なぜ本当に書きたいことは書き出すことができないのか:試考日記0002(2019年3月16日)
ふと思ったこと。とりあえず、わたしは書いているけれど、本当に書きたいことのほとんどがまだ手つかずのままなんじゃないだろうか。これってヤバい。なんのために考えているんだ!なんのために書いているんだ!――この、一種の欠落感について、書いてしまっていました。
本当に書きたいことに手をつけていない
わたしは、いくつかのことを、ブログで書いてきた。
けれども、書きたいことのすべてを書いてきたのではない。
本当に書きたいと感じたものには手をつけていない。
これは密かに、けれども重大に――問題だ。
実のところ、本当に書きたいと感じたことには手をつけてこられていない気がしてならない。その実感は間違っていないのだ。
たとえばわたしは2018年の9月に上野の美術館に出掛けて「ミケランジェロ展」を観に行った。そこで個人的には核心的な認識の萌芽のようなものを頂戴したつもりでいて、ほくほく顔で知人に「このことについて考えをまとめてみたい!」と宣言していたのだ。なのに、わたしはまだ、それを仕上げてはいない。いまだにブログの下書きの段階にわだかまっている。
本当に書きたいものは、ふと思いついた〝書きたいこと〟によって邪魔されてしまっている。とりあえずわきに置いて、こっちの文章を書き上げてしまおう……云々。そうやって無意識的なチカラによって書くきっかけは先延ばしにされてきてしまったのだ。
なぜ?
本当に書きたいアイデアを書き出せない理由
なぜ、本当に書きたいと思っているアイデアを書き出すことができないのだろう。
おそらく、理由はこう表現することができる。――本当に書きたいと思っているアイデアを書き出すことができないでいるのは、そのアイデアが本当に書きたいことだからだ。
同語反復的な言い方だ。トートロジーというやつだ。
だけれど、おそらくそれが答えなのだと思う。
とりあえずの第一行を待ちながら
要するに、こうだ。
〝本当に書きたい〟という想いは〝中途半端を許すことができない〟という想いと同じコインを共有している。つまり片方が表なら、もう片方は裏なのだ。同じ1枚のコインであることに変わりはない。
中途半端を許せないとなると、入念な下準備が必要だと感じて、執筆するにはあまりよろしくない完璧主義が頭をもたげることになってしまう。完璧主義であることで不完全な第一行を許すことができないのである。第一行がなければ第二行もなく、第二行がなければ全文が完成する日なんてやってこない。
本当に書きたいのなら、失敗を恐れずにまずは書いてみる必要がある。そうすることによって、書くべき文章の骨格や輪郭が浮かび上がってくる。トライアル&エラーがなければ具体的なものはできない。抽象的な観念のレベルでアイデアを温存していても、いつまで経っても完成することはない。千里の道も一歩から、なのだ。手を足に変えて千里の道の第一歩を踏み出すように、とりあえずの第一行を書き出してみることが大切なのだ。
だからこそ、この【試考日記】もまた不完全でも構うものかという気構えで、書いている。
第一行の、第一文の、第一字の、その感動*1がつねに待ち遠しくてたまらない。
_了
*1:動詞的な感覚はとても大切だと思う。下手に主語を意識したものはろくなもんじゃない。大切なのは、何がどのように動くのかだ。何事もはじめに感動がある。感動が世界を創造する。