can't dance well d'Etre

経験不足のカラダと勉強不足のアタマが織りなす研究ノート

【800字】読者へ。読者として ~教わった通りに読むことと自分自身の隠蔽~【デッサン#4】

冒険的にエッセイ調で字数をきっかり決めて書いてみるシリーズの4回目。字数は800字。勢い込んで書いてみます。この記事では素朴な読者の文の読み方をネタにして、読者になるとは何なのかについてを。以下より。

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読者になるとはどういうことなのでしょうか。自分が他人の書いた文章を読むときには意識には及ばなくども、自分の書いた文章を他人が読むとき、そうした問いはむくりと頭を擡げます。とりわけ素朴な読者――読書家ではないひとに読まれるときに、強く意識させられるのです。

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読書家はさまざまな本を読み、多様な文体に接していることで、ある種の言葉遊びに対応できる姿勢が身についているように思われます。言葉遊びは、たとえば連想ゲームもそうですし、象徴を読み解く解釈のゲームなどもそうです。何かを読むと言う行為が「自分が読んでいる」と共に「自分が読まれている」、そうした状況を楽しむことができるようになっている。いわば読書は読んでいる自分と読んでいる本との、〈読者であること〉の奪い合いだと言えます。そういったゲームを楽しめるのかどうか。それが読書家のひとつの説明になるでしょう。

他方で、読書家ではないひとたちはどうなのかと言うと、こう言ってよければ〝遊びがない〟のです。自分が教わった通りかどうかで文を読んでいる。しかしそれに自覚がないので、「君の名は」は納得しても「君の名は。」は変だと感じ、「~しますが、」は許せても「~ますが。」は許容できないのです。――私はこうした、文章を読むことに対する素人であるかのような姿勢を興味深く思います。ハイデガーが「世人 das Man」と呼んだ、自分に関する事柄を世間の価値基準の方から了解し、対象そのものの本性と共に自分自身が何であるかという個性を隠蔽していることの消息を読み取ることもできるようでさえあります。

とはいえ、読書家もまた以上の如き素朴な読者から読書を出発したはずです。しかし今や(私も含めて)素朴な読者の方に奇妙な感じを覚えてしまうとすれば、それは世人が自分自身を隠蔽してしまっているように、素朴な読者でありえる自分自身を隠蔽してしまっているとは言えませんでしょうか

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私たちは〝つねに、すでに〟目隠しをしてそれに耽っているのです。

_了