can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

自由へと進撃する過程について:夕陽的中動態と進撃的能動態

 この記事で言及しているのは中動態、【紅蓮の弓矢】【二ヶ月後の君へ】【紅蓮の座標】――Linked Horizon、【見えざる腕】――Sound Horizon、『進撃の巨人』、『ジョジョの奇妙な冒険』(第五部)。長くなっていますが、興味のある話題へと、目次から適当に飛んで部分的にお読み頂いても構いません。

 

 

 

【二ヶ月後の君へ】について

 

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2018年から、中動態について考えることが多くなっています。

そんなわたしはある楽曲およびその歌詞の言葉が胸に去来するのです。

しかも、中動態への関心と奇妙な絡まりを示しながら。

それは、Linked Horizon(以下リンホラ)*1というアーティストの【二ヶ月後の君へ】という楽曲です。

 

その曲に“沈みゆく この夕陽を 君は何時か 必ず追い越して”というくだりがあるのですが、わたしは、どうにもその箇所が気になってしまうのです。

しかも中動態の文脈で。

 

まず、【二ヶ月後の君へ】の歌詞をご覧ください。

 

今君の瞳(め)の前には どんな景色が広がっている?
高い壁に遮られた視界 何が見えるのだろう?

空を征く鳥の眼には どんな地平が映っている?
高い壁に鎖された未来 君は壊すのだろう?

紅蓮の灯を纏い 水平線の彼方へと
沈みゆく この夕陽を 君は何時か 必ず追い越して
紅蓮の➸(矢)のように 己をも灼きながら
遥か自由へと進むだろう……

地に萌える草の芽には どんな希望が宿っている?
高い壁に護られた世界 何れ変えるのだろう?

紅蓮の花が咲き 弔いの鐘が響く
名も知らぬ どの戦果も 道を通り 必ず憶い出す
紅蓮の➸(矢)のように 過ぎ去りし時を超え
絶えず自由へと進むだろう……

これからも続く戦いは 更に苛烈さを増すけれど
今君が其処に立つだけで 誰かの勇気になっている

嗚呼… 二ヶ月後の君へ 何を言えば良いだろう
言葉の無力さを 噛み締める……

(紅蓮のともしびも13の冬を巡り)

燃え尽きる その-軌跡-は 僕が全て 必ず詩にする
紅蓮の➸(矢)のように あの空を翔け抜けて
君は自由へと進むだろう……

君はまだ何も識らない 世界のことも本当の敵も
広がる地平未知の世界へ 夢見る時を終えて旅立とう

奪えない自由は 何時だって 其処にある
全てを背負い さぁ 征こうぜ!

ー立ち向かい続ける 二ヶ月後の君へ

二月吉日 某所にて Revo*2

 

 

【二ヶ月後の君へ】は諫山創による漫画『進撃の巨人』の世界観に沿って作られた楽曲のひとつです。

 

進撃の巨人』の世界

 

進撃の巨人』について触れます。

作中、人類は巨大な壁のなかで生活を送っています。壁の内側では人類は繁栄を誇っていますが、その壁の向こうでは人類の敵である巨人が闊歩している世界。ある日、他の個体よりも遥かに巨大な巨人によって、壁が破壊され、人類がカリソメの自由を謳歌していたに過ぎないことが露見します。壁が、壁外に迫る不自由から人類の目を背けさせてくれていたという事実。壁が壊されたときに、巨人に母親を殺された主人公エレンはすべての巨人の駆逐を誓い、物語は巨人の謎、壁の意味、人類の歴史をめぐって裾野を広げていきます。

 

 

Linked Horizonの音楽

 

上記の『進撃の巨人』を歌にするにあたり、リンホラは〈自由〉に焦点を当てました。彼らの一枚目のアルバム『ルクセンダルク紀行』のリード楽曲である【Theme of the Linked Horizon】において表明される彼らの活動コンセプトが、〝〽僕達は自由さ〟*3であることも大いに関係があるでしょう。実際、『進撃の巨人』のために制作された楽曲には【自由の翼】があり、件の【二ヶ月後の君へ】が収録されているアルバム名も『自由への進撃』です。

 

【二ヶ月後の君へ】の歌詞を読んでもわかりますように、これは『進撃の巨人』の世界観が前提になっております。そこには『進撃の巨人』という作品世界のなかで納得できる、いくつかの象徴的な言い回しが用いられています。そうした象徴的な意味を担った言葉には、ある種の解釈の余地がつねに開かれていることがわかります。

リンホラの主催者であるRevoがもともと、自分の作品がリスナーによって解釈されることにオープンな態度を取っているというのもありますが、Revo自身が独自の設定に基づいた言い回しを使うことが多いです。

それゆえにリンホラのファンは必然、「どのような意味があるのだろうか?」という謎解きに巻き込まれることになります。それを楽しめるか否かがリンホラの楽曲を楽しめるか否かのひとつの分岐点と言っても差し支えないでしょう。もちろん純粋に音楽を楽しむファンもいますし、そのような楽しみかたをアーティストとしてのリンホラもむしろ望んでいるでしょうが。

 

 

中動態について

 

なぜ中動態か

 

