can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

タイムラインに飛び交うわたしたちのブーメランっぽさ

ブーメランを投げないではいられないという認識から、「ブーメラン×タイムライン」のカップリングによって見えてくるレトリカルな現実認識について考えたところをまとめてみました。ブーメラン遊びをするための指導要綱的なもの。

 ブーメランという現象が気になったわたしは以下のような記事を書きました。 

phallusexmagia783mea.hatenablog.com

 ところが、書いてみた後で「念が残る」という意味での〝残念〟があることに気づきまして、本稿の執筆を決めた次第です。

 

上掲の記事において、わたしは次のように書いています。 

ただそこにいるだけで周囲になんらかの効果を及ぼしてしまい、その及ぼした効果の結果を自身で受けることになる。 自覚しているとかいないとかとは無関係に、ブーメランを投げてしまっているということ。ひとは自分が受け取ることになるブーメランを自覚無自覚問わずに放り投げてしまっている。この点から、多くの人間関係上の悩みは、自分が無自覚のままに投げてしまっているブーメランが巡り巡って自分に返ってきたときに、それを自分のせいだとは思えないところにあるように思われます。

ブーメランを投げずにはいられないのだとしたら…… - can't dance well d'Etre

 以上の認識は「ブーメラン」という概念を、実際使用されるているよりも大きめに捉えたものです。

 

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何気ない一言が波及効果的に、相乗効果的に相手に伝わり、伝わったことで発言した自分のもとへとフィードバックされるもの。自分の言動が他人へと累を及ぼし、結果として他人に行き渡ったものがピタゴラスイッチ的に自分に返ってくること。――これらは「ブーメラン現象」と呼ぶことを十分に許容していると言えるでしょう。

要するに、あらゆる行い・動作・行為・選択・判断・表現は、他人に対して応答的なニュアンスを持ってしまいます。そしてそのことに反応することが「あなたがそこにいて、わたしがここにいる」という状況からして(存在論的に)強いられ、そのうえに他人に〝相手として〟応答する権利が発生し、自分と相手が互いに相互作用的である〈場〉が生成されることになります。

〈そこ〉ではあらゆる出来事の前後関係が互いの〝せい〟にでき〝おかげ〟にもできる状況が(関係論的に)成立します。同じ〈場〉において(文法的なレベルで)平等に並べられた行為主体がある。〈そこ〉には文脈( context )の共有があります。文脈を共有してしまっていることで、互いに無関連であることができないのです。

 

たとえば、Twitterのタイムライン(以降「TL」)に流れてくる様々な内容の異なったつぶやきがあります。それぞれつぶやいているユーザー同士はまったく無関係に各自の思うところをつぶやいているはずです。しかしそれらをTL上に見、読むとき、それら別個のつぶやきがひとつのTLにおいて流れるという点で、同じ文脈を共有してしまっているのです。事実、Twitterのユーザーのなかには自分のTL上で偶然にも前後関係になったつぶやきの連なりをスクショし、それを自身のつぶやきのネタにすることさえあります。 

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TLの風景を眺めていると、ブーメラン現象には独特の含蓄があるように思われます。

 

その含蓄は、つぶやきとつぶやき同士は別個で生成されたのにも拘わらず、それらが同じ権利を持つかたちで並べられる〈場〉があると、わたしたちの現実を別様に変性させてしまう物事の並び方がある、というような物事の見え方です。

あたかもシュルレアリスムにおいて「手術台の上でのミシンとこうもり傘との出会い」のような予期せぬ出会い(デペイズマン*1 )が異質な体験を鑑賞者にもたらすように。

TLを眺めるとき、そこにブーメランは絶えず飛び交っているのです。そしてその効果が躍っている様子にユーザーは「いいね」をしたり「リツイート」をしたりしている。その行動もまたブーメランを投げることになる。奇妙な言い方かもしれませんが、Twitterの場面ではブーメランをブーメランしているのは、TLを眺めているひと自身でもあるのです。いや、彼自身をブーメランと呼ぶことさえできてしまうかもしれない。影響作用という点で、Twitterの場面を離れてさえ、ひとはブーメラン現象としてしか存在できないのですから。あたかもブーメランであるかのような、ブーメランっぽいわたしたち。

 

メッセージを送れば相手からメッセージが返ってくる。

文の内容をいじれば、それに応じた内容をしたためて送ってくる。

この往還構造はブーメラン的です。

再確認すると、わたしたちは以上の如き「送信‐受信」の構造を〝ブーメランとして〟見立てることによって開かれる認識について考えています。

 

TLの風景では、つぶやきとつぶやきとがある並び方をすると、独特の印象がもたらされる。それがおもしろさとなったり、ユーモアを醸したりする。そうした効果は、並び方をいじれば別な現実がその効果によって得られるという編集感覚へと導いてくれるでしょう。 

その感覚に根差した現実に立つとき、ひとはあらゆる物事をレトリックへと還元することができるのではないでしょうか。そこで展望されるのが、いわば、レトリカルに構成される現実なのです。

 

あるひとつの言動それ自体に重要性があるのではなく、その言動がどの言動と連接されるかによってもたらされる味わい。もしくはその言動がどのような〈場〉において行為されるのかによってもたらされる意味合い。――このような認識はとてもレトリカルです。

 

リアリティはレトリカルに表情を変えます

レトリックを介してリアリティは分節されるのです。

 

ブーメランを投げないではいられないわたしたちですから、せいぜいブーメラン現象の結果として生きることになる現実はおもしろいものであって欲しいじゃありませんか。

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どのようなブーメランを投げるか。それは自分自身の自覚次第で操作できそうにも思えませんでしょうか。そして、レトリカルに現実を遊ぶことさえできそうには思えませんでしょうか。

 

なにせ、ブーメランは遊びでしょう?

 

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_了