おれがイケメンだとしたら、世界は異常なはずだった…。
おれの人生のうちには、他のひとがそうであるように、雷に打たれたかのような衝撃的な気づきがいくつかあった。
ここではそのなかのひとつを書いてみる。自分の顔と、異性との関係仕方に関してのエピソードと、その教訓について。
異性というものを意識しだしたのはいつからだったろうか。
おれは、性別は心も体も男性で、同じようなプロフィールのひとが大抵そうであるように、女性を好きになりがちだ。
とくに容姿がずば抜けているわけでもないので、モテた試しがない。やれやれ。
それどころか容姿のせいで、加えて性格のせいでも、イジメられたりもしてきた。
どのようなイジメがあったのかは省くが、だからこそ、自分は生涯ひとから愛されることはない。結婚もせず、ひとりで生きるのだという一匹狼を気取ることができたのだ。現にその境遇は心地良く、クリスマスシーズンに恋人たちが手をつないで歩いていくさまを見ながら、彼らの幸せを共に感じ入ったりなどしていた。他人の不幸を願ったりしないぶん、おれは自分をまっとうだと思っていた。
自分の写る写真を突っ撥ね、おれは自分の肖像が記録として残っていない期間をみずから望んだ。イメージとしての自分を抹消しようとした。必要なのは証明写真ではなく、世界体験だった。FPS(First Person shooter)の一人称視点*1の知覚世界が重要で、自分がどんなキャラクターなのかなんてことはどうでもよかった。少なくとも、そう思い込んでいようとしていた。
――が、おれは大学を卒業して、仕事をするなかで女性からアプローチを掛けられるという経験をすることになる。
自分が誰かに愛されるという発想がなかったものだから、その衝撃は相当のものだった。雷に打たれたかのような衝撃だった。
さらにそのひとから容姿がすばらしいと言われ、おれは混乱した。
「イケメンです」とも言われることもあり、おれは動転せざるを得なかった。
人生の歴史が、人生観が根本から揺すぶられたと言ってもいい。
世界観の再構築を迫られたのだ。
しかも、そうしたおれの人格へ差し向けられる愛というのは、その女性っきりなのでもなかったのだ。
以降、おれの容姿を褒める者、人格に惚れる者、そうした、以前なら奇特に思えるような人々がこの世には存在するという事実を知った。
認識を改めざるを得ない。
自己認識を。世界認識を。この世に生きるということの事実認識を。
いまや、おれは自分をみずから撮影する。その写真をネットに晒しもする。異性へと送りもする。
そしてそうした事態を異常だとは思わない。
これはとても不思議なことだ。
異常事態であったことが、異常であることを止めたのだから。
ここまで書いたことは、おれが「モテる」という話じゃない。それは違う。
自分も、世界も、事実も、その関係仕方はつねに可変的だって話だ。
そして一度でも変わってしまったら、その可変的な事実への関係仕方を可用的に動かすことができるという認識が得られる。
これはコミュニケーションの話かもしれない。
もしくは、ディスコミュニケーションの解除の話かもしれない。
いずれにせよ、あらゆる自明な認識は改めえる。
おれの異常事態が、異常事態であることを止めたように。
_了