本稿では冒頭でも書きましたように、中動態について考えていたわたしとの関係について述べるつもりです。なので、だいぶ作者やおおかたのリスナーが感じる楽曲のイメージとは違っているでしょう。別な言葉で言えば、この記事は「わたしはこのように聴こえた」「わたしはこのように聴いている」という表明ではないのです。そうではなく、「わたしが聴いていた音楽がこのような意味を宿してしまった」ことの表現なのです。

 

 

「~する」と「~される」の地平線

 

日本人としてのわたしたちが言語学が記述する〝態〟を意識させられるのは、外国語学習がきっかけになることが多いでしょう。そして能動態と受動態、すなわち、「○○が~する」と「○○が~される」という言葉の使い方があることを知ります。

以降、日常生活の場面においても――

 

「自発的(能動的)に動けよ」

「受身(受動的)になるなよ」

 

――などの言い方が適用できる場合があることに気づくようになります。

 

しかしこれは世界が「~する」と「~される」に限定されていってはいないでしょうか?

素朴に英語を学び、その文法体系を理解した結果、言葉の世界には「~する」か「~される」の2つ限りの理解仕方だけになってしまったのではないでしょうか?

 

考えてみれば、能動態か受動態かの言葉の使い方を学んでから以降、わたしたちはそれ以外の人間の意志と行為の関係の表し方を思い浮かべることが難しいです。

テレビドラマなどで、裁判が行われているシーンを観たことがあると思います。そのイメージを借りれば、あそこでは「事件の責任は誰にあるのか」が問われているのです。要するに、 「加害者は誰で…被害者は誰か?」*4

ということが問題なのですね。ここには英語で学んだ能動態と受動態の考え方があります。加害者には能動的に犯行にコミットする意志があったとし、被害者には受動的に事件に巻き込まれた立場が読み込まれているのです。――ここには中間がないのです。ただ、事件の当事者ではなかった人たちの臨席があるだけ。

 

そこで中動態なのです。

 

法廷は現場ではない――中動態の地平線

 

中動態という〝態〟の存在を現代日本人が知るには、大学で古典ギリシャ語の講義でも取らなければ、知ることはないでしょう。

そんななか、2017年に哲学者である國分功一郎がものした『中動態の世界』が人文書の棚に並んだことは、中動態をずいぶんと馴染みのある言葉にしました。

その本のなかで、國分は中動態についての偉大な先蹤者である言語学者バンヴェニストの中動態研究を次のようにまとめています。

 

能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる。(『中動態の世界』p88:原著で傍点が打たれている箇所は太字で表しています。)

 

わたしは裁判を例に挙げて、法廷には事件に係わる加害者と被害者の中間がいないのだと書きました。しかし、そうしたシチュエーションに中動態を持ち込むのは、正確には、加害者と被害者の対比の中間を表現できることなのではありません。正確に表せば、裁判の例で言えば、「誰が犯人なのか?」ではなく「事件はなぜ起こったのか?」へと観点をシフトすること――それが〝中動態で〟見る世界なのです。

 

要するに、中動態は、能動態と受動態の中間に位置づけられる〝態〟ではないのです。

 

「能動態/受動態」の区別は「誰が犯人なのか?」という責任の所在を問うものでした。このことを國分は「訊問的(な言語)」という言い方で表現しています。

「~する」と「~される」の地平の帰結は、被害者的なアイデンティティと表裏というわけです。なにせそこではあらゆる行為が、「させられたこと」へと変換可能なのですから。

たとえばスーパーマーケットでの買い物でもそうだ。あそこでは往々にしてBGMが流れていますが、あれが客の購買意欲を操作していると見る向きもあり、現にそうした研究もマーケティングの一環としてなされています。*5BGMによって客としてのわたしたちの意志が左右されているとわかれば、そこでのあらゆる「買う」行為は「買わされた」へと書き換えることができます。

「誰が犯人なのか?」という責任所在の訊問的姿勢は、逆説的に、無責任な行為主体を構築せしめてしまうことになる、という穿った観点も立てられるでしょう。

犯人を決めつける姿勢は、「自分は被害者に過ぎない」構えを許容してしまう…とあらば、「能動態/受動態」の基準だけなのはいただけませんね。

 

 

他方で、『中動態の世界』が語るように、「能動態/中動態」の区別もあるのです。

わたしは裁判の例のなかで、中動態を通して眺めると「事件はなぜ起こったのか?」という観点に立つことになると言いました。そこで事件は、ひとつのプロセス(過程)として了解されることになります。つまり事件が起こった結果を実現するためのプロセスとして。

そうしたプロセスのなかで、その事件に関係する当事者の事情や、精神状態、体調、環境――などなどの諸条件が、事件という結果に対してどのような効果があったのかを問うのです。

しかし、「風が吹けば桶屋が儲かる」、「バタフライエフェクト」――などの言い方もあるように、事件という結果が起った原因はほぼ無際限に遡って決めつけることができてしまいます。これは荒唐無稽な話に思えますが、実は中動態が「能動態/受動態」を批判する根拠なのです。

國分は「能動態/受動態」の区別に「訊問」という言い方を附していますが、「能動態/中動態」の区別では「覚悟」がカギになるだろうと示唆しています。*6覚悟というのは自分の巻き込まれている状況を自ら引き受けることです。((荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』を参照すれば、いたるところに「覚悟」の具体的心境が散見されることかと思われます。また、國分功一郎が『中動態の世界』というタイトルを決めたのも、『ジョジョの奇妙な冒険』の第三部における宿敵ディオと対決する話の小タイトルである「DIOの世界」にちなんだものであるとのことです。この意味で、中動態と『ジョジョの奇妙な冒険』は無関係ではありません。

