can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

文意と実体:執筆における「心技体」

ブログの記事を書くことと、意識するしないに係わらずその執筆行為に関係してくる読者というものを考えてみた。書き進めるなかで広く表現することの意味を確認することになった。わたしは読者なしには書けない。読者はわたしでもある。そういう話。
 
 
目次

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書くことについて

メッセージ・イン・ボトルを公開する
たとえば、ブログの記事として書かれる文章がある。
 
 
それはきっと、筆者によって誰か読者に届くような体裁を整えてあるに違いない。
筆者が、読者が何か受けとるところがあって欲しいと思って書いたに違いない。
筆者は、そのような想定を意識裡に、もしくは暗黙裡に措いている(疑いの余地も込みで)。
 

 

ーーと、その記事を読む誰かは、わざわざ思うでもなく思い込んでしまっている。このことを事実として迎えることにする。
 
 
筆者はその記事をメッセージ・イン・ボトルとして、リーダビリティのある、結構ある文章を書こうとする。
メッセージのほうは解釈の自由がまかり通ったほうが作品としてめでたいという向きもあるくらいだから、内容の優先順位をあえて格下げしてみるにしても、伝えたいことを伝えるための体裁には手を抜けない。
その記事の文章としての体裁は、先のメッセージ・イン・ボトルのイメージで言えば、ボトルとしてのデザインであり、流通のための容器の強度のことである。
読者は体裁に振り返る。
地味な服装をした大学院生よりも、奇抜な恰好をしたヒッピーが目を引くように。
 
 
わたしが実際に以上のような常識を採用しているかわからない。
採用していなくてもいい。
ただ、そうしたルールがたとえ書き手の側になくとも、読み手の側はどうだろう?
そのように問うことは意義のないことではない。
ブログの記事はネットのオープンネス(公開性)の性格に乗っかっている。記事の投稿は公表することへの承認である。
公表するということは、読者を選ばないことに署名捺印してしまっていると言えないか?
 
 
読者を選ばないこと加えてそもそも体裁を整えたのは誰かに読まれることを(読まれないことも込みで)承認した結果としてある。たとえ誰かに読まれることを、筆者が「それはわたしの目的ではない」と突っ撥ねるにしても。
 
 
リーダビリティと不特定多数の他人
思い出されるのは筒井康隆の「大いなる助走」での次の文学屋の言い分だ。
 
そもそも小説を書く、というのは自分以外の他人に読ませる為に書くのであって、そうでないのなら書く必要はありませんね。自分ひとりの為に書くのなら日記でいいことで何も小説と言う形式にする必要はない。小説という、自分以外の他人にとって日記以上にわかりやすい形式で書いたというそのことがすでに、他人に読んでほしいという願望のあらわれなのですからこの点で議論の余地はないと思うんです。その証拠に完結した小説の原稿をそのまま誰にも見せず、自分ひとりで馬鹿みたいにかかえこんでいる人はあまりいません。(筒井康隆『大いなる助走』新装版,2005,p118-119)
 
ずいぶんと刺激的な言葉が踊っている。往時、多くの小説家希望者の首を絞めたことだろう。
ブログの場合は必ずしも小説を書いているというわけではない。けれど引用した文の「小説を書く」という行為は、容易にブログでの「記事を書く」行為への読み換えが可能だ。
 
 
引用した文には日記と小説という対比が措かれている。
『大いなる助走』の刊行が1979年であること思うと、引用文中の「日記」は、ネット時代を迎えて後の、ブログ日記として不特定多数の人間に公開する事態を含意してはいない。日記は誰かに読まれない限りで成立する、自分だけの私秘的な言語表現の領域だった。
しかし「小説」のほうは、形式が要求されている。読者という他人に向けての形式が。
それはつまるところ、リーダビリティというものだろう。
「日記以上にわかりやすい」ものとして書いたことが、自分だけで消費してもよかった観念に体裁を与え、自分以外にも届くかたちを取らせ、より実在感を示せるようにしたかったという願望の現れだった。――そのような理解線が敷ける。
 
 
 
ブログを書く、ブログに書くという行為が、すでに他人という存在を招いてしまっている。それは『大いなる助走』が描くところの小説を書くような事態なのかもしれない。ブログが登記されるネットという空間が、質的にも量的にも、あまりに不特定な他人を読者として許容しえるという事情があるのだから。
 
 
 

読者の意味について

読ませるためのリアリティ
さて、読者は質的にも量的にも不特定であることはここまでのロジックで頷ける。そのような厄介な読者に向けてメッセージ・イン・ボトルを放流するブロガーの行為の変態性も、おそらく指摘することは不可能ではない。先の引用文の後に以下のようなくだりも見られる。
 
