can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

リア充になってはいけない。だが、リア充になろうとしないのはもっといけない。

リア充/非リア充」という言葉で現実を考える彼らのマジメさについて書きました。

「そんなのどっちでもいーじゃん!」と考えるひとをこらしめてやりたい気持ちもあります。

 

 

 

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リア充リア充批判

 

リア充というのは、広義では「リアルが充実しているひと」のことであり、狭義では「恋人がいるひと」を指す言葉です。*1

リア充」の文言は主にバレンタインデーやクリスマスなどのイベントに、ひとりでいることに屈託のある人たちが連帯をする際に用いられている印象があります。

 

ぼくが関心があるのは、「リア充になること」に関して、(一部の?もしくは大部の?)クリエイティブであると見なされる人々が、リア充批判を展開していることが少なくないことについてです。

クリエイティブであることに関連して流通しているリア充批判は2つに大別できます。

  1. リア充になると、リア充である自分に満足するようになり、非リア充に見えるひとたちへの想像力を欠く。
  2. リア充になると、リア充である現状に満足するようになり、自らの充実のために渇望すべき創造力を欠く。

以上の2点は、それぞれ想像力と創造力の不足を問題視するものとして要約できます。

 

想像力と創造力

 

想像力と創造力とはなんと理解すればいいでしょう?

ぼくが〝クリエイティブであること〟などという言い方をしたために、上記の2点は創作行為を行わない人々に無縁であるかのようなニュアンスを出してしまったとしたら、それにはやんわりと否定の態度を取らせていただきます。

 

想像力については、次のように考えられます。

たとえば、ビジネスパーソンならず多くの社会人にとって重要な関心事である「コミュニケーション」の観点から眺めてみますと、想像力はコミュニケーションならびに対人関係の根本問題を左右するキーワードではないでしょうか。

小学生時代の国語の時間に、物語の登場人物の心情を想像させる授業がありませんでしたか?――あれは、いわば日常生活における対人コミュニケーションのメタ理論の如きものです。理論的な理解が、実践的コミュニケーションのなかで培われているか。そして実践的なコミュニケーションのなかで培われたものを、物語のなかの人物に投影できるかどうか。

想像力は自分のなかに他人のイメージを造形する力です。この意味で、想像力は、作家が小説を書くのに人物を具体的にイメージするばかりの能力なのではないのです。

 

創造力については、次のように考えられます。

ぼくたちはしばしば「モチベーション」を重視します。つまり「ヤル気」ですね。

ヤル気が出ないからやらない。モチベーションが湧かないから、やらない。

 しかしあれもこれも「やらない、やらない」では困ります。

芸術家は自らのインスピレーションの源を、ときに「ミューズ(詩神)」などと呼びますが、もっと砕けた言い方をすることもできます。たとえば、学生時代にギターをはじめた理由としてしばしば挙げられる「モテたかったから」。このときのモテることを叶えてくれるのが、異性の存在――これも一種のインスピレーションですし、モチベーションなわけです。ほかにもいわゆる家族や親友、恋人などの「大切な人」がそれに中るでしょう。

創造力は、そのような自分が意味を見出し、価値へと乗り出させる活力の源泉のことです。この意味で、霊感に打たれるようにはじめの一文を書き出す詩人だけに関係する力のことではないのです。

 

以上を踏まえた後で、想像力と創造力がリア充になることによって衰微に瀕するのはなぜなのでしょう?――と考えてみます。

 

心理学的モデルおよびストーリー

 

リア充になることで、非リア充には見込めた状態が失調する。非リア充だからこそ有する旨味がある。――そこには非リア充であることは、強くリア充であらんとすることに向けた努力が発生する余地があるからこそ開かれる、成長への嚆矢の有無があるのだと考えられます。

それはおそらく心理学的なモデルが隠然と働いているからでしょう。

 

たとえば「昇華」という心理学用語などはまさしく、先述のリア充批判のバックボーンとして作用していることが見透かせます。

昇華とは次のように語られるものです。

心理学・倫理における昇華(しょうか、英: sublimation)とは防衛機制の一つ。

社会的に実現不可能(反社会的な)な目標・葛藤や満たす事が出来ない欲求から、別のより高度で社会に認められる目標に目を向け、その実現によって自己実現を図ろうとすること。

例えば、満たされない性的欲求や攻撃欲求を芸術やスポーツ、学問という形で表現することは、昇華と言える。*2

欲求不満な状態にあることで「このままじゃダメだ!」という焦燥に駆られ、行動に移す。そうして、ひとつひとつ実現を達成していく不満解消と自己実現のモデル…とでも言いましょうか。

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ひとはある種の典型的なストーリーに感動します。

親孝行、因果応報、逆転劇、etc...。アリストテレスが『詩学』のなかで用いた表現を使えば「カタルシス」。苦境および逆境とその乗り越えという、まさしく昇華的な自己実現のモデルです。そこには心理的な浄化作用が見込め、こう言ってよければそうしたモデルに自分を合わせることで、「スッキリする」ことができるわけです。