以下は國分のTwitterでの当該ツイート。

 

 

 

 ))國分は、そうした引き受けの態度を基にすることを通してのみ自由はありえるのだと考えます。*7そうした態度は、言い換えれば、被害者である余地をあきらめる(諦念)ことです。

 

中動態の地平から自由を望む

 

わたしの考えでは、被害者であることをあきらめると、ある種の「試されている自分」になれます。試練に臨む者は被害者とは違います。*8課せられたタスクに対処するとき、それを達成することはひとつの報酬です。その報酬を得ることは良いことなのですから、達成へのプロセスはポジティブな意味を持ちます。

「能動態/受動態」の地平を「訊問」という言葉を手掛かりに「被害者」の言い方でまとめました。「能動態/中動態」の地平には「覚悟」という言葉をあてがうことができるようですが、「覚悟者」という言い方は変なので、わたしはこちらには「挑戦者」という表現を用いることにします。

 

挑戦者は己れを「試されている自分」だと自己認識します。己れに課せられたタスクをこなしていくことは、成功報酬である達成という一事を目掛けてなされます。その意味で達成までのプロセスはポジティブなものとなります。しかしそのプロセスに対して、ひとはしばしば「めんどうくさい」という感想を抱きます。こうなるとプロセスはネガティブな色合いを帯びます。

ここで道は二手に分かれるのです。

 

一方は被害者の道。――なんで自分がこれをやらなければならないのか。ああ~めんどうくさい。やりたくない。

 

他方は挑戦者の道。――なんで自分がこれをやらなければならないのか。ああ~めんどうくさい。でもこれをこなしたら、〝めんどうくさいことをこなした自分〟になれる!

 

前者では「めんどうくさい」が自分がやらない理由を強化することになっていますが、後者だと「めんどうくさい」という感想自体が自分がやることの理由を強めることになっています。

 前者では「やらされる」という意識が前景化し、まさに被害者意識の様相を呈しています。

ところが後者だと「やってみるか」という覚悟によって、挑戦者意識とでも呼べる姿勢が起動しているのです。

 

つまり、プロセスに対する「めんどうくさい」という感想は、プロセスにコミットしない表明にもなりますが、その逆に、コミットする動機にもなりえるのです。

 被害者から挑戦者へ――このように捉え直しでみると、どちらがおもしろいのか、いや、生き心地がいいのかは、想像に難くありません。

 

試された自分と状況の著作権

 

挑戦者についてもう少し書きつけます。

先述の通り、國分は受動態に対立する能動態ではなく、中動態に対立する態としての能動態があるとし、そこにこそ自由への希望があるのだと言います。

 そしてわたしは「試されている自分」の構図を引き、そうした態度を「挑戦者」としてのそれだと述べました。

「試されている自分」をより理解するために、中動態に馴染みのないわたしたちにとっては親しみやすい「能動態/受動態」の地平をくぐらせて考えてみたいと思います。

 

「試されている自分」と言うとき、「能動態/受動態」の地平からは、何が自分を試していて、何に自分は試されているのか、という問いが出てきます。加害者と被害者を取り決める訊問というわけです。

しかし「能動態/中動態」の地平を通して見ますと、そこには事件が起こった場があるだけで、特定の誰かに責を負わせることができないことに気づけます。*9

ふたたび「能動態/受動態」の地平に戻りますと、「事件が起こった場」、いわば〈世界〉とでも呼んでやっても構わないような主体を仮定できます。

すると「試されている自分」を試しているのは〈世界〉ということになります。

さらに「試されている自分」は、ときに己れを逆立てます。

つまり「世界に試されている自分」であることのなかで、「世界を試している自分」へと立場を変状させることがありえるのです。*10

 

「能動態/中動態」の地平において、中動態は自分が何によって現状に直面しているのかという部分を一度隠すのです。そうして「能動態/受動態」の地平では、「するかされるか」だった事態=状況が、その責任主体を隠すことにより、ある種の著作権フリーになるのです。

状況の著作権というのはこの場合、ある状況の責任を何者かに負わせざるを得ない判断システムと言えましょう。

なので、状況の著作権がフリーであるというのは、責任の所在をぼかすことになり、特定の誰かに状況の責任を被せることができなくなります。

これが、「するかされるか」だった状況を、「外にあるか内にあるか」の地平へと切り換えることになるのです。

「能動態/中動態」の表記に目を向ければ、それは「外/内」として換言できます。

たとえばある組織の内部にいる人間と外部にいる人間とでは物の見方が変わります。この例えでの「組織」が、著作権の例で言うところの「作品」となります。もっと嚙み砕くと、ある映画があるとすれば、その映画の登場人物にとって自分自身は「映画のなかの人物である」という意識はありませんし、原理的にその自己認識を持つことができません。「能動態/中動態」的な「外にあるか内にあるか」のイメージで言えば、彼は映画の内にいます。しかし彼が自らが映る映画作品の外部に立つことができるとしたら?――國分が言語と人間の関係に着目して「意志と責任の考古学」に着手したうえで到達した人間の自由の可能性は、そのようなかたちで表現することができるかと思います。

