can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【〈私〉と〈仏〉の地続き感】『快慶・定慶のみほとけ』展から

2018年11月7日、ぼくは東京国立博物館で開催されている『京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』展を観に行きました。

人文系の知識がちょっぴりあるものの、日本史にも仏教美術にも通じていないぼくが何を感じたのか。それをまとめてみます。 

 

超俗と還俗を促す臨場感

 

まず言っておくのは、運慶も、快慶も、ましてや定慶にしても、その作風や個別の作品について、ぼくは具体的な評価をできる能力を持ってはいません。

しかしひとというものは不思議なもので、由緒正しき偉大な作品を目の前にすると、肌で感じてしまうものがあるのですね。臨場感というやつです。ぼくは神々しい《釈迦如来像》や、「いざという時は、超能力が使える」という《目犍連》の像などを展覧し、ある印象を結ぶに至りました。

その印象の成立には、ぼくが瞑想について学んでいた時期に知った仏教の思想が触媒になったことは確かです。追って、その思想に関しても記すことでしょう。

 

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ぼくは、チケットを入口にいた館員に見せ、展示会場を進んでいきました。

入ってすぐに、どの展示にもあるような、当該時代における仏教美術すなわち仏像の社会的受容と歴史的背景とが書かれた掲示がありました。

とはいえ閉館時間に押されていたぼくは、さしたる関心を払えずにそうした掲示物をやり過ごし、メインの展示の方へと向かいました。

 

入口付近の歴史と寺宝のコーナーを更に進んで、長方形の大きな部屋に進むと、まさに壮観の眺めが広がっていました。展示されているのは修行僧の身体が克明に彫り込まれた像、そしてありがたい教えを衆生へと示してくださる尊い御姿をした仏像であるわけです。ありがたや、ありがたや。この「聖地の創出――釈迦信仰の隆盛」という部屋とその次にある「六観音菩薩像と肥後定慶」の展示室はひじょーに畏れ多い光景でございます。仏に関する知識がちょっぴりあるぼく程度が思わず畏まってしまったので、お寺で修行したりといった仏教帰依のガチ勢がこの光景を見たら、余りのありがたさに腰砕けになるのではないかという考えが働いたくらいです。そしてありがたい展示の締めには《聖観音菩薩立像》の写真撮影オーケーの特典があり、出口へと還俗する運びになります。――このように展示の概観をしてみますと、鑑賞者が日常的な空間から仏法みなぎるありがたい空間に入っていくという意味で、鑑賞者が一時的に超俗できもする展示なのだとまとめられるようです。なむなむ。

 

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躍動感がない!――仏像に走る褶曲線から

 

仏像の姿を前に、ぼくは自分が何を見ようとするのだろうかという点にわくわくしておりました。

そしてぼくの目は並みいる仏像の衣服――袈裟と言えば精確でしょうか――に走る皺やたるみの褶曲表現に注目したのです。荘厳な風合いを呈している仏像の表面に走るなだらかな線を見ていますと、次第にぼくはある気づきが自分に訪れるのを感じました。そこには何かがない。そう、躍動感がないのだ――という気づきを。

 

運動を予感させる徴候があれば、ひとの知覚はその対象に幾ばくかの躍動感を覚えます。たとえば、ぼくは9月に上野の国立西洋美術館で開催された『ミケランジェロと理想の身体』*1へと足を運んでいるのですが、巨匠ミケランジェロの彫刻やその他の古典的な彫像作品からは、まるで今にも動き出しそうな躍動感を見て取ることができました。そうした動的なものを表現することが、西洋美術では美の理念として通底しているような印象を覚えたのでした。

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ラオコーン像ではむしろ躍動しか感じないと言ってもいいくらいにグロテスクな動きを表現しています。

*2

翻って仏教美術としての仏像のありがたい面々を見てみますと、ミケランジェロ展でお腹いっぱいに鑑賞した動的なものがとことん切り詰められています。展示されている像のすべてが結跏趺坐か直立姿勢かの二択で、重々しい肌理をなされたご尊顔は苔のむすまで同じ表情をして固まっていたかのよう……。つまるところ、仏像から印象受ける躍動感のなさは、時間のなさであるらしい、ということに気づいたのでした。あるいはこうとも言えるでしょう。西洋美術には物語が込められていて、鑑賞者はそれを読める、けれど、仏教美術にはそのような物語性がない、もしくは弱い。

 

仏様とは何様なのさ?

