書くのか、どこで書くのか。それと〝どこで書くのか〟ってことが書き手にとってどういう意味を持つのかって話になってしまったようです。最終的には書く機械になりたいという欲望が登場してます。
目次をご覧になって、関心が湧くことがありましたら、お目通しするのも一興かと存じます。
試考日記
試考日記みたいなものを書こうかな。
思考日記ではなくて。
書こうとしているものが先にあるんじゃなくて、書いてしまったものに名前を付けたり、意味を見つけたりするって書きかた。
だから思考というよりかは、試考のほうが的確だ。
考えを試すってニュアンスが強いからね。
とは言っても文章で書いちゃってるってことは「思考」ではあるんだろうけれども。
何を書くのか/どこで書くのか
何かを書く/どこかで書く
書きながらさっそく思いついちゃってるんだけど、何かを書くのが好きってことはステキだよね。だけど、どこで書くのかってことはプロアマ問わず、物書きにとっては無視できない。部屋にこもって手書きでアナログにノートに書いたりすることだって、お金をもらってどこぞの媒体に発表していることだって「書く」こととしては同列ではるのだけれど。
読まれるために情報であれ
素朴な書き手にとっては〝何を書くのか〟が大切になる。書くことに純粋さがあるとすれば、どこに書くのかに頭を悩ませていることは不純だ。ただ自分が書くことにだけ集中できればそれでいい。
けれども、誰かに読まれなければ書いた意味がないという価値観だってある。言い換えれば、書いたものが「情報」じゃないのならば、書いた意味がない。そんなふうに。
粋な読書家の作文観
ところがどっこいで、情報だけを求める読み方は、こう言ってよければ無粋な感じもある。活字を愛する読書家が求めるのは情報ではなくて、読むことそれ自体にあるのだから。
粋な読書家にとって読書時間は賭金ではなく、楽しむべきゲームそのものなのだ。書き手の側にもそれは言える。つまり、書くことそれ自体が読まれることに優先される――そういう作文観もある。
読者の目で書く
とはいえ、とはいえ。読まれることは結構大事です。
なにせ〈読まれる〉って経験がないと〈書くこと〉なんてできないからね。
うまく書くためには読者の目に晒されるってことは自分の腕を磨くためには必要な工程になる。
例外もあるだろうけれど、多くの場合に「言葉が使える・文字が使える」ってことのうちには〝他人の使い方〟が踏まえられている。
自分の目=他人の目
これは〝世間の目を気にする〟ってことにも繋がる。
朝、目を覚まして、家を出る前に鏡を見る理由は〝他人に見られるようにして自分を見て、他人に見られてもおかしくないかどうかを自分の目=他人の目で確認する〟ってことだから。
読まれるためには情報に仕立てなければならない。……と、なれば、引きこもってばかりもいられない。
幸いなことに今やネットがあって、SNSやらブログやらと各自で勝手に公表できるインフラが整ってる。
未熟な書き手の成長にとって何を書くかは重要ではない
未熟な書き手もいずれ成長していくものだと信じるなら、彼が何を書くのかは差し当たっては不問に付しておいたほうがいいのかもしれない。未熟である彼には腕、つまりは技術がないのだ。経験もない。知識を詰め込んだとしても実践的ではない。だから彼が何を書いたとしても、高の知れたものでしかない。体を具えていないもの、具体的ではないものが誰かに感銘を与えられるようには思えない。良い書き手には〝文体がある〟と、どんな良い書き手だって言っている。だからこそ、書く文に体を持たせることは書き手の未熟さを脱色するためには必要なのだ。
未熟な書き手の成長にとってどこで書くかが重要になる
わたしがここに書いてしまおうとしていることは次のことだ。
どこで書くのか。書き手はまずそれを気にするほうがいいのではないか、と。どこで書くかによって、いや、〝どこで書いたのか〟によって、未熟さは抜けていくことになるだろう、と。書き手である彼が何を書くことになるにせよ、どこで書いたかという事実は強みになる。
どこで書いたにせよ、書き手の書くための腕は総合的に高まるに違いない。
プラットフォームの構築と機械でいられる環境
書く場所を作って感じたストレス
さて、「書く」ための場所のひとつにブログがある。
わたしはブログを幾らか弄ってみたんだ。大げさに言えば書くためのプラットフォームを構築するつもりで、「ブログを作る」ってことをしてみた。そしたらその大変さにびっくりした。ストレス半端じゃないっ! くたくただったんですよ。どんなブログにするかとか何をしたいのかってこともわからなくて右往左往。迷子状態。肌も荒れるし読みたい本は読んでられないしで、とにかくストレスが募っていった。
うまく描く機械になりたい!
話は変わるけれど、わたしの友人に美大を卒業して絵を描く能力を買われて就職をしたひとがいる。そのひとはこう言った。「私は絵を描ければいい。絵を描く機械なんです。うまく、うまくなりたいんです。うまく描く機械になりたいんです。」
そのひとの考え――人生の態度では、絵をうまく描くことが第一で、その絵で自分が画家として有名になったりしたいわけではないのだ、と。もっと言えば、描いた絵もそれほど重要じゃないらしい。うまく描ける自分になりたいと考えているのだ。
プラットフォームのなかで機械になる
絵描きの考え方をわたしのブログの環境構築への苛立ちに重ねてみよう。
あの絵描きはプラットフォームがあれば、その内部で自分が描く機械になっていられるという安心感を得られる。わたしはそうしたプラットフォームを持っていないので、自前で支度する必要があり、そのためにブログを立ち上げることにしたわけだ。プラットフォームの建設である。それで、おssssっそろしくストレスフルで気が滅入ったのが、わたしの有様だったってわけだ。
書く機械になりたい!
どこで書くかは大切だ。プラットフォームを使って、誰かの目に晒される可能性に自分を、自分の作品とともに追い立てるためには。
書くことに耽っていたい書き手は、ただ書ければいい。なのにどこで書くのかに頭を悩ませなくてはならなくなると、〝ただ書いている〟ということさえままならない。大元の欲望に焦点を当てるなら、きっと彼は書く機械であればよかったのだ。あの絵描きが職場というプラットフォームのなかでそう考えているように。
不思議な欲望は言葉の綾とは限らない
機械になりたい。
これは不思議な欲望だ。
もしかしたら間違っているのかもしれない。
言葉の綾かもしれない。
だけれど、わたしが感じたブログ作りのストレスを思い出すと、妙に納得がいく。
エンジニアとクリエイタ
要するに、わたしは自分が機械でいられる環境を作ろうとしていたのだ。自分が機械になれる場所を作ろうとして、そして疲れてしまった。あの疲れはわたしのエンジニアとしての能力のなさに由来しているのではないかしら。エンジニアは環境を構築する、数学的で論理的な頭脳を具えた建築家。わたしは不遜ながら今のところクリエイタ風情でしかないのではないかしら。与えられた環境でせっせと作っては あの絵描きのことを、また思い出す。あのひともきっとエンジニアじゃないのだ。だからこそプラットフォームに憩うことで己れを機械化させていられたのだろう。
わたしはいまだに機械になれていない
ああ、困った。いまだに、わたしはブログの些末な設定に取り組むとき、機械になれず、エンジニアにもなれないでいる自分と向き合う羽目になる。
_了