 

このように筋道を立てれば「能動態/中動態」の地平も見通しがよくなるのではないでしょうか。

中動態でさきほどの「試されている自分」を眺めなおしますと、それを〝ひとつのプロセス〟として理解できます。または〝ひとつの状態である〟と。そしてその状態が、〝あるプロセス〟のなかに在るということで、それが「変状を来すことが可能であるような流れのなかに在る」という事態を告げているのです。

 

 

【二ヶ月後の君へ】および「自由への進撃」検討

沈みゆく夕陽と、弓矢と座標の紅蓮さに関する考察

【二ヶ月後の君へ】

 

「能動態/中動態」の地平を巡って得られたイメージを携えて【二ヶ月後の君へ】のほうに視線を向けることにします。

わたしは“沈みゆく この夕陽を 君は何時か 必ず追い越して”というくだりが特に気になっていたのでした。

 

何が気がかりなのかというと、まず「夕陽」*11に躓きます。

夕陽はただ記号としての夕陽であるようであり、象徴的には終末感覚とでもいうような、ひとが途方に暮れている心情の投影のようでさえあります。

〈夕陽〉とはあるひとつの現象です。黄昏時にひとが出会う現象。

それは中動態と変状という言葉を用いると次のようにも言うことができます。

夕陽が夕陽であることによって、夕陽状態を維持する過程のうちに、夕陽の状態が(終わりに向けて)変わっていく過程が含意されている、と。つまり変状しつつあることが。

 

〈夕陽〉現象はそれを前にしている誰かにとっては、「夕陽を前にしている自分」という事態が、その者の浴している状況としてリアルに感じられます。

ある人物に「夕陽が夕陽として現れている」とき、その〈夕陽〉は「夕陽が夕陽として現れている」過程のなかで実現します。

――と同時に、 〈夕陽〉は絶えず「夕陽が夕陽として現れている」過程のうちに暮れていきます。

いわば、〈夕陽〉は、それが現象していることのなかに、その現象を否定する向きがあるのです。*12

カッコつけて言えば「現象の自己否定性」と言ったところですかね。

そうした〈夕陽〉の性質を、「夕陽的中動態」と仮固定してきます。

 

 

〈夕陽〉が宿す「現象の自己否定性」というのは、【二ヶ月後の君へ】において象徴的に機能しているように思います。

〈夕陽〉は「沈みゆく」状態にあります。これは当たり前のことかもしれませんが、わたしは【二ヶ月後の君へ】を〝読む〟とき、「沈みゆく」と「この夕陽」とは〈夕陽〉という記号にそのまま収納できるようには考えません。

〈夕陽〉は「君は何時か 必ず追い越して」とあるように、それに向かっていくものとして象徴化されています。

 

リンホラが『進撃の巨人』という作品世界を楽曲へと翻訳するのにこだわる、「紅蓮の弓矢」という言葉のイメージを思い出してもいいでしょう。

【紅蓮の弓矢】の楽曲のなかで“迸る「殺意」(しょうどう)に 其の身を灼きながら 黄昏に緋を穿つ 紅蓮の弓矢”*13とあるように、「紅蓮の弓矢」と化すのはひとであって、そしてここでも「緋を穿つ」とあり、【二ヶ月後の君へ】がそう描いているような〈夕陽〉の「追い越し」が期待されています。

 

要するに、【二ヶ月後の君へ】では「この夕陽」は、それ自体としては沈みゆくナニカなのではなく、ひとが追い越すべきナニカとして意味付けられているのです。

 

では、「沈みゆく」というのはなんでしょうか?

わたしは【紅蓮の弓矢】の歌詞から理解のための筋道を敷こうと思います。

 

 

【紅蓮の弓矢】

 

【紅蓮の弓矢】の歌詞は次の通りです。

 

Seid ihr das Essen?
Nein, wir sind die Jager!


踏まれた花の 名前も知らずに
地に墜ちた鳥は 風を待ち侘びる
祈ったところで 何も変わらない
不本意な現状」(いま)を変えるのは 戦う覚悟だ…

 

屍踏み越えて 進む意志を 嗤う豚よ
家畜の安寧 …虚偽の繁栄 …死せる俄狼の『自由』を!

 

囚われた屈辱は 反撃の嚆矢(こうし)だ
城壁の其の彼方 獲物を屠る「狩人」(イェーガー)
迸る「殺意」(しょうどう)に 其の身を灼きながら 黄昏に緋を穿つ
紅蓮の弓矢


矢を番え追い駈ける 標的(やつ)は逃がさない
矢を放ち追い詰める 決して逃がさない
限界まで引き絞る はち切れそうな弦
「標的」(やつ)が息絶えるまで 何度でも放つ
獲物を殺すのは
「凶器」(どうぐ)でも 技術でもない
研ぎ澄まされた お前自身の殺意だ


Wir sind die Jager 焔のように熱く!
Wir sind die Jager 氷のように冷ややかに!
Wir sind die Jager 己を矢に込めて!
Wir sind die Jager 全てを貫いて征け!


何かを変える事が出来るのは
何かを捨てる事が出来るもの
何ひとつ「危険性」(リスク)等 背負わないままで 何かが叶う等……


暗愚の想定 …唯の幻影 …今は無謀な勇気も…
『自由』の尖兵 …賭けの攻勢
奔る奴隷に勝利を!