考えてみれば仏様を表現したものに時間の徴候が見当たらないのも当たり前です。

なにせ仏様は悟りを開いているのですから。悟りを開くというのは、生まれたからには老いていき病に臥せることもあり、その上やがては死んでしまうという「生老病死」の呪いにも似た苦しみに惑わされることがなくなるという境地です。仏教的にはこの世に生きていることがひとつの罰ゲームみたいなもので、その罰ゲームのなかの出来事にマジになっているうちは罰ゲームから抜け出せはしないとされています。そこから抜け出すのが〝悟りを開く〟と同じ意味合いである「解脱」ということになります。解脱できずにこの世の出来事にマジになるというのは、要するに「欲を持っている」ことであって、欲に駆られて生きているうちは――宗派ごとで多少の相違はあるでしょうが――仏教的にはアウトなわけです。

「欲を持っている」ことを思いますとそこには時間が走っていることに気づけます。というのも、ぼくたちは「誰かを待っているとき」や「誰かに待たされているとき」にはひじょーに時間が間延びします。長く感じられ、退屈だと感じるわけです。他方で何かに熱中しているときには〝あっという間に〟時間の経過を感じたりします。この時間感覚を左右するもの、もしくは時間の量を水増ししたり逆に減らしたりするもの――それが欲のせいだと考えることができるわけです。要するに、望んでいるものを得られない時間のなかにいれば、自分が耐え忍んでいる時間そのものに意識は向かうので時間は伸びますし、望んでいるものを得られているのならフラストレーションに耐える時間を意識する必要がないので時間は縮みます。それゆえに「欲を持っている」こととそれを生きているプロセス――欲望と時間は密接なものであると言えるのです。

 

〝仏〟像ではない身分の像などに目を向けますとガリガリに痩せていたりするのも、欲を持たないでいることを己れに課した、仏の道を志す生き様が窺えます。欲というものを西洋のひそみに倣って言えば「エロス」*3です。ガリガリに痩せた修行者の姿はつまりはエロス断ちを表現しているのですね。

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*4

私だけしかない!――仏教と哲学

 

それでは西洋美術が指向する躍動感を殺して、仏教美術は何を描こうとしているのでしょうか。もちろん西洋美術に劣っているという評価を下すことは間違いでしょうから、そこでは仏教美術に固有の何かが表現されているはずです。

 

これは絵画の話だったと思いますが、画家の野見山暁治は「西洋絵画は認識論で、東洋絵画は存在論だ」と何かの本で書いていました。

認識論は正しい知識とは何かを問います。あるいは絵画で言えば「見えているということはどのような経験か」を問う。

存在論は存在しているとは何か。つまり「人がいる・物がある」とは何かを問います。

どちらもひとが当たり前に享受していることを問うていて、「ザ・哲学」と呼ぶに相応しい哲学的姿勢だと言えるでしょう。

 

――ところで、仏教には「無我」という言葉があります。これは仏教流での「わたしはとは何か」の問いに対する応答で、「私」というものは実は空っぽであって、空っぽであるがゆえに「私」を名乗れる――という禅問答じみた思想を語る際に用いられる言葉です。

しばしば哲学において認識論と存在論とを問う際に用いられる言葉に「本質」の言い方があります。仏教において「悟れるか、否か」が賭けられるゲームがありますが、そこでの悟る主体とは何かを考えれば「私」の本質が問われていることに気づけます。そのような哲学と仏教との兼ね合いについて考えるのにちょうどいい本があります。それというのが仏教サイドに前田一照と山下良道とを迎え、哲学の陣営では永井均を招いて対談した講座の書籍化である『〈仏教3.0〉を哲学する 』*5です。

 

主に永井均の語りにスポットライトを当ててみます。

仏教が「私は無我である」という認識を語ることを、永井は哲学の側から次のように基礎づけます。

 

まず認識論的な観点として、ぼくたちは自分自身が他の誰でもなく「私」であることに端的に迷いません。それと同じく「今」が過去でも未来でもなく端的に〝この時点〟であるということにも迷いません。要するに、「私」が無我として空っぽでないとしたら、どの「私」が自分自身の「私」なのかに迷う可能性があり、どの「今」が現時点での「今」に当たるのかに迷う可能性があります。しかしぼくたちは迷わない。小学生の頃の自分と大人になった今の自分は別であることがわかりますし、その上で自分である、つまり「私は私である」とも言えます。ですが、小学生の頃にも「私」はあり、「今」もありました。にも拘らず、「今の私」にとっては、それらに迷うことがない。この迷わなさは何か。このことが示すのは「私」と「今」は並列的ではないということです。〝あるもの〟を取り違えることはありえますが、〝ないもの〟を取り違えることはありません。それゆえに「私」は端的に空虚な無我であるというわけです。