そうした「スッキリモデル」の生き方に身を重ねることが、非リア充であることには賭けられているのです。

 

なので、非リア充リア充を志向しますが、しかしリア充になってはいけないのです。

リア充に安んじては自分が準拠しようとしているスッキリモデルを逸脱してしまいます。スッキリモデルにおいては不満とその解消とで成る螺旋上昇運動で以て自己を捉えますので、リア充であることは不満とその解消とで成る運動を、立場上拒んでしまうことになります。つまり、切実なまでの「このままじゃダメだ!」という情念が、そこにはないのです。

以上の如き心理学的モデルに依拠するひとは、スッキリするために、リア充になってはいけないのです。そして、そのうえで、リア充になろうとする運動を開始し、持続し、充実していく過程のなかにい続けなくてはいけないのです。

 

「どっちでもいーじゃん!」←は?

 

心理学的モデルなどと輪郭付けてはみましたが、そのモデルについての記述を読んで、息苦しさを覚えるひともいるかと思います。というか、ぼくは書いていてそう思いました。

「このままじゃダメだ!」という情念は、ひとが生きるうえで必ずしも必要なものでありません。現状に安穏としていることに価値を見いだすひといますし、それが誰かに迷惑を掛けていないのであれば尚更に、変更を強いられる謂われはありません。

 

つまり、「このままでいーじゃん!」という立場のひとも現にいますし、いてもいいわけです。

 

「このままでいーじゃん!」と思っているひとが、非リア充批判に与するひとたちから、「そのままでいーわけねーじゃん!」などと指弾されるなんてことがあってはいけないわけです。

とはいえ、ひとにはひとの信念があります。その信念が外に漏れ出るとき、ときに他人にとって刺激物となってしまうことがあるのです。

 

「このままじゃダメだ!」にこだわる陣営も、「このままでいーじゃん!」にこだわる陣営も、それぞれがそれぞれのコミュニティで他の陣営を批評したりなどすることがあるでしょう。そうした営みが、それぞれの陣営の与する深淵…おっと変換ミス――信念の許に自説の強化と他説への批判を積んでいくことになるのかもしれません。

それらの陣営を2つに分けるとして、「このままでいーじゃん!」をリア充サイドとし、「このままじゃダメだ!」を非リア充サイドとして理解することは、しかし、第三の立場によってたやすく茶番と化すこともあるでしょう。すなわち「どっちでもいーじゃん!」の立場の介入によって。

 

もちろん、「どっちでもいーじゃん!」の立場のひとも現にいて、いてもいいわけですが、この立場の存在が、その他2陣営の立場とそのコントラストとが茶番であるという認識をも開いてしまうのは、少々いただけません。

なぜなら、「リア充/非リア充」の対比が示していたのは、リアルへの姿勢に関わってくるからです。充実したリアルも、充実していないリアルも、それはリアル――つまり当人の現実において感得されるものです。そこがそのひとの現実である限り、「リア充/非リア充」の問いかけはつねに切実なものであるはずです。

 ぼくたちはぼくたちである以上、絶えずこの現実にかかずらわざるを得ません。

空想的に生きるも、現実的に生きるも――この現実。

逃避的に生きるも、直視的に生きるも――この現実。 

 なので、そうした消息を踏まえるなら、リア充か、非リア充かにこだわるひとたちに対して、「どっちでもいーじゃん!」と宣うのは、こう言ってよければ「不謹慎」です。

己れの現実への向き合うことは、マジメである他ありません。

それゆえに、「どっちでもいーじゃん!」は、「リア充/非リア充」の闘争の場面においては「どっちでもいーわけねーだろ!」と怒られてしまってください。マジメな彼らにとっては、きっと、不マジメに見えてしまうことでしょうし。

 

リア充批判の真意を構想する

 

リア充を腐す非リア充のロジックというものが確かにありますが、リア充になることはリア充批判の立場から見て、必ずしも悪いことではないでしょう。

彼らが非リア充である自分に賭けていることも、結局はリアルの充実に関与するのですから。

 

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彼らが「リア充になってはいけない」と言うとき、ぼくたちはそこに彼らの真意を読み取らなければなりません。さもなければ、ただのやっかみにしか聞こえなくなってしまいますし。

その真意というのは「リア充になろうとしないのはもっといけない」という、呪いにも似た暗示です。

彼らが非リア充たりえるのは、その呪いのせいだと言っても過言ではないのです。

 

呪いによって彼らは、客観的にはリア充の身分に見られたとしても、その主観的な自己認識においては「リア充ではない」と信じ込んでしまうのです。

そうした思い込みはしかし、彼らにとっては原動力となりえ、彼らの「リア充になろうとする努力」を賦活するのです。

つまるところ、彼らの格率は次のようにまとめられるでしょう。

リア充になってはいけない。だが、リア充になろうとしないのはもっといけない。

 以上のリア充批判の真意は、ぼくの構想です。

この構想の真偽は、読み手である〈あなた〉の現実(リアル)における、己れを充実させる活動の過程のなかにて、ご感得くださいませ。

 

 

_了