架せられた不条理は 進撃の嚆矢(こうし)だ
奪われた其の地平『自由』(せかい)を望む≪あの日の少年≫(エレン)
止めどなき≪殺意≫(しょうどう)に 其の身を侵されながら 宵闇に紫(し)を運ぶ
冥府の弓矢

(※引用サイトの記載の一部を適宜修正しています。)

 

【紅蓮の弓矢】は第1期テレビアニメ『進撃の巨人』のOP曲として発表されました。

進撃の巨人』は既述のとおり、人類 vs.巨人の構図を想定に描かれた「世界観→楽曲」翻訳です。

そこではあたかも被害者としての人類と加害者としての巨人が押さえられていて、歌詞に使用されている言葉も「地に墜ちた鳥は 風を待ち侘びる」「不本意な現状」「囚われた屈辱」「奔る奴隷」「架せられた不条理」――などとあります。

それらは概ね、わたしたちが確認した「能動態/受動態」の地平の言葉です。

つまり、「するかされるか」が問題になっているのです。

 

ところが、それらの「するかされるか」の地平は、同じ【紅蓮の弓矢】の歌詞のなかで批判されてもいます。

適宜抜粋しますと、「祈ったところで 何も変わらない「不本意な現状」(いま)を変えるのは 戦う覚悟だ…」「囚われた屈辱は 反撃の嚆矢(こうし)だ」「何かを変える事が出来るのは 何かを捨てる事が出来るもの」「架せられた不条理は 進撃の嚆矢(こうし)だ」――などなど。

ざっと浚ってみても「能動態/中動態」の地平から発せられている言葉として理解することができます。

なにせそれらは現状のマズさを認識し、それを変状するために覚悟を決め、そのうえで紅蓮の弓矢の如く進撃せよ――と謳っているのですから。

 

とあらば、【二ヶ月後の君へ】の「沈みゆく」という言葉は変状することが願われるようなネガティブな状況を示唆しているのではないでしょうか。

【紅蓮の弓矢】の歌詞の表現を用いれば、「『自由』(せかい)を望む≪あの日の少年≫(エレン)」にとっての「奪われた其の地平」が、まさに未来のない「沈みゆく」ほかない状況を告げているのではないでしょうか。

現状のマズさ、もしくはマズい現状それ自体が。

 

この状態に甘んじていては『自由』の見込めない「沈みゆく」地平の先に、あたかも彼の不自由な境遇を投影するかの如くに暮れゆく〈夕陽〉があり、ひとは眼前に広がるその夕陽を越えていくように、もしくは緋を穿つように、『自由』を目指すのです。

興味深いことに、雪野(仮)さんというかたは「ポジティブなイメージを持つ夕焼けに茜色を、緋色は不吉な夕焼けを強調したいときといった感じで使い分けられますかね。」(https://ncode.syosetu.com/n1116ei/5/)と書いています。

【紅蓮の弓矢】において紅蓮の弓矢と化したイェーガー(狩人)は黄昏に緋を穿ちます。*14

そのイメージを【二ヶ月後の君へ】で使用されている言葉と掛け合わせますと、

 

紅蓮の弓矢の如く

殺意を赤熱させた狩人が

己をも灼きながら

沈みゆく緋色い夕陽を前に

何時か必ず追い越す覚悟を決め
遥か自由へと進撃する

 

――のようになるでしょう。

 

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【紅蓮の座標】

 

「紅蓮」の意味をもう少し掘り下げてみたいと思います。

 

リンホラには【紅蓮の弓矢】と対を成すと言ってもいい【紅蓮の座標】という楽曲もあります。

もちろん『進撃の巨人』のために制作されました。

 

まず、歌詞を貼ります。

 

狩人だと嘯いた お前は飢えた獣
「馴れ合うくらいなら 死んだ方がマシだ」と吠えた

血に塗れた屍の 光無き瞳が射る
「牙を失くすのなら いずれ恨むだろう」と唄う

 

不条理なもんさ 人類(俺たち)は 小さな勝利でさえ
引き換えるには 余りにも大きな 《代償》(リスク)を背負わされる

犬死にしたい訳じゃない… なぁ… 死んでも死にきれないだろ?
この遺志は 無駄じゃない このままじゃ 終わらせない
奴等 を根絶やしにする迄は……

 

➸この美しい残酷な世界ではーー

 

夕闇に染まるのは 標的か己か
弓なりに弾け飛び獲物を屠れ《狩人の意志よ》(Jäger)
黄昏に放たれた 迸る衝動(殺意)が
群を成し穿つのはーー

→紅蓮の(座標)

 

楽園を彷徨える 哀れな人影
彼らにも 大切な 誰かがいただろう

真実を求めても 歪な硝子は
異なった虚像を映す 覗き込む顔の数だけ

 

不合理なもんさ 世界(現実)は 僅かな好機でさえ
手に入れるには 余りにも過剰な 対価(コスト)を払わされる

犬死させたままじゃ… なぁ… 悔いても悔い足りないだろ?
この意志よ 時を超え 何度でも 受け継がれ
その道を報われるまで進め……

 

➸この美しい残酷な世界ではーー

 

夕暮れに揺れるのは 哀しみか憎悪か
購えぬ罪を抱き 獲物を屠る《進撃の意志よ》
《憧憬》(あこがれ)に呪われた 止めどなき衝動(殺意)が
名を変えて辿るのはーー

→紅蓮の座標

 

吠えることしか出来なかった あの日の少年は 《調査兵団の装備》(武器)を取り 多くの仲間を得た

いずれ 進撃の嚆矢は 斜陽の空を貫く
《始原と終焉が交差する点》(座標)めがけて!