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もうひとつ、存在論的な観点から「私は無我である」を考えた場合です。こちらでは、自分そのままのコピーが目の前にいるという思考実験をします。そのとき、自分そのものが目の前にいたとしても、自分の主観の場が目の前の自分と区別ができなくなるということはありません。これは「私が存在する」ことの本質が、ある特定の性質や内容を持つこととは無関係であることを告げます。また、「今が今である」ことにしても、そのときそのときで起こっていることの内容と、形式としての「今が今である」こととは無関係です。つまるところ、“ある”ということーー存在することは中身や内容を持たないものとしての「無我」である、と理解することができるのです。

 

その本には次のような発言も見られます。

  • 「中身なんかあったら、どれが自分かわからない。空っぽのやつが一人いるのだ。内容はただの作り物で、付属品で、たいしたものじゃない。」(p42を適宜縮尺)
  • 「私の存在は中身と関係ない。」 (p157)

 

以上で確認した「無我としての私」を、永井は鉤括弧の「私」と区別して、山括弧を用いた〈私〉で表現します。この〈私〉への実感的な気づきが、いわば悟りなのですね。無我の境地は主観的であることと客観的であるという区別が消滅します。そこにあるのはただ己れが宇宙に開かれているという開けであり、同時に己れが宇宙を開いているという開けであるという二つの側面が、同一の事態としてあるのです。

ゆえに〈私〉にとっては肉体が生きているあいだだけ宇宙が開かれていて、それ以前も以後もない。「主観/客観」の図式を持ち込んだ場合だと成立する「私が死んでも続いていく世界」も意味がなくなる。開けによって開けを通してのみ可能である宇宙そして世界。「私」の外部に「私の死」を観測する何者かがいる場合にのみ、「私」は死を迎えますが、〈私〉にあっては「私=宇宙全体」なのであって、経験としては外部なき内部ということになります。そもそも無我は、死すべき我さえ持たないということでもありますから、ただ内部だけが全体として開かれている事実に依拠すれば、「私の死」は成立しません。

永井の唱える〈私〉の境地では「私が死ぬ」ことはなく、ただ、「私の永遠」だけがある。いや、「私の永遠」〝しか〟ない。――そういう認識を得ることができるのです。

仏は私、私が仏

とはいえ永井の言う「〈私〉」は少々ぼくたちの日常的な言葉の習慣からは懸け離れた意味を担ってしまっているようでもあります。現に、上述した〈私〉に関する説明を読んでピンと来ないひとも多いことでしょう。哲学者は概念を相手にしますので、言葉の日常的な用法からはしばしば逸脱することがあるのです。なのでぼくは、「世界を開く」ものである〈私〉の概念を、意味をそのままに別の表記を用いることにします。それは〈仏〉です。

 

「仏」は、コトバンクの当該ページを見ますと、「悟りを開いた者」と載っています。*6ぼくたちが確かめてきたところと照らし合わせつつまとめてみますと、悟りとは自己が形而下の万有を包み込む無我であることへの気づきであり、己れ自身が自己を包み込む宇宙を生じえさせているような世界の開けであることの自覚であるということになります。

それが「私」とは区別された〈私〉なのであるというのが永井の意想でした。〈仏〉は、「悟りを開いた者」であるいう点で、悟った後の自己を表現する言葉ですが、ぼくは悟りを開く/開かない問わず、つねにすでにそのようになっているという事実としての意味の重りを含んだ〈私〉の代理表現とさせてもらいます。

 

場面を、仏像の衣服に注目していた2018年11月7日の16時42分の頃へと戻します。

ぼくは手にしたメモ帳に次のようなことを書きつけていました。

〈仏〉は「エロス=動き=時間」を超えているために、永井均的な意味での独在性*7が看取される。つまり、〈私=仏〉。時間を超えて〈私〉であること。それは、今も昔も、この独在的である〈私〉以外であった試しはないということでもある。「いつ when」は〈私〉にとって本質的ではないのである。エロスを開き、動きを可能にし、時間を生きる――この〈私〉と〈仏〉の地続き感。
(筆者のメモから転写。筆記は2018年11月7日の16時42分頃)

本稿は、このメモ書きを読解するためのものだと言ってもいいかもしれません。

当時、ぼくは確実に感動していました。その感動は多くのひとには伝わらないことも予感せられておりましたので、記事としての結構をつける必要を覚悟したのです。

以上のメモ書きの肝は、最後の一文にある「〈私〉と〈仏〉の地続き感」です。

ぼくが感じた〝地続き感〟は、鎌倉時代の稀代の巧匠による仏のイメージングとしての仏像を通して届いた、インスピレーションと言えます。

ひとつの仏と無数の仏たち

 