小説を書く以上あくまで読者がいちばん重要な問題であって、作者以前に読者が存在するといっていいくらいです。当然、作者が読者を選ぶのではなく、読者が作者を選ぶのです。(同上,p119)
 
時代の懸隔を思うにしても、事情はさして変わらないようだ。
さしあたり、読者はブログの記事にしろ小説にしろ、それを書くものにとっては付いて回るものらしい。
読者は先述の通り不特定だ。その意味で具体的ではない。わたしは読者そのものではなく読者の意味を考えてみる。書く行為に憑いてくる、読者に目を向けて。
 
 
2つの例示。
 
 
⑴ 2017年、東浩紀が『ゲンロン0 観光客の哲学』を出版する際、ニコニコ動画で刊行記念番組を生放送していた。わたしの記憶が確かならばその番組のなかで東は、説得力のある良い文章の書き方を述べていたのだ。それによると、文章のなかに具体的な数字を書くことが大事なのだという。たとえばわたしがこのパラグラフにおいて「2017年」と書いたように。あるいは文を引用するのに刊行年やページ数を明記したように。
 
 
⑵ 学術論文を読むとき、しばしばその論文の質を見抜くためには巻末の参照文献に目を通すと、自分の研究に関連するのか否かが察せられる向きがある。どのような先行研究を踏まえられているのか、などを確認することによって。しかもそのことはその論文の主張のユニークさとは別の、読むに値するのかどうかのレベルの判断に影響を与える。
 
 
以上の2例は、言ってしまえば皮相的である。なにせ⑴ではただ数字が書かれているからリアルっぽく感じられるような読者の感受性が示され、⑵では引用されている先行研究の権威に依拠した判断であるのだから。だが、読者の実相を示唆しているようでもある。
 
 
2つの例は、言ってしまえば自分の書いたものに実在感を与える操作として理解できる。
⑴の具体的な数字は観念的な抽象図に具体性を与える。代数学において既知数を a,b,c, 未知数を x,y,z, のように表記するやり口の煩わしさを思い出せばいい。そこでは確かに、アルファベット記号よりもアラビア数字の方ほうが具体性を帯びている。そして抽象的でのっぺらぼうな文章より、具体的で目鼻のある文章のほうがリアルであるという感受性にも理解を示せるわけだ。
⑵の、ある種のネームヴァリューへの期待についても同様で、それはいわばどのような辞書を引いて文章を書いたのかどうかに注意が向けられている。辞書はさまざまある。信頼のないものさえ。なので内容がどうであれ、その内容を裏付けているコーパス(参考資料)は、文章それ自体の存在感*1を実際の内容とは別な次元で決定することになる。
 
 
実体的ではないもの
わたしは「メッセージ・イン・ボトル」という言い方をしている。
メッセージ・イン・ボトルにとって、皮相なものとして注目するとすれば、「ボトルのなかのメッセージ」ではなく、「メッセージを入れたボトル」のほうになるだろう。
前者を文意と呼び、後者を実体と呼ぶことにする。
 
 
観念的であることは実体的であることを欠いている。
人間の本質を問うとき、論者はしばしば「こころ」の領域を持ち出す。
しかしこころは目に見えない。目に見えないからこそ大切なのだと説いたのは星の王子さまだったが、見えないものはそれが見えないという一事によって実在としての説得力を欠いてしまっている。かつて少年犯罪の多発に、識者は名状できない犯罪少年の心理に「こころの闇」という言葉をあてがった。たしかな存在感を持っていても、それを実在ならしめるひかりを当てることができないもの。こころは、そうした不可侵の領域といえる。
 
 
話が逸れたようだが、『大いなる助走』における「日記/小説」の対比である、公開されるべくもない日記的なものと、公開し誰かに読まれることが期される小説的なものには、その文の筆者の観念が常に通奏していることはたしかだ。日記にせよ小説にせよ、観念的なものを可読的なものに変換していくという手順があるのだから。
日記のネタとしての観念的なものを小説のネタとして使用するときに起っていることを考えると、日記にせよ小説にせよ、そしてブログの記事にせよ、それらのネタとして応用できる人間の観念は、言葉によって具体性を帯びることができる不可視の素材であるということがわかる。これは当たり前なことではあるが、観念を文章化することの過程にその文章の(内容の、ではない)実在感や存在感を左右する力があることを思うにつけ、単に文章のうまいへたの話では収まらない。
 
 