*15

 

同じ「紅蓮」の語を冠した楽曲である【紅蓮の弓矢】と【紅蓮の座標】ですが、もちろんそれぞれ含まれているところが違います。

 

【紅蓮の弓矢】における「弓矢」を、わたしたちは「イェーガー(狩人)」のことだと理解しました。

また、【紅蓮の弓矢】の歌詞では「≪あの日の少年≫」という言葉に「エレン」という読み方が割り振られています。エレンは『進撃の巨人』の主人公です。

それらを受け、【紅蓮の座標】のほうに目を向けますと、“吠えることしか出来なかった あの日の少年は 《調査兵団の装備》(武器)を取り 多くの仲間を得た„とあります。

 

【紅蓮の弓矢】においては単独の〝我〟にて「紅蓮の殺意」を抱いていた「あの日の少年」であるエレンが、仲間を得ることにより、〝我ら〟として「紅蓮の情念」を集結させたのが【紅蓮の座標】だといえましょう。

「座標」というのは、〝彼ら〟の殺意を投影した焦点であり、その一点に結集させた殺意のことだと読むことができます。*16

その一点を穿つことが、〝彼ら〟(調査兵団)には要請されているというわけです。

  

 

 進撃するもの、されるもの

自由への進撃――君の視界はやがて鳥の望む地平に至るということ

 

わたしが中動態について述べてきたくだりは、ある過程の内部に入ることで、ある結果を、その過程の結果というより効果として得られる――そのような状況をイメージするのに効果的であるように思われたからです。

【二ヶ月後の君へ】の「沈みゆく この夕陽」は、その夕陽に染まる者たちが、ある危機的状況を実現してしまい続けるプロセスのなかにあることを示していました。

既述したように、〈夕陽〉は夕陽であることにより、自らを暮れていきます。

前述した夕陽的中動態です。

 

暮れたその先に待ち受けるのは何か。

進撃の巨人』の世界観に則して言えば、それは人類の衰亡であったと言っていいでしょう。

  

【二ヶ月後の君へ】の冒頭で次のように歌われます。

 

今君の瞳(め)の前には どんな景色が広がっている?
高い壁に遮られた視界 何が見えるのだろう?

空を征く鳥の眼には どんな地平が映っている?
高い壁に鎖された未来 君は壊すのだろう?

 

「君」と「鳥」は対照的な存在として表現されています。

壁をあいだに挟んで、虫瞰的な「君」の視界と鳥瞰的な「鳥」が望む地平。

この二者の立場的な距離は曲の終盤において、紅蓮の矢と化した「君」は空を征く「鳥」に一致します。

 

紅蓮の➸(矢)のように あの空を翔け抜けて
君は自由へと進むだろう……

 

わたしは「君」の到達した自由について想い馳せます。

國分は自由の可能性を、中動態と対立させるかたちでの能動態に求めました。

それは主語が行為過程の内にあるか外にあるかが肝でした。

進撃の巨人』における「壁」は、自由を考えるひとつの分水嶺になっています。

なぜなら、壁の内にあるか外にあるかは、『進撃の巨人』における自由の尺度だったのですから。

壁の中の自由を批判するために【紅蓮の弓矢】では以下のように歌われていたはずです。

 

囚われた屈辱は 反撃の嚆矢(こうし)だ
城壁の其の彼方 獲物を屠る「狩人」(イェーガー)
迸る「殺意」(しょうどう)に 其の身を灼きながら 黄昏に緋を穿つ
紅蓮の弓矢

 

ここには壁の内側の暮らしを強いられていた人類…というイメージを「囚われた屈辱」であると表現していて、壁の外で獲物を屠る「イェーガー(狩人)」は囚われの身である人類の解放者として描かれています。

 

それゆえに、「君」は進撃するのです。

その嚆矢を表す作品が、シングルである『自由への進撃』だったのでしょう。

そして、「君」はいつか、「沈みゆくこの夕陽」を追い越すことになる…。

この〝追い越し〟、もしくは、〝穿ち〟を國分の「能動態/中動態」の図式から有意となる能動態の自由を、仮に「進撃的能動態」と固定しておきましょう。

 


地平への進撃――楽園を願う君はそして紅蓮の花束を地表に手向け

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『自由への進撃』では自由は壁の外にあると信じられていました。

 

――が、

 

『楽園への進撃』というシングルは、苛酷な外の現実から人類を守って来た壁を「楽園」だと表し、その楽園の側へ、つまり内側へと矛先を向けます。

 

自由とは何か。

 

その問いは進撃という問いかけの姿勢のなか(過程・プロセス)で、壁の「内/外」があることによってかたち作られていた自由の意味を解体します。

それはひとつの革命です。

 

壁の意味は、壁の崩壊と共に懐疑に附され、

楽園の価値は、楽園の歴史と共に不信が渡され、

 