 最後に、〈仏〉とは何かという意味をもう少し深めておこうかと思います。

ぼくは本稿で「宇宙」という言い方を用いてきました。そして〈仏〉は宇宙全体を開く特異点的なものであるというニュアンスを書きつけてきました。

宇宙とは何か。ユニバースですね。そのユニバースを言葉としてもう少し細かく確認してみますと、次のような見解を得られます。

universe
uni-「1 つの」verse「向きを変える」
すべてが一箇所に集まるもの
【名】宇宙、全世界
(引用:英単語 universe の語源と意味 - Gogengo! - 英単語は語源でたのしく)

 「すべてが一箇所に集まるもの」――これは、ぼくたちにとって示唆的ではないでしょうか。要するに、ある特異点の存在を示唆しているようではありませんか。ぼくがそれを〈仏〉がもたらす開けの別名であると読んだとしても、さして問題はなさそうだとは思いませんか?

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さらに興味深いことに、理論物理学ではマルチバース( multiverse )という言葉もあります。多元宇宙論のことです。*8ユニバースだと引用した説明にもあるように「uni 1つの」です。これを〈仏〉だと理解すれば、「multi 複数の」は無数の〈仏〉の存在を認める世界観とは読めませんでしょうか。

ひとつの〈仏〉がひとつの宇宙を生成するのだとすれば、複数の〈仏〉――渋谷の交差点ですれ違う人々、満員電車でむっつりとしている乗客たち、つまりはぼくたちのことです――はその数に応じて各自の宇宙を開いていると言えるでしょう。

 

以上のように粗描した〈世界=自己〉認識のメガネを掛けて、よろしければ以下の谷川俊太郎の詩を読んでみてください。その読後感が、本稿の限界です。

 

プラットフォームに並んでいる

小学生たち

小学生たち

小学生たち

小学生たち

喋りながら  ふざけながら  食べながら


<かわいいね>

<思い出すね>

 プラットフォームに並んでいる

大人たち

大人たち

大人たち

大人たち

見ながら  喋りながら  懐かしがりながら


<たった五十年と五億平方粁さ>

<思い出すね>

プラットフォームにならんでいる

天使たち

天使たち

天使たち

天使たち

だまって みつめながら

だまって 輝きながら
(運命について/谷川俊太郎)*9

 

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以上の詩を読んで何かしらの感動を得られたひと、そうでないひと。おそらくどちらもありえるでしょう。もし、感動したとすれば、その感動を筆者であるぼくのそれと共有できたと言えるかもしれません。

しかし、感動を通して得られた悟りというものを想定しますと、それをぼくたちは互いに照らし合わせることができないのです。

三浦雅士は次のように言います。

感動は分かちあえたとしても、悟りは分かちあうことができない。
(三浦雅士『孤独の発明』,講談社,2018,p14)

悟りとは〈仏〉に通じる道です。そして〈仏〉とは、圧倒的に他を排して孤独なのです。〈私〉と〈仏〉とが地続きであること。それは孤独であることによって開かれる認識に違いありません。ぼくたちの孤独は、傍流として、本流に通じている。「私」から〈私〉、そして〈仏〉へと。

 

_了 

〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学する

 

 

 

 

 

孤独の発明 または言語の政治学

孤独の発明 または言語の政治学

 

 

*1:ミケランジェロと理想の身体|過去の展覧会|国立西洋美術館

*2:画像はラオコーン像 - Wikipediaより引用

*3:エロスはいわゆるセクシャルな欲ばかりを指す言葉ではありません。すなわち「性欲」だけを指すのではありません。それも含みはしますが、それだけではなくもっと広い意味で「生欲」と捉えたほうが適当です。生理的な欲求から承認欲求に至るまで、あらゆるレベルでの〝良さ〟を求める情念がエロスのなのです。

*4:画像は目犍連立像。私の大好きな仏像百選 ( 京都府 ) - 私の大好きな仏像百選のブログ - Yahoo!ブログより引用。

*5:藤田一照・永井均・山下良道『〈仏教3.0〉を哲学する 』,春秋社,2016

*6:仏(ほとけ)とは - コトバンク

*7:独在性。この言葉は永井均の用語。「唯我論」と訳される Solipsism から取った表現としての Solipcity が当該英語。永井は「唯我性」ではなく「独在性」とした。その意味は生理学的な事実ではない本質的な事実としての、自分と他人を取り違えない根拠のこと。

*8:多元宇宙論 - Wikipedia

*9:谷川俊太郎『空の青さを見つめていると』,角川書店,1968,p15-16