観念的なものについて

観念的であるもの
観念について考える。
たとえば「きみの言っていることは観念的に過ぎる」と言われるとき、言っていることが具体的ではないことによって、聞き手の理解が流暢に運ばないというシチュエーションがある。観念が観念であるままでは意思の疎通に都合が悪い。あいだに具体的な表現行為を介さなければならない。具体的なもの。たとえば、わたしたちが実際に生きている世界のような。
言葉についての思考を深めた哲学者を解説した文に以下のようなものがある。
 
ヴィトゲンシュタインによると、言葉は、世界について述べているときに意味があり、そうでないときには意味がないのです。そこで言葉は、言葉自身について述べたり、まして、世界と言葉の関係について述べたりすることはできないはずである。(橋爪大三郎『「心」はあるのか』,2003,p95)
 
ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものはには沈黙しなければならない」という言葉で有名な哲学者だ。彼の思想に降りていくことは控えるが、わたしは、彼が語りえぬものと見なした領域をつまませてもらうことにする。
「人と人はわかりあえない」 と言うとき、そこには顔と肚の二元論が働いている。引用した橋爪大三郎の言い方に寄せるなら、人間は言葉であり、言葉が世界を指示する。顔は世界に属し、顔について言葉で(もしくは〝言葉が〟)語ることには意味がある。しかし肚は世界に属さない。言葉は肚のなかの観念と結びつき発せられるとして、その領域は世界に属する顔とは別次元にある。世界と言葉の関係を取り決めている(とされる)のが肚だ。肚は観念がそうであるようにそれだけでは具体的ではない。人間は具体的ではないものを自他のあいだで共有できたと確かめられる明確な基準を持たない(しかしそれは存在しないとは言えない)。顔がありそして肚もある人間は、畢竟、わかりあえない。
ヴィトゲンシュタインの思想からわたしが拝借したいのは、顔と肚との二元論性が一元的であるほかない言葉によって一元化されてしまうということだ。顔と肚は外見と内面という二分法によって分けられがちな人間を示している。世界は「この世とあの世」というふうに言葉上では二元論的に語ることができるが、自分と他人とのあいだで人間が共有できるのはさしあたり、「この世」のことだけである。そして、いみじくも星の王子さまが「大切なもの目に見えない」と言ったように、身分的には「あの世」と肚は同じである。それゆえに一元論的な言葉による意味のあるコミュニケーションにおいて、俎上に乗せられるのは顔のレベルだけであることになる。
 
 
わたしはまた、伊藤亜紗の発言を思い出す。彼女は『どもる体』の刊行記念のトークイベントにて、概ね次のように言っていた。
 
「わたしは「身体性」というような、一度名詞化した後で形容詞化することが嫌い。現実から離れていってるので。なんか防御膜を張っているようで、嫌い。」(伊藤亜紗,ドミニク・チャン,石川善樹,「どもる体で考える」2018/07/06,19:58頃――文責はわたしの耳と記憶にある。)
 
言い換えれば伊藤の感受性では、 〝世界について〟は有意味だが、〝世界性について〟は言語化という具体化の操作を加えながら、具体的であることをためらい、「○○性」という観念的な抽象表現のレベルにあるので、言葉としては顔と肚のあいだでどっちつかずの態を見せている、といったところだろう。
 
 
卑近なところでは履歴書に書けるのかどうか、という話としても理解できる。
自分がどんな人間なのか。これまで何をしてきたのか。それを他人(つまり、読者に!)に説明するのに、自分らしさ(これは〝自分性〟と言ってもいい)を自分の経歴とは無関連に創造することはナンセンスだ。重要なのは実際に自分が取り組んできたことであり、世界に属しているものとしての自分の顔なのである。それゆえにわたしたちは何事も肚よりも顔をベースにして生きたほうが健全だ、という謂いも十分に可能なのだ。
 
 
観念を具体化すること
顔には目鼻がある。または、目鼻があるからそれを顔だと認知できる。
対人関係が顔をベースになされるからこそ、フェアなゲームができる。肚の探りあいが、関係性としての健全さを有するとは言えない。それに比べ、顔は客観的である。
この場合の顔というのは広く輪郭を有した表現のことだ。探偵小説において探偵が訪問者の状況をその服装や言葉遣いなどから読み取るときのように、当てずっぽうではないたしかさを持っているということだ。それがあるからこそ自他間における有意味なコミュニケーションが成立する。たとえ誤解が生じようとも、まったく根拠のないイカれた理解は生じないだろう。なぜなら顔は具体的なのだから。
 
 
日記にせよ小説にせよ、すべて表現は観念の土壌から芽吹く。観念の具体化としてのすべての表現行為は、受肉に相当する。 
そういえば、「わたし」もまた観念ではなかろうか。観念と呼ぶことがあまりに直截であれば準観念の言い方でもいい。
自己表現が痛切なものとなるのはこの意味でだ。
「わたし」は生体として生きているのだが、「わたし」という観念が生きるには、ただ生理的な正常さや、生物としての活動ができるというだけではだめなのだ。
厄介なことに、「わたし」への配慮が不足していると、心身症になり、生体としての健康を損ないもする。
 
 
 

文意と実体、そして読者

自分もまた読者である
ブログの記事の執筆に話を戻そう。
筆者と文章とのあいだに読者はいる。
メッセージ・イン・ボトルが海洋に放られるとき、観念の漂流者は自らの実在を賭けて文章を書く。メッセージは実際に誰かに読まれなくても、その意味を損なわない。しかしそれは誰かがボトルを開封した際に、読めなければ達せられないような意味でもある。
 文意と実体はひとつごととして結びついている。
その関係を実現するのに、読者という紐帯は存在する。
 

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わたしは、その読者へと奉仕する。
それはしかし他人としての読者のみに向けられた指向ではない。
自分もまた読者なのであり、おもしろがらせるという配慮を向けるべき他人でもあるのだから。
 
 
先に「わたし」もまた観念であると言ったが、筆者もまた「わたし」である。
そのことからわかるのは、表現されるべき観念に向けた書き手のまなざしは、筆者の読者への配慮に比例して深まるということだ。
「日記/小説」のネタとしての観念をどう調理するのか。それは文意が読者に達せられる精度と、観念が実体を獲得する確率への調整である。〝調味〟として理解してもあながち間違いではないだろう。
 
 
「心技体」を思い出す 
わたしは文意としての「わたし」と、実体としての作品のイメージから、「心技体」の言い方を思い出す。あれは武道における自らの力を発揮するための要素的条件だった。
 
想いの強さ=心
技術の巧さ=技
体の丈夫さ=体
 
ざっくりとした理解では以上のようなもので間違いないだろう。
それはブログを書くことにも言える(それだけではなく、広く表現行為に適用できる)。
わたしが書いているこの文章に引きつけて解釈するならば、メッセージ・イン・ボトルとしての「心技体」は以下のようにパラフレーズできる。
 
観念の実在=文意(心)
読者の存在=配慮(技)
作品の体裁=実体(体)
 
細かな文字の選抜の多少の異同は、読者の言語感覚の質ごとにあるかもしれないが(わたし自身においてさえある)、おおむねそのように解釈できる。
 
 
ひとまず、本文はここまでにしておく。
脳髄がこの話題に関して、これ以上集中力を分配したくないらしい。打ち留めだ。
 
 
 
No Reader,No Writing.
わたしは、読者への配慮を考えるためにここまで筆を運んだ。
しかし、わたしは読者をしばしば見失う。
読者からはぐれ、さまよい、また読者と出会う。
そのようなことを執筆中に何度か繰り返す。
わたしはもしかすると、個別の読者を識別していないのかもしれない。
さっきまで連れ添っていた読者と、いま隣にいる読者が違っているのか、同じなのか。その区別が付いていないのかもしれない。
わたしが物を書くとき、いつもそうした不安を感じている。
この文章で書き描いてきたところを真に受けるなら、読者なしにわたしは文を書けないのだから。
 
「あなた」なしに「わたし」はいない。
 
 
最後に、以下の文言を付して、擱筆とする。
 
人は他者と意志の伝達がはかれる限りにおいてしか自分自身とも通じ合うことができない。それは他者と意志の伝達をはかるときと同じ手段によってしか自らとも通じ合えないということである。
かれは、わたしがひとまず「他者」と呼ぶところのものを中継にして――自分自身に語りかけることを覚えたのだ。
自分と自分との間をとりもつもの、それは「他者」である。
ポール・ヴァレリー『カイエ』23・790‐91,恒川邦夫訳「現代詩手帖」9,1979,p108)

 

_了

 

 

新装版 大いなる助走 (文春文庫)

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ゲンロン0 観光客の哲学

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どもる体 (シリーズ ケアをひらく)

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現代詩手帖 1979/9

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*1:「存在感」と書いた。この言葉は「実在感」とはニュアンスが違っている。混乱しないために説明書きを加える。実在感はそれが事実としてあるかどうかのたしかさが問われる。それに対して、存在感はそれが自分にとって対象としてあるかどうかのたしかさが問われる。