――かくして、進撃は不断のプロセスとして位置づけられるのです。

 

自由を目指せば、楽園を喪失することもある。

自由を望むプロセスには、自由を疑わせる結末をも含みこまれている。

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かつてそれを目掛けて進撃しようとする前提としての自由。

もはや以前のような自由の意味を前提にはできなくなった進撃。

 

それら前後の自由の意味の断絶を説明しようとするとき、言葉はなんと無力なのでしょうか。

 

進撃するものは、進撃されるものとともに、その進撃の過程において崩壊してしまうのです。

それらはまた、進撃の過程において過去となり、

それらが過去に過ぎ去ることで、かつての「進撃するもの/進撃されるもの」のパラダイムの外に立つことのできる現在を得るのです。

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結び――夕陽的中動態と進撃的能動態…などと宣って

夕陽的中動態――それは、わたしたちの拠って立つ地平がいずれ暮れてゆく事を告げながら、やがて迎えくる時を兆す。夕陽に向かって走る青春群像劇を思い出してもいい。夕陽に駆られ、夕陽に追われ、夕陽に包まれ。そのなかでわたしたちはさまざまな想いに胸を染める。あるいは、それぞれの意志を抱く。

 

進撃的能動態――それは、わたしたちの拠って立つ地平の彼方へと立ち向かう姿勢。その物語を生きる主人公のようでありながら、その物語の書き手として振る舞う作者のようでさえある。物語が迎える事態の転変に驚き、驚かされるばかりではなく、事実の意味に覚悟を据え、主体的に自らの事由をその背に、あたかも風をつかむ翼の如く広げる。

 

【二ヶ月後の君へ】は『進撃の軌跡』というアルバムの冒頭に収録されています。

軌跡はまさに、過程において刻まれた痕跡です。

『自由への進撃』、『進撃の軌跡』、『楽園への進撃』

以上の発表作品の流れは、その各作品の内容も含めて「夢からの覚醒」であると言ってもいいでしょう。

 

壁のなかで見ていた夢から目覚めること――自由への進撃。

壁の外に夢見ていたことから目覚めること――進撃の軌跡

壁のなかに夢見ていたことから目覚めること――楽園への進撃。

 

夕陽的中動態において人類は夢の内にまどろみます。

進撃的能動態において人類は夢の外に気づきます。

この構図で、自由へと進撃する意志を持つ者たちは、絶えず自分たちにとっての〈夢=壁〉のなかの意味を刷新していくのです。

そうした点から言えば、人類としてのわたしたちは「夢を見る夢」だと呼んでもいいのかもしれません。

 

ここに至り、わたしが気がかりだった【二ヶ月後の君へ】の歌詞の、
“沈みゆく この夕陽を 君は何時か 必ず追い越して”
というくだりを以下のように読み換え、しかも言い換えることができるでしょう。

「沈みゆく どの夕陽も 君は何時か 必ず追い越して」

かくして、自由とは、わたしたちが沈みゆくどの夕陽をも必ず追い越すことに賭けた進撃の態度によって保証されるものなのだ――と、まとめることができるのです。

 

 

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――ここで擱筆*17

 

 

_了

 

 

 

 

自由への進撃(通常盤)

自由への進撃(通常盤)

 

 

 

進撃の軌跡(CD Only)

進撃の軌跡(CD Only)

 

 

 

楽園への進撃

楽園への進撃

 

 

*1:詳しくは次のページをご覧ください。Linked Horizon - Wikipedia

*2:二ヶ月後の君へ 歌詞 | 空飛ぶ金魚より引用

*3:Theme of the Linked Horizon Linked Horizon - 歌詞タイム

*4:

【見えざる腕】試論

「加害者は誰で…被害者は誰か?」。これはリンホラの主催であるRevoがメインで活動しているSound Horizon(以下サンホラ)の【見えざる腕】からの引用です。Sound Horizon 歌詞置き場 見えざる腕 【見えざる腕】もサンホラの他の楽曲と同様に物語仕立ての構成になっているのですが、注目すべきはこの楽曲で歌われている「見えざる腕」が能動的でも受動的でもない〝態〟を暗示していることです。その曲のなかで、自分の意志で行為をしていると思っていたはずが、実は「見えざる腕」に導かれてきたのではないかという惑いが歌われます。そこには「~する」や「~される」の意志と行為の地平とは異なった〝態〟が予感されているのです。「加害者は誰で…被害者は誰か?」曲の終盤に、復讐の情念を燃焼することで生きてきた男は次のように考えます。

 

「人生は儘ならぬ…
 されど…此の痛みこそ
 私が生きた証なのだ・・・・・・」

 

そして、地の文として、歌われのが以下の文言です。男は自らの意志と行為とを決定してきたかに思える「見えざる腕」の意味を考えます。

 

復讐劇の舞台を降ろされ...
男は考えはじめる...
残された腕...残された人生...
見えざるその意味を――

 

「見えざる腕」は見えないことで意味を強めます。男には「残された腕」があったにもかかわらず、「見えざる腕」によって生かされてきたのです。そこには自分の人生に対する、ある種の被害者像があるようです。しかし男は考えはじめ、自分が生きてきたことで負った痛みに対して、「~する/~される」の地平とは別な人生を見つめはじめるのです。これは運命への懐疑です。男は己れの運命に翻弄されてきたことからの、ある種の解放が、【見えざる腕】の結末では希望として歌われているのです。

*5:たとえば店内にクラシック音楽を流すと客の購入額増?BGM、客の購買行動を大きく左右 | ビジネスジャーナルなど。

*6:中動態から想像力へ――國分功一郎『中動態の世界』をめぐってREALKYOTO

*7:『中動態の世界』の結論部参照。

*8:

中動態と覚悟――ジョルノ・ジョバァーナを例として

「試されている自分」。このイメージを納得するのには『ジョジョの奇妙な冒険』の第5部、文庫版の34巻のホワイト・アルバム戦での、主人公ジョルノ・ジョバァーナの「覚悟」が参考になる。以下のジョルノの覚悟をご覧ください。

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興味深いのは、ジョルノが「おもしろくなってきた……」と思っていることです。ジョルノが覚悟を決めるとき、そこには敵対しているホワイト・アルバムとの戦闘という状況への被害者意識はありません。つまり「なんでぼくがこんな目に……」という感想ではないのです。むしろ逆境を楽しんでさえいます。敵の手に渡ってはならないディスクが、ジョルノと仲間の失態から、敵に発見されてしまい、責任を感じてさえいるのにも拘わらず、です。

こうした危機的状況にも拘わらずおもしろさを覚える感受性はとても興味深いものです。「まずい…最悪だ」と判断しているにも拘わらず、「おもしろくなってきた……」なのです。私見では、ここでのジョルノは「試されている自分」を危機的状況のなかに発見しているのです。自分が試されているという事態から被害者意識を引き算すると、「おもしろくなってきた……」が導かれるのではないか、と、思います。そして、それこそが「覚悟」と呼ばれる態度なのではないでしょうか。

*9:「中動態の文法は「出来事が生起している場所」の説明に適していることであると言える。」(高橋勝幸「中動態の文法から見えてくるもの --十字架の聖ヨハネの「詩作」から--」『アジア・キリスト教・多元性』 (2017), 15: p83-96)

*10:変状。コトバンクのサイトを覗くとデジタル大辞泉では「普通とは異なった状態。」と説明されています。が、わたしはそのような意味を込めません。わたしが用いる「変状」は、あるプログラムが入力も出力もない状態であるときに、そのプログラムが動いているそのプロセスのなかで自らのコードが書き変わっていくような、状態の変化の仕方のことです。

別なふうに言いましょう。ひとは自分の人生における一貫性の保証があります。自伝を書けるという権利と事実のことです。それはいわば共時的な一貫性です。「いま現在、自分は自分である。だから自分が自分であった過去もまた、いま現在の自分とつながりのあることなのだ」というわけです。しかし通時的な一貫性とあれば、覚束なくなります。たとえば「祖母の遺品の古い箪笥」にしまわれていた手紙に記されていた真実に慄く…。すると現在の自分と過去の自分とのつながりが疑わしくなったりする…。その手紙に、自分が実は親から愛されていなかったとか、本当は恨まれていただとか書いてあったりするかもしれません。重要なのは、通時的な一貫性には自分には身に覚えのない秘密の出来がありえるということです。――しかしわたしたちは、共時的な一貫性において、狂人ではないという点で、差し当たりは人心地をついています。こうした共時的な自分の一貫性は人生の長幼の時期を問わず、(いちおう、なんらかの身体的・精神的な疾患に罹らない限りは…という保留を付けておくことにします)つねに機能しています。要するに、共時的な一貫性において、ひとはある通常状態を保っています。他方で、通時的な一貫性においては小学生時代、中学、高校、大学、社会人、結婚、出産、死別…etc.といったぐあいに状態を変えています。しかし各時代にはそれぞれの共時的な一貫性があったのです。それら過去の時代のことをわたしたちは思い出すことができます。それらは時代ごとに異なった事情を抱えた自分であったにもかかわらず、いま現在の自分に統合されています。その意味で、ひとの、自分の人生における一貫性にも、変状が含まれているのです。

*11:夕陽という言葉に執着しているわたしは、単に読者の注意を引くためには「」を用い、夕陽が夕陽としてひとに現れているときの夕陽を〈〉で括り表すことにします。

*12:そういえばsupercellというアーティストには【終わりへ向かう始まりの歌】なる曲がありました。歌詞はこちら→終わりへ向かう始まりの歌 supercell - 歌詞タイム

*13:以下、【紅蓮の弓矢】の歌詞の引用はMusixmatch - Song Lyrics and Translationsから行います。

*14:紅蓮(グレン)とは - コトバンクを覗いてみますと、「紅蓮」という言葉が【紅蓮の弓矢】において「殺意」の語と関連していることに気づけます。その線で行くと、「弓矢」というのは「イェーガー(狩人)」の語に関連している可能性に当たります。

*15:【紅蓮の座標】の歌詞は紅蓮の座標 進撃の軌跡ver. 歌詞 | 空飛ぶ金魚から引用させてもらいます。以降の引用も当該サイトのものに負います。

*16:進撃の巨人』において「座標」という語は、特別な意味を持ちます。その点に配慮すると、「座標」は「弓矢」であると言えるでしょうが、ここはぼかしておくことにします。

*17:歌詞画像はSSさん制作のカラオケ動画より拝借しています。

